長嶋茂雄逝く ― 2025年06月03日

長嶋茂雄が亡くなった。その報に接したとき、まず思い出したのは、子供の頃の夏の日の光景だった。テレビの前で、巨人ファンの親父が長嶋・王のアベックホームランに大声で歓声を上げる。一方、隣の阪神ファン一家は、長嶋が空振り三振するたびに拍手と歓声で応じる。エアコンがまだ普及していなかったあの時代、窓から入り込む両家の応援合戦が、夏の風物詩のように喧しかった。だが、いま思えば、それもまた懐かしく、温かな記憶である。実家では父だけが巨人ファンで、母も兄弟もみな阪神派だった。けれど、父の機嫌を損ねたくなかった自分は、心の中で阪神を応援しつつも、家を出るまで"隠れ阪神ファン"として振る舞っていた。それでも、長嶋茂雄と王貞治、この二人のスターは、誰にとっても別格の存在だった。
長嶋茂雄は、巨人の黄金時代を築き上げ、「ミスタープロ野球」として数え切れないほどのファンに愛された。立教大学から巨人に入団し、1年目で新人王を獲得。阪神との伝説の天覧試合では、村山実投手からサヨナラ本塁打を放ち、プロ野球ブームを巻き起こした。現役時代は、王貞治との「ONコンビ」として活躍し、巨人のV9達成に大きく貢献した。引退時の「わが巨人軍は永久に不滅です」という言葉は、今も多くの人の記憶に残る名フレーズであり、その背番号3は永久欠番となった。通算成績は打率3割5厘、2471安打、444本塁打、1522打点。首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回という輝かしい記録を残している。監督としても巨人を率い、リーグ優勝5回、日本一2回を達成。なかでも、王監督率いるダイエーとの「ON対決」は、プロ野球ファンにとって夢の舞台だった。晩年は病と闘いながらもリハビリを続け、野球界への情熱を失わなかった。野球殿堂入り、国民栄誉賞、文化勲章など、日本スポーツ界に不滅の名を刻んだその姿は、永遠に語り継がれていくだろう。
王貞治と長嶋茂雄。日本プロ野球を象徴するこの二人は、それぞれ異なる魅力を放っていた。王は、精密なバッティングと一本足打法で868本塁打を記録。冷静でストイックな性格と、結果を追求する姿勢が印象的だった。一方、長嶋は豪快で華やかなプレースタイルに加え、ユーモアとカリスマ性で観客を魅了した。王が「記録の男」なら、長嶋は「記憶の男」だった。あえてたとえるなら、王は緻密で高性能な日本車のような存在。長嶋は、よくエンストするけれど、華麗で馬力のあるアメリカ車のようだった。どちらも魅力的で、どちらも大好きだった。ミスタープロ野球、長嶋茂雄氏のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
長嶋茂雄は、巨人の黄金時代を築き上げ、「ミスタープロ野球」として数え切れないほどのファンに愛された。立教大学から巨人に入団し、1年目で新人王を獲得。阪神との伝説の天覧試合では、村山実投手からサヨナラ本塁打を放ち、プロ野球ブームを巻き起こした。現役時代は、王貞治との「ONコンビ」として活躍し、巨人のV9達成に大きく貢献した。引退時の「わが巨人軍は永久に不滅です」という言葉は、今も多くの人の記憶に残る名フレーズであり、その背番号3は永久欠番となった。通算成績は打率3割5厘、2471安打、444本塁打、1522打点。首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回という輝かしい記録を残している。監督としても巨人を率い、リーグ優勝5回、日本一2回を達成。なかでも、王監督率いるダイエーとの「ON対決」は、プロ野球ファンにとって夢の舞台だった。晩年は病と闘いながらもリハビリを続け、野球界への情熱を失わなかった。野球殿堂入り、国民栄誉賞、文化勲章など、日本スポーツ界に不滅の名を刻んだその姿は、永遠に語り継がれていくだろう。
王貞治と長嶋茂雄。日本プロ野球を象徴するこの二人は、それぞれ異なる魅力を放っていた。王は、精密なバッティングと一本足打法で868本塁打を記録。冷静でストイックな性格と、結果を追求する姿勢が印象的だった。一方、長嶋は豪快で華やかなプレースタイルに加え、ユーモアとカリスマ性で観客を魅了した。王が「記録の男」なら、長嶋は「記憶の男」だった。あえてたとえるなら、王は緻密で高性能な日本車のような存在。長嶋は、よくエンストするけれど、華麗で馬力のあるアメリカ車のようだった。どちらも魅力的で、どちらも大好きだった。ミスタープロ野球、長嶋茂雄氏のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
年金「底上げ」法通過 ― 2025年06月02日

基礎年金を底上げするための年金制度改革法案。その修正案が、自民・公明・立憲民主の3党によって、あっという間に衆議院を通過した。スピード重視で国会会期中の成立を優先した結果、肝心の財源問題などは先送りされたままだ。立憲民主党は与野党で話し合う場を設けるよう求めたが、石破首相は応じなかった。与党も野党第一党も、夏の参院選をにらみながら、政治的な思惑を優先して採決を急いだというのが実情だろう。自民党としては、やっかいな年金問題を選挙の争点から外したい。一方の立憲民主党は、政府案に自らの主張を取り込ませることで、「成果」をアピールしたい。そんな両者の利害が一致した結果のスピード採決だった。3党の協議では、厚生年金の積立金を使うという点で折り合ったものの、制度全体のあり方や、今後の財源をどうするかといった根本的な議論は深まらないまま。野党の一部は採決の強行に抗議し、自民党の河野太郎前デジタル相も「議論が足りない」として採決前に退席した。一方、世間の空気はというと、ちょうど「コメ騒動」まっただ中。小泉農水相が持ち出した米政策に世論が振り回され、年金への関心はすっかりかき消されてしまった。政治的には「絶好のタイミング」だったのかもしれない。そんな状況の中で、重要法案がひっそりと、するりと通ってしまった。
そもそも基礎年金は、2005年にマクロ経済スライドという仕組みを導入し、人口動態や物価の変化に応じて自動的に調整される制度になった。納める人が減れば給付も減る――そんなことは最初から分かっていたのに、小泉首相は「100年安心」と言い切り、あたかも問題は解決したかのように振る舞った。ところが、やはり現実はそう甘くない。2010年代になると財源不足が深刻になり、野田政権は政府が基礎年金の半分を負担すると決め、その財源を確保するために消費税を倍にした。そして今回。将来、月7万円だった基礎年金が5万円に減るかもしれないという見通しのもと、厚生年金の積立金を使って、その目減りを防ごうというのが、今回の底上げ法案である。「年金が減るのなら、積立金を使って食い止めるべきじゃないか」という声はもっともらしく聞こえる。だが、ことはそう単純ではない。今回の法案には「4年後までに検討する」という文言があるだけで、積立金を本当に使うかどうかすら明言されていない。その後どうするかは、まるで未定だ。
議員たちは口をつぐんでいるが、おそらく誰もが心のどこかで「このままでは足りない」と思っている。だからこそ、次の一手として、専業主婦にも年金保険料を納めてもらうか、あるいはまた増税するか、という議論が控えていることは想像に難くない。他党の議員たちは「そんな大事なことを国会で議論せず、選挙目当てで底上げだけ決めるなんて」と批判する。確かにその通りだろう。自民、公明、立民という3党の「協調」は、選挙後の増税路線をにらんだ布石でもあるのかもしれない。その一方で、国民の関心は、コメの価格にばかり向いている。減税の議論も、年金制度の将来も、今やかき消されてしまった。もちろん、メディアの責任は大きい。でも、そんな報道に振り回されるばかりの姿を「それが日本のレベル」と言われたら、悔しいけれど返す言葉がない。
そもそも基礎年金は、2005年にマクロ経済スライドという仕組みを導入し、人口動態や物価の変化に応じて自動的に調整される制度になった。納める人が減れば給付も減る――そんなことは最初から分かっていたのに、小泉首相は「100年安心」と言い切り、あたかも問題は解決したかのように振る舞った。ところが、やはり現実はそう甘くない。2010年代になると財源不足が深刻になり、野田政権は政府が基礎年金の半分を負担すると決め、その財源を確保するために消費税を倍にした。そして今回。将来、月7万円だった基礎年金が5万円に減るかもしれないという見通しのもと、厚生年金の積立金を使って、その目減りを防ごうというのが、今回の底上げ法案である。「年金が減るのなら、積立金を使って食い止めるべきじゃないか」という声はもっともらしく聞こえる。だが、ことはそう単純ではない。今回の法案には「4年後までに検討する」という文言があるだけで、積立金を本当に使うかどうかすら明言されていない。その後どうするかは、まるで未定だ。
議員たちは口をつぐんでいるが、おそらく誰もが心のどこかで「このままでは足りない」と思っている。だからこそ、次の一手として、専業主婦にも年金保険料を納めてもらうか、あるいはまた増税するか、という議論が控えていることは想像に難くない。他党の議員たちは「そんな大事なことを国会で議論せず、選挙目当てで底上げだけ決めるなんて」と批判する。確かにその通りだろう。自民、公明、立民という3党の「協調」は、選挙後の増税路線をにらんだ布石でもあるのかもしれない。その一方で、国民の関心は、コメの価格にばかり向いている。減税の議論も、年金制度の将来も、今やかき消されてしまった。もちろん、メディアの責任は大きい。でも、そんな報道に振り回されるばかりの姿を「それが日本のレベル」と言われたら、悔しいけれど返す言葉がない。
シニアの心得 ― 2025年05月31日

久しぶりに、かつての同僚たちとの同窓会に顔を出した。最高齢は七十五歳、下は六十三歳まで。悠々自適に好きなことに没頭している者もいれば、七十を前にしてなお再雇用で働き続けている者もいる。人生の歩みは、それぞれに異なる。私はというと、何かに縛られるのがどうにも性に合わず、退職して以来、仕事からは遠ざかっている。だが一方で、再雇用に精を出す仲間は少なくない。理由を尋ねると、「暇で仕方がない」「自由になっても、何をしていいか分からない」といった答えが返ってきた。自由とは、手に入れた瞬間にその重さに戸惑うものなのかもしれない。
定年後の話題は、誰かが患った大病の話から、孫が増えたという微笑ましい報告まで、実にさまざまだ。だが、「これから何を課題とし、どう生きてゆくか」といった問いを口にする者はほとんどいない。ただ、今を生きるということは、単に働くということではなく、その先の生き方を思い描くことではないか。そうした話を誰かと交わしたいと願うのだが、それを口にするのはどこか気恥ずかしいのか、皆あえて避けているようにも思える。再雇用で働くのは、それはそれで立派なことだ。けれども、どこかで“主流”から外れ、“傍流”に身を置くような感覚が付きまとう。そんな立ち位置に、私はふとした寂しさを覚えるのだ。余暇を楽しみ、日々に充実感を求めるのも悪くはない。だが、それだけでは何かが足りない。歳を重ねた者が人生を語ることに遠慮を感じさせるこの空気の中に、私はなかなか居場所を見いだせずにいる。
皆、かつて教育の現場で、それぞれの信念を持って働いていた仲間たちだ。にもかかわらず、職を離れると、とたんに語る言葉を失ってしまうのは、どうしてなのだろう。語るべきものが、もう何も残っていないのだろうか。他愛もない近況を、途切れることなく語り合う輪の中で、私だけがどこか所在なげにその場に佇んでいるような気がした。そして、その静かな寂しさが、胸の奥にじんわりと広がっていった。
定年後の話題は、誰かが患った大病の話から、孫が増えたという微笑ましい報告まで、実にさまざまだ。だが、「これから何を課題とし、どう生きてゆくか」といった問いを口にする者はほとんどいない。ただ、今を生きるということは、単に働くということではなく、その先の生き方を思い描くことではないか。そうした話を誰かと交わしたいと願うのだが、それを口にするのはどこか気恥ずかしいのか、皆あえて避けているようにも思える。再雇用で働くのは、それはそれで立派なことだ。けれども、どこかで“主流”から外れ、“傍流”に身を置くような感覚が付きまとう。そんな立ち位置に、私はふとした寂しさを覚えるのだ。余暇を楽しみ、日々に充実感を求めるのも悪くはない。だが、それだけでは何かが足りない。歳を重ねた者が人生を語ることに遠慮を感じさせるこの空気の中に、私はなかなか居場所を見いだせずにいる。
皆、かつて教育の現場で、それぞれの信念を持って働いていた仲間たちだ。にもかかわらず、職を離れると、とたんに語る言葉を失ってしまうのは、どうしてなのだろう。語るべきものが、もう何も残っていないのだろうか。他愛もない近況を、途切れることなく語り合う輪の中で、私だけがどこか所在なげにその場に佇んでいるような気がした。そして、その静かな寂しさが、胸の奥にじんわりと広がっていった。
脳の自浄機能と認知症 ― 2025年05月30日

叔母の葬儀に行った。長い間施設で暮らしていたため、ほとんど会うことはなかったが、祖母と同じ顔をして静かに眠っていた。会えなかったのは、認知症のために亡くなった父と顔が似ている自分が面会すると、叔母が大混乱を起こすので、施設側から面会を控えてほしいと要請されたためである。父は亡くなる前、よく行方不明になり、家族に迷惑をかけ、最終的には認知症で施設暮らしになった。叔母の場合は、早い時期から「盗難にあった」と騒ぐことがよくあった。そういえば、祖母も孫が来ているのに「何を盗りに来たのか」と訝しむことがよくあった。叔父も父の葬儀のあと、「手切れ金だ」と言って金を渡してきた。おそらく、甥である自分から何か物心を奪われるのではと不安になったのだろう。症状は様々だが、父方の家系は相手の気持ちが読みづらい気質に加え、老齢期には認知症が重なる傾向があるようだ。自分にも思い当たる節がある。
認知症は日本の超高齢社会において深刻な問題であり、65歳以上の5人に1人が発症すると予測されている。しかし、加齢だけが認知症の原因ではなく、最大の要因は「脳のゴミ」と呼ばれる老廃物の蓄積である。特にアルツハイマー型認知症では、アミロイドβというたんぱく質が脳内に蓄積し、続いてタウたんぱく質の異常が発生することで神経細胞が死滅し、記憶障害や判断力の低下などの症状が現れる。レビー小体型認知症では、αシヌクレインというたんぱく質が蓄積し、幻視や運動障害を引き起こす。前頭側頭型認知症では、前頭葉や側頭葉の萎縮とともに特定のたんぱく質が異常に蓄積し、性格や社会的行動の変化が初期症状として現れる。なお、血管性認知症は脳梗塞や脳出血が主な原因であり、「脳のゴミ」とは直接関係しない。
脳の老廃物は発症の20~30年前から蓄積が始まり、その排出には「グリンパティックシステム」と呼ばれる脳の自浄機能が重要である。このシステムは深い睡眠中に最も活発に働き、脳脊髄液の循環を促進してアミロイドβなどの老廃物を洗い流す。しかし、睡眠不足や質の悪い睡眠、ストレス、免疫力の低下、不適切な食事などがこの機能を低下させ、脳のゴミの蓄積を促進するという。認知症予防のためには、質の高い睡眠を確保することが不可欠であり、起床時間を守って体内時計を整え、朝起きてすぐに光を浴びること、日中の適度な運動、午後のカフェイン摂取を控えること、就寝前の強い光を避けること、快適な睡眠環境の維持、就寝3時間前からの食事制限、そして毎晩同じルーティンを行うことが推奨される。認知症の主な原因である「脳のゴミ」の蓄積を防ぐには、日々の生活習慣の見直しと質の良い睡眠の維持が最も重要であるとされる。しかし自分の生活を振り返ると、PCによる夜更かし、朝寝坊、運動不足と、脳の自浄機能を阻害することばかりして定年期を過ごしている。DNAの呪縛には歯向かえぬとは言え、加速させてどうするのか。「やばいやばい」と思いながら布団に入った。
認知症は日本の超高齢社会において深刻な問題であり、65歳以上の5人に1人が発症すると予測されている。しかし、加齢だけが認知症の原因ではなく、最大の要因は「脳のゴミ」と呼ばれる老廃物の蓄積である。特にアルツハイマー型認知症では、アミロイドβというたんぱく質が脳内に蓄積し、続いてタウたんぱく質の異常が発生することで神経細胞が死滅し、記憶障害や判断力の低下などの症状が現れる。レビー小体型認知症では、αシヌクレインというたんぱく質が蓄積し、幻視や運動障害を引き起こす。前頭側頭型認知症では、前頭葉や側頭葉の萎縮とともに特定のたんぱく質が異常に蓄積し、性格や社会的行動の変化が初期症状として現れる。なお、血管性認知症は脳梗塞や脳出血が主な原因であり、「脳のゴミ」とは直接関係しない。
脳の老廃物は発症の20~30年前から蓄積が始まり、その排出には「グリンパティックシステム」と呼ばれる脳の自浄機能が重要である。このシステムは深い睡眠中に最も活発に働き、脳脊髄液の循環を促進してアミロイドβなどの老廃物を洗い流す。しかし、睡眠不足や質の悪い睡眠、ストレス、免疫力の低下、不適切な食事などがこの機能を低下させ、脳のゴミの蓄積を促進するという。認知症予防のためには、質の高い睡眠を確保することが不可欠であり、起床時間を守って体内時計を整え、朝起きてすぐに光を浴びること、日中の適度な運動、午後のカフェイン摂取を控えること、就寝前の強い光を避けること、快適な睡眠環境の維持、就寝3時間前からの食事制限、そして毎晩同じルーティンを行うことが推奨される。認知症の主な原因である「脳のゴミ」の蓄積を防ぐには、日々の生活習慣の見直しと質の良い睡眠の維持が最も重要であるとされる。しかし自分の生活を振り返ると、PCによる夜更かし、朝寝坊、運動不足と、脳の自浄機能を阻害することばかりして定年期を過ごしている。DNAの呪縛には歯向かえぬとは言え、加速させてどうするのか。「やばいやばい」と思いながら布団に入った。
生活習慣病管理料の見直し ― 2025年05月24日

3カ月に一度の定期受診。今回も体重測定があり、電子カルテのチェックリスト形式の問診を受ける。今回は主治医が交代していたため、「また一から質問されるのか」と思っていたが、どうやらこれは医師が変わったからではないらしい。実は、2024年度の診療報酬改定によって導入された、新しい制度の一環だという。今回の改定では、「生活習慣病管理料」という仕組みが見直され、患者ごとに療養計画書を作成し、毎回の診察でチェックリストに沿って生活習慣の確認や指導を行うことが求められるようになった。目的は、重症化を防ぐことと、患者の自己管理を促すこと。確かに、生活習慣を定期的に見直すことで、健康への意識は高まるかもしれない。医師との会話も増え、治療のモチベーションにつながるという評価もある。
けれども、現場で感じるのは少し違う空気だ。毎回、同じ質問。診察室で繰り返される問診は、正直なところ形ばかりになりつつある。医療スタッフの負担も増え、診察時間は長くなる一方。症状のない患者からすれば、なぜ毎回同じことを聞かれるのかと疑問もわく。実際、私も血圧は自宅で毎日測り体重も体組成計で測定し、万歩計で歩数も自動記録。スマホのグラフ表示を診察室で見せれば、医師がつけるチェックリストとほぼ同じ内容がそこにある。それでもマニュアルに従って問診が続く。この制度のせいか、診察の待ち時間もずいぶん長くなった。丁寧な対応と評価する人もいるだろうが、急いでいるときには正直しんどい。ましてや、家庭でこまめに記録し、グラフまで作って見せるような患者にとっては、同じ話を繰り返すのは非効率に感じる。
今回も医師に「毎月2キロ落としましょう」と言われたので、「水飲んでも太るんで難しいです」と笑って返したら、「スマホで食事を撮ってアプリでカロリー計算してみましょう」と、真顔で返された。以前の3分診療が、気づけば10分に。待っている人たちにはちょっと申し訳ない。丁寧であることは悪くない。でも、親切すぎるとちょっと重たい。そんな不思議な気持ちを抱えながら、1,440円を払って病院を後にした。制度の趣旨は立派だ。でも本当に活かすには、現場に合わせた柔軟な運用と、臨機応変な対応が必要なんじゃないかと思う。
けれども、現場で感じるのは少し違う空気だ。毎回、同じ質問。診察室で繰り返される問診は、正直なところ形ばかりになりつつある。医療スタッフの負担も増え、診察時間は長くなる一方。症状のない患者からすれば、なぜ毎回同じことを聞かれるのかと疑問もわく。実際、私も血圧は自宅で毎日測り体重も体組成計で測定し、万歩計で歩数も自動記録。スマホのグラフ表示を診察室で見せれば、医師がつけるチェックリストとほぼ同じ内容がそこにある。それでもマニュアルに従って問診が続く。この制度のせいか、診察の待ち時間もずいぶん長くなった。丁寧な対応と評価する人もいるだろうが、急いでいるときには正直しんどい。ましてや、家庭でこまめに記録し、グラフまで作って見せるような患者にとっては、同じ話を繰り返すのは非効率に感じる。
今回も医師に「毎月2キロ落としましょう」と言われたので、「水飲んでも太るんで難しいです」と笑って返したら、「スマホで食事を撮ってアプリでカロリー計算してみましょう」と、真顔で返された。以前の3分診療が、気づけば10分に。待っている人たちにはちょっと申し訳ない。丁寧であることは悪くない。でも、親切すぎるとちょっと重たい。そんな不思議な気持ちを抱えながら、1,440円を払って病院を後にした。制度の趣旨は立派だ。でも本当に活かすには、現場に合わせた柔軟な運用と、臨機応変な対応が必要なんじゃないかと思う。
「よしもと祇園花月」閉館 ― 2025年05月19日

最近はお笑いを見る機会がめっきり減った。テレビでもたまに吉本新喜劇を目にする程度で、漫才番組はほとんど姿を消してしまった。漫才番組が減少した主な要因としては、制作コストの高さ、芸人のトーク重視へのシフト、そしてYouTubeなど配信媒体の台頭が挙げられる。視聴者の関心はネタよりも芸人の人間性やエピソードトークに向かっており、テレビ局側も安価で制作しやすい番組を選ぶ傾向にある。また、漫才は年に一度の大型特番(M-1など)で注目を集める形式へと移行し、定期的な放送の必要性が薄れてきたという背景もある。そんな中、2025年8月に「よしもと祇園花月」が閉館するというニュースが報じられた。これにより、京都から再び吉本の常設劇場が姿を消すことになる。京都花月劇場から祇園花月へと続いた吉本劇場の歴史は、関西の笑いを育んできた重要な存在であり、その終焉は惜しまれる。
京都花月劇場は、吉本興業が1936年に新京極の中座を買収し、演芸場として開業したのが始まりである。漫才や演芸を中心に関西の笑いを支える拠点となり、戦後の一時休館を経て、1962年に再開。吉本新喜劇の舞台中継なども行われていた。しかし、建物の老朽化や興行の統合を受け、1987年に閉館。京都における吉本の常設劇場は一時的に姿を消すこととなった。その後、2011年に「よしもと祇園花月」が開場。かつて映画館だった祇園会館の劇場スペースを改装し、吉本が京都の笑いの文化を再興させた。漫才や新喜劇に加え、週末には東京吉本の芸人も出演し、多彩な演目が披露された。祇園花月は、再び京都に演芸文化を根付かせる重要な拠点として、多くの観客を魅了してきた。わずか15年での閉館は、漫才や落語といった伝統芸能の衰退を感じさせる出来事でもある。
祇園花月の前身である祇園会館は、かつて映画館として親しまれていた。京都の蒸し暑い夏の夜、涼を求めて3本立ての映画を観に行ったことを思い出す。古い映画やポルノ作品が多く、ほとんど眠ってしまっていたため内容の記憶はあまりないが、涼しい館内で過ごした時間が懐かしい。そんな思い出の場所に吉本が20年ぶりに戻ってきたとき、京都の人々は大いに盛り上がった。ただ、祇園花月は河原町や四条駅からやや離れており、近年ではインバウンドの観光客も多く、八坂神社前にたどり着くのも一苦労だ。外国人観光客にとっては漫才の魅力が伝わりづらいかもしれないが、立地としては最高の観光地にあることから、今後はそれを活かした再開発が進められる可能性もある。結果として、漫才が犠牲になった印象は否めない。今では漫才を見る機会は動画配信が中心になったが、ベテラン芸人の味わい深い芸はアップされない。漫才も落語も、芸人が老年期に入ってからの渋さが面白いのだが、そうした舞台を生で観られる機会は、今後さらに減っていくだろうと思うと、寂しさを感じざるを得ない。
京都花月劇場は、吉本興業が1936年に新京極の中座を買収し、演芸場として開業したのが始まりである。漫才や演芸を中心に関西の笑いを支える拠点となり、戦後の一時休館を経て、1962年に再開。吉本新喜劇の舞台中継なども行われていた。しかし、建物の老朽化や興行の統合を受け、1987年に閉館。京都における吉本の常設劇場は一時的に姿を消すこととなった。その後、2011年に「よしもと祇園花月」が開場。かつて映画館だった祇園会館の劇場スペースを改装し、吉本が京都の笑いの文化を再興させた。漫才や新喜劇に加え、週末には東京吉本の芸人も出演し、多彩な演目が披露された。祇園花月は、再び京都に演芸文化を根付かせる重要な拠点として、多くの観客を魅了してきた。わずか15年での閉館は、漫才や落語といった伝統芸能の衰退を感じさせる出来事でもある。
祇園花月の前身である祇園会館は、かつて映画館として親しまれていた。京都の蒸し暑い夏の夜、涼を求めて3本立ての映画を観に行ったことを思い出す。古い映画やポルノ作品が多く、ほとんど眠ってしまっていたため内容の記憶はあまりないが、涼しい館内で過ごした時間が懐かしい。そんな思い出の場所に吉本が20年ぶりに戻ってきたとき、京都の人々は大いに盛り上がった。ただ、祇園花月は河原町や四条駅からやや離れており、近年ではインバウンドの観光客も多く、八坂神社前にたどり着くのも一苦労だ。外国人観光客にとっては漫才の魅力が伝わりづらいかもしれないが、立地としては最高の観光地にあることから、今後はそれを活かした再開発が進められる可能性もある。結果として、漫才が犠牲になった印象は否めない。今では漫才を見る機会は動画配信が中心になったが、ベテラン芸人の味わい深い芸はアップされない。漫才も落語も、芸人が老年期に入ってからの渋さが面白いのだが、そうした舞台を生で観られる機会は、今後さらに減っていくだろうと思うと、寂しさを感じざるを得ない。
「白雪姫」映画165億赤字 ― 2025年05月06日

ディズニーの実写版『白雪姫』が、大きな赤字を出す見込みだという。報道によれば、その額は約1億1500万ドル(日本円で約165億円)。日本でも、大型連休を待たずに上映終了する映画館が出てくるなど、興行成績はかなり厳しい。ここまで振るわない理由は何なのか? もちろん、一因では済まない。だが、やはり最大の要因は「観客が感じた違和感」だろう。白雪姫といえば、誰もが思い浮かべるのは、あの「雪のように白い肌の少女」。このキャラクターを、ラテン系アメリカ人のレイチェル・ゼグラーさんが演じた時点で、「え?」と感じた人は少なくなかったはずだ。しかも、ゼグラーさんはインタビューで「王子に助けられるなんてナンセンス」と語るなど、古典的なプリンセス像を否定する発言をしていた。フェミニズム的視点としては理解できるが、ディズニーアニメの原作イメージを愛してきた人たちにとっては、これもまた“ズレ”だった。SNSなどでは、「DEI(多様性・公平性・包括性)を優先しすぎて、ファンの感情が置き去りにされたのでは?」という声が目立つ。確かに、今のディズニーはDEI路線を前面に出しており、今回のキャスティングもその一環と見る向きは多い。
もちろん、DEIの理念自体に異論があるわけではない。年齢・性別・人種などに関係なく、誰もが活躍できる社会を目指すことは大切だ。ただ、それをエンタメに過剰に持ち込むと、「物語の自然さ」や「観客の没入感」を損なうリスクがあるのも事実。これは、文化的な“空気”の問題でもある。たとえば、関西が舞台の映画で、関東出身の俳優がなんちゃって関西弁を話していたらどう感じるか? 全国的には気にならなくても、関西の人にはどうしても「違和感」が残る。ディテールの違和感は、積み重なると物語そのものに入り込めなくなる。
「白雪姫=白い肌の少女」というイメージは、多くの人にとって“共有された前提”だった。それを変えるなら、それ相応の物語的な説得力が必要だったのではないか。単に「多様性だから」とキャストを変えただけでは、逆に反発を招くのも当然だろう。今後も映画界にDEIの流れが続くかもしれない。ただし、「誰のための多様性か?」という問いは、常に付いて回る。大事なのは、理念の押し付けではなく、作品世界の中で自然に、説得力をもって受け入れられる形にすること。『白雪姫』の興行不振を「トランプ派の陰謀」や「政治的対立のせい」にしたがる人もいるが、そこまで話を飛ばす必要はない。もっとシンプルに、「観客が物語に共感できなかった」。それがすべてではないだろうか。
もちろん、DEIの理念自体に異論があるわけではない。年齢・性別・人種などに関係なく、誰もが活躍できる社会を目指すことは大切だ。ただ、それをエンタメに過剰に持ち込むと、「物語の自然さ」や「観客の没入感」を損なうリスクがあるのも事実。これは、文化的な“空気”の問題でもある。たとえば、関西が舞台の映画で、関東出身の俳優がなんちゃって関西弁を話していたらどう感じるか? 全国的には気にならなくても、関西の人にはどうしても「違和感」が残る。ディテールの違和感は、積み重なると物語そのものに入り込めなくなる。
「白雪姫=白い肌の少女」というイメージは、多くの人にとって“共有された前提”だった。それを変えるなら、それ相応の物語的な説得力が必要だったのではないか。単に「多様性だから」とキャストを変えただけでは、逆に反発を招くのも当然だろう。今後も映画界にDEIの流れが続くかもしれない。ただし、「誰のための多様性か?」という問いは、常に付いて回る。大事なのは、理念の押し付けではなく、作品世界の中で自然に、説得力をもって受け入れられる形にすること。『白雪姫』の興行不振を「トランプ派の陰謀」や「政治的対立のせい」にしたがる人もいるが、そこまで話を飛ばす必要はない。もっとシンプルに、「観客が物語に共感できなかった」。それがすべてではないだろうか。
パビリオン予約と深夜バトル ― 2025年04月22日

万博パビリオンの抽選にすべて落選したことから、予約日を1週間ずらし、平日に変更した。あわせて、パビリオンの「7日前抽選予約」にも再度挑戦した。今回は夕方に申し込んだ住友パビリオンがなんとか当選した。そもそも、抽選で当選するのは一つだけという仕組みを知ったのは、ごく最近のことである。おそらく説明がどこかにあるのだろうが、もう少しわかりやすい構成にはできないものかと思う。三日前の予約は午前0時から先着順で開始されるシステムとなっている。0時10分にログインすると、すでに待ち時間が表示されていた。システムによれば、操作可能になるまでに5000人のユーザーが並んでおり、15分の待ち時間が必要とのことだった。やむを得ず、少しずつ伸びていく緑色のバーを眺めながら待機し、ようやくシステムにアクセスできたのは0時23分であった。しかしその時点で、人気パビリオンはすでにすべての時間帯が満席となっていた。何のために待たされたのか、まったく理解に苦しむ。
それでも一つは予約しておこうと思い、あまり興味のないパビリオン体験を申し込んだ。水上ショーは当然のように満席で、他のイベントも軒並み予約不可となっていた。この状況では、夜中まで起きて操作する価値はないと感じた。結局のところ、これは人気コンサートのネット先着予約と大差ない構図である。需要が供給を大きく上回っている以上、午前0時ちょうどにアクセスしたとしても、人気パビリオンが予約できる保証はどこにもない。システムの使い勝手に関しても、多くの問題が見られる。検索機能の不便さ、予約手続きの煩雑さが重なり、利用者に大きなストレスを与えている。まず検索性の低さが深刻である。初期状態では何も表示されず、自分で「検索」ボタンを押さないと結果が出てこない仕様となっている。また、検索結果は一度に10件しか表示されず、全体を把握するには「もっと見る」を何度も押さなければならない。フィルター機能も限定的で、予約可能なパビリオンを探し出すのに非常に時間がかかる。「まとめて抽選」機能は、本来であれば複数チケットを持つ利用者にとって便利なはずだが、実際にはグループ内でバラバラにパビリオンが割り当てられるという問題が起きており、システム設計そのものに不備があると考えられる。
さらに、予約可能なパビリオンの詳細情報を確認するのが難しく、全体の計画が立てづらい。マップの拡大性も低く、パビリオン名が表示されないため、位置情報を正確に把握することすら困難である。このような設計の悪さが積み重なり、予約作業は非常にストレスの多いものとなっている。誰がこの仕様を考えたのかは知らないが、すぐ隣にUSJという優れた運営例があるのだから、少しは参考にする気はなかったのかと思ってしまう。当日にも、入場後に順番に予約していくシステムが用意されているようだが、あまりそれに期待を寄せずに行動した方が精神的な負担は少ないと感じた。今回の一連の予約体験を通して、楽しみよりも疲労感の方が強く残ってしまったことが何よりも残念である。多くの高齢者には全く不向きなシステムであることには太鼓判を押したい。
それでも一つは予約しておこうと思い、あまり興味のないパビリオン体験を申し込んだ。水上ショーは当然のように満席で、他のイベントも軒並み予約不可となっていた。この状況では、夜中まで起きて操作する価値はないと感じた。結局のところ、これは人気コンサートのネット先着予約と大差ない構図である。需要が供給を大きく上回っている以上、午前0時ちょうどにアクセスしたとしても、人気パビリオンが予約できる保証はどこにもない。システムの使い勝手に関しても、多くの問題が見られる。検索機能の不便さ、予約手続きの煩雑さが重なり、利用者に大きなストレスを与えている。まず検索性の低さが深刻である。初期状態では何も表示されず、自分で「検索」ボタンを押さないと結果が出てこない仕様となっている。また、検索結果は一度に10件しか表示されず、全体を把握するには「もっと見る」を何度も押さなければならない。フィルター機能も限定的で、予約可能なパビリオンを探し出すのに非常に時間がかかる。「まとめて抽選」機能は、本来であれば複数チケットを持つ利用者にとって便利なはずだが、実際にはグループ内でバラバラにパビリオンが割り当てられるという問題が起きており、システム設計そのものに不備があると考えられる。
さらに、予約可能なパビリオンの詳細情報を確認するのが難しく、全体の計画が立てづらい。マップの拡大性も低く、パビリオン名が表示されないため、位置情報を正確に把握することすら困難である。このような設計の悪さが積み重なり、予約作業は非常にストレスの多いものとなっている。誰がこの仕様を考えたのかは知らないが、すぐ隣にUSJという優れた運営例があるのだから、少しは参考にする気はなかったのかと思ってしまう。当日にも、入場後に順番に予約していくシステムが用意されているようだが、あまりそれに期待を寄せずに行動した方が精神的な負担は少ないと感じた。今回の一連の予約体験を通して、楽しみよりも疲労感の方が強く残ってしまったことが何よりも残念である。多くの高齢者には全く不向きなシステムであることには太鼓判を押したい。
コメ不足の元凶は農協 ― 2025年04月21日

農林水産省は、3月17日から30日までの備蓄米の流通状況を発表した。集荷業者に4,071トンを提供し、そのうち2,761トンが13の卸売事業者に引き渡された。取引価格は市場の相対取引と同水準の60キロあたり22,402円(税抜)であり、値下がりは確認されていない。しかし卸売業者が実際に販売したのは461トンにとどまる。うち35トンが中食・外食業者へ、426トンが小売事業者へ供給されたにすぎない。つまり、市場に出回った量は全体の1割程度に過ぎず、3割以上が集荷業者の在庫に留まっている。本格的な流通は4月上旬からとされているが、果たしてそれで対応が間に合うのか疑問である。江藤農水相は「運送経費のみを上乗せし、利益は含まれていない」と説明し、令和6年産米の相対取引価格との差額が数百円程度であることを強調した。しかし、消費者が本当に知りたいのは政府の卸価格ではない。なぜ21万トンの放出計画がありながら、その1%程度も市場に供給されていないのか。その疑問に対し、政府もメディアも正面から原因を答えていない。
コメの価格は自由化されたとはいえ、実態としては農協が流通の大半を握っている。ゆえに、農協がどのように動いているのかを検証しない限り、価格上昇の原因を特定することはできないはずである。それにもかかわらず、メディアは農協に取材せず、政府発表をそのまま報じるにとどまっている。この背景には、農協や農林中央金庫がメディアの有力なスポンサーであるという事情があるのかもしれない。広告収入や金融支援への依存が、批判的報道を控えさせている可能性も否定できない。当ブログでも2月に指摘した通り、今回のコメ価格高騰は悪徳業者の「売り惜しみ」が原因ではない。農水省自身、昨年夏の需給逼迫について中間業者の売り惜しみが主因ではなかったとの見解を示している。つまり、一昨年からコメが物理的に不足しているのである。
農水省は、令和6年の収穫量が18万トン増加し、需要は30万トン減少すると見込んでいるようだが、過去の傾向を踏まえると、需要の減少は例年5〜10万トン程度である。価格が上昇を続けている現状において、需要が急減しているとは考えにくく、この見通しには無理がある。仮に21万トンが市場に放出されても、4月以降も価格上昇が続くようであれば、これは供給側、今回は農協による売り渋りの影響を疑うのが妥当である。にもかかわらず、メディアはそれを報じようとしない。この沈黙は、農協を批判したくないという意図の表れであろう。
さらに根本的な問題として、減反政策の影響がいまだに色濃く残っている点が挙げられる。政府は2018年に減反制度を廃止したとするが、実際には主食用米から他作物への転作に対して減反政策時期よりも高額の補助金が支給されており、農協も生産目標を農家に示すことで事実上の減反に関与している。結果として、コメの生産量は抑制され、供給不足が常態化しているのである。しかし、農水省はこの構造的問題には言及せず、あたかも流通段階に問題があるかのように報道を誘導している。この状況においては、極端な話ではあるが、ジャポニカ米の輸入に限って無関税措置を講じる方が、議論が早く進むようにすら思えてくる。
コメの価格は自由化されたとはいえ、実態としては農協が流通の大半を握っている。ゆえに、農協がどのように動いているのかを検証しない限り、価格上昇の原因を特定することはできないはずである。それにもかかわらず、メディアは農協に取材せず、政府発表をそのまま報じるにとどまっている。この背景には、農協や農林中央金庫がメディアの有力なスポンサーであるという事情があるのかもしれない。広告収入や金融支援への依存が、批判的報道を控えさせている可能性も否定できない。当ブログでも2月に指摘した通り、今回のコメ価格高騰は悪徳業者の「売り惜しみ」が原因ではない。農水省自身、昨年夏の需給逼迫について中間業者の売り惜しみが主因ではなかったとの見解を示している。つまり、一昨年からコメが物理的に不足しているのである。
農水省は、令和6年の収穫量が18万トン増加し、需要は30万トン減少すると見込んでいるようだが、過去の傾向を踏まえると、需要の減少は例年5〜10万トン程度である。価格が上昇を続けている現状において、需要が急減しているとは考えにくく、この見通しには無理がある。仮に21万トンが市場に放出されても、4月以降も価格上昇が続くようであれば、これは供給側、今回は農協による売り渋りの影響を疑うのが妥当である。にもかかわらず、メディアはそれを報じようとしない。この沈黙は、農協を批判したくないという意図の表れであろう。
さらに根本的な問題として、減反政策の影響がいまだに色濃く残っている点が挙げられる。政府は2018年に減反制度を廃止したとするが、実際には主食用米から他作物への転作に対して減反政策時期よりも高額の補助金が支給されており、農協も生産目標を農家に示すことで事実上の減反に関与している。結果として、コメの生産量は抑制され、供給不足が常態化しているのである。しかし、農水省はこの構造的問題には言及せず、あたかも流通段階に問題があるかのように報道を誘導している。この状況においては、極端な話ではあるが、ジャポニカ米の輸入に限って無関税措置を講じる方が、議論が早く進むようにすら思えてくる。
ブルーインパルス ― 2025年04月10日

大阪・関西万博の開幕を前に、航空自衛隊のアクロバット飛行チーム「ブルーインパルス」が予行飛行を行った。大阪の空に彼らの姿が舞うのは、平成2年の国際花と緑の博覧会以来、実に35年ぶりのことらしい。午前11時40分ごろ、関西国際空港を飛び立ち、府南部を経由して大阪城や万博公園の太陽の塔といった、街の象徴をなぞるように飛行していった。展示飛行は正午から15分間。今回の万博会場である夢洲(ゆめしま)の上空に、白いスモークが描く軌跡が広がった。すべては、万博の開幕を華やかに彩る一幕として企画されたものだ。ちょうど私は太陽の塔の近くのショッピングモールに立ち寄った。いつもは閑散としている立体駐車場が満車で、「何かあるのかな?」と不思議に思いながら屋上階へ上がると、たくさんの人が空を見上げていた。その視線の先に、思い出した。ああ、今日はブルーインパルスが飛ぶ日だった。爆音とともに、6機の編隊がスモークを吐きながら空を駆け抜けていく。わずか5秒ほどの出来事だったけれど、その一瞬に目を奪われた。飛行機雲の向こうに、万博のはじまりの気配が見えたような気がした。
思えば数年前、コロナ禍のさなかに、ブルーインパルスが医療従事者への感謝と励ましを込めて飛んだことがあった。あの時は涙が出た。空に浮かぶその姿が、人と人とが支え合う象徴のように感じられて。今回もまた、「大阪万博、がんばれよ」とエールを送るような飛行だったのだろう。きっとあの空を見上げた多くの人が、その想いに応え、会場へと足を運ぶのだと思う。それにしても、ひととおり空を眺め終えた人たちが、誰も彼もぞろぞろと帰っていくのがちょっと可笑しかった。「あれ、買い物はしないの?」と、心の中でツッコミを入れる。スーパーの棚には、5キロ4300円の米がずらりと並んでいた。備蓄米を放出しても全然安くならないなあ、と思いつつ、ふと思い浮かんだ。いっそ「米をもっと作ろう!」というメッセージで、ブルーインパルスがまた空を飛んでくれたら面白いのに。そんな突拍子もないことを考えながら空を見上げた。
思えば数年前、コロナ禍のさなかに、ブルーインパルスが医療従事者への感謝と励ましを込めて飛んだことがあった。あの時は涙が出た。空に浮かぶその姿が、人と人とが支え合う象徴のように感じられて。今回もまた、「大阪万博、がんばれよ」とエールを送るような飛行だったのだろう。きっとあの空を見上げた多くの人が、その想いに応え、会場へと足を運ぶのだと思う。それにしても、ひととおり空を眺め終えた人たちが、誰も彼もぞろぞろと帰っていくのがちょっと可笑しかった。「あれ、買い物はしないの?」と、心の中でツッコミを入れる。スーパーの棚には、5キロ4300円の米がずらりと並んでいた。備蓄米を放出しても全然安くならないなあ、と思いつつ、ふと思い浮かんだ。いっそ「米をもっと作ろう!」というメッセージで、ブルーインパルスがまた空を飛んでくれたら面白いのに。そんな突拍子もないことを考えながら空を見上げた。