親権制度の大転換と野党 ― 2025年11月01日
来年4月、日本の親権制度は戦後以来の大転換期を迎える。改正民法により、離婚後も父母が共同で親権を持つ「共同親権」が選択可能となるこの制度は、「離婚は夫婦関係の解消であって、親子関係の断絶ではない」という、国際的にも標準的な理念に基づくものだ。子どもに対する責任は、父母が離婚後も共有すべきだというこの理念自体は、極めて明快で合理的である。しかし、国会審議では、この歴史的転換点となる制度に対し、一部野党が強い抵抗を見せた。日本共産党やれいわ新選組は、DVや虐待の加害者が親権を持ち続けることで被害者や子どもへの支配が続くという「運用のリスク」を前面に掲げ、制度そのものの導入に反対し、立憲民主党も賛成しつつ附帯決議で制限を求めるなど、慎重姿勢に終始したのだ。
ここで浮き彫りになるのは、日本の政策論議が抱える構造的な欠陥、すなわち「制度理念」と「運用リスク」の混同という病理である。共同親権が目指すのは、両親が離婚後も子どもに責任を持つという普遍的な原則の確立であり、DV事案などは、その原則を実現するにあたって、制度設計の中で制御すべき「例外的な課題」に過ぎない。にもかかわらず、野党の一部は、この例外的なリスクを理由に制度全体を否定するという、論理的に倒錯した構造に陥ってしまっている。これはあたかも、包丁が人を傷つけるリスクがあるからといって、その生産や販売を全て禁止せよと主張するに等しい、制度設計能力の欠如と映る。
そして、この病は共同親権に限定されるものではない。スパイ防止法やセキュリティークリアランス法における「国家安全保障」という理念と「恣意的運用」という懸念の分離拒否、さらには教育無償化や生活保護制度の見直し、憲法の見直しで9条や緊急事態条項といったあらゆる政策分野で繰り返されてきたのだ。制度の理念には賛同を示しながらも、具体的な運用リスクを声高に叫ぶことで制度創設自体を否定するこの姿勢は、結果として、国民が求める政策実現を遅らせ、立法府の議論を空転させている最大の原因である。
国際標準がすべて日本文化に適合するとは限らないが、制度と運用を峻別せず、懸念点を克服するための「制御の工夫」を放棄し、制度の否定に終始することは、立法府の責任放棄に等しいと言わざるを得ない。共同親権制度をめぐる議論は、私たち日本の政治が、普遍的な理念をいかに現実の法制度に落とし込み、運用上の課題を民主的統制によって乗り越えていけるのかを問う、重要な「政治の試金石」となるだろう。それにしてもこうした野党の幼稚な議論の繰り返しに国民はうんざりしていることに当事者が気づかないというのが一番問題なのだが。
ここで浮き彫りになるのは、日本の政策論議が抱える構造的な欠陥、すなわち「制度理念」と「運用リスク」の混同という病理である。共同親権が目指すのは、両親が離婚後も子どもに責任を持つという普遍的な原則の確立であり、DV事案などは、その原則を実現するにあたって、制度設計の中で制御すべき「例外的な課題」に過ぎない。にもかかわらず、野党の一部は、この例外的なリスクを理由に制度全体を否定するという、論理的に倒錯した構造に陥ってしまっている。これはあたかも、包丁が人を傷つけるリスクがあるからといって、その生産や販売を全て禁止せよと主張するに等しい、制度設計能力の欠如と映る。
そして、この病は共同親権に限定されるものではない。スパイ防止法やセキュリティークリアランス法における「国家安全保障」という理念と「恣意的運用」という懸念の分離拒否、さらには教育無償化や生活保護制度の見直し、憲法の見直しで9条や緊急事態条項といったあらゆる政策分野で繰り返されてきたのだ。制度の理念には賛同を示しながらも、具体的な運用リスクを声高に叫ぶことで制度創設自体を否定するこの姿勢は、結果として、国民が求める政策実現を遅らせ、立法府の議論を空転させている最大の原因である。
国際標準がすべて日本文化に適合するとは限らないが、制度と運用を峻別せず、懸念点を克服するための「制御の工夫」を放棄し、制度の否定に終始することは、立法府の責任放棄に等しいと言わざるを得ない。共同親権制度をめぐる議論は、私たち日本の政治が、普遍的な理念をいかに現実の法制度に落とし込み、運用上の課題を民主的統制によって乗り越えていけるのかを問う、重要な「政治の試金石」となるだろう。それにしてもこうした野党の幼稚な議論の繰り返しに国民はうんざりしていることに当事者が気づかないというのが一番問題なのだが。