PECS京都大阪合同会 ― 2025年12月15日
大阪で、PECSサークルの合同会が開かれた。京都との共同開催で、会場参加が37名、リモート参加が25名。合わせて60名余という数字は、いまの状況を思えばなかなかのものだ。会場に30人以上が集まる光景を見るのは久しぶりで、門医師が大阪まで足を運ばれたことも大きかったのだろう。かつて京都で研究会が勢いを持っていた頃の空気がふっとよみがえり、胸の奥に懐かしさが広がった。
今回、何より印象に残ったのは若い世代の多さだった。参加者の多くは施設職員で、大阪ではNPOピュアを中心に若手がしっかり組織されているという。熱心に耳を傾ける姿を見ながら、かつて自分も若手教員をまとめ、参加者を増やすことに奔走していた時代を思い出した。だが今はどうだろう。影響力のあるリーダーを育てきれず、研究会はじりじりと先細っている。その現実を突きつけられるようでもあった。
報告では、子どもや成人の利用者がPECSやABAを通じて、少しずつ生活を整えていく様子が動画で紹介された。画面越しに伝わってくる笑顔に触れ、「やってきてよかったな」と、心から思えた瞬間だった。研究会のあとには20人余りが居酒屋に集まり、懇親会は遅くまで賑やかに続いた。初めてPECSに取り組みながら、思うような評価を得られなかった支援者も参加し、率直な語り合いができた。できるだけ“老害”にならないよう気をつけたつもりだが、振り返れば少し厳しい言葉を投げてしまったかもしれない、と反省も残る。
PECSは、要求と契約から始まる機能的コミュニケーションだ。トークン使用は、要求したものの「待って」カードから、やがてはトークンエコノミーという、少し長い契約関係を学んでいく。すぐに要求に応えるのではなく、条件を示し、何回指示に応えれば約束が成立するのかを伝える。言ってみれば、出来高給制度を理解してもらうような仕組みだ。その教え方に対して「おかしいのではないか」という指摘も出た。大阪の事務局は事前にレポートを把握していたはずだが、成果よりも方法の誤りをどう扱うかは、組織や世代で考え方が分かれる。事前に修正を促すのか、あえて発表させ、批判を受けて再挑戦を促すのか。その違いに、年齢差というものを感じずにはいられなかった。
最近は、自分が組織してきた研究団体がじり貧になり、正直、投げ出したくなることもある。それでも、未来を楽しそうに語る若手の姿を見ると、「続けてきてよかった」と素直に思える。20年前、京都から始めたあの研究会がなければ、いまのつながりはなかっただろう。淡々と研究会を重ね、懇親会を続けてきた、その積み重ねの先に、今夜の光景がある。
投げ出すのは簡単だ。けれど、もう少しだけ頑張ってみよう。そんな気持ちを、静かに背中から押してくれる夜だった。
今回、何より印象に残ったのは若い世代の多さだった。参加者の多くは施設職員で、大阪ではNPOピュアを中心に若手がしっかり組織されているという。熱心に耳を傾ける姿を見ながら、かつて自分も若手教員をまとめ、参加者を増やすことに奔走していた時代を思い出した。だが今はどうだろう。影響力のあるリーダーを育てきれず、研究会はじりじりと先細っている。その現実を突きつけられるようでもあった。
報告では、子どもや成人の利用者がPECSやABAを通じて、少しずつ生活を整えていく様子が動画で紹介された。画面越しに伝わってくる笑顔に触れ、「やってきてよかったな」と、心から思えた瞬間だった。研究会のあとには20人余りが居酒屋に集まり、懇親会は遅くまで賑やかに続いた。初めてPECSに取り組みながら、思うような評価を得られなかった支援者も参加し、率直な語り合いができた。できるだけ“老害”にならないよう気をつけたつもりだが、振り返れば少し厳しい言葉を投げてしまったかもしれない、と反省も残る。
PECSは、要求と契約から始まる機能的コミュニケーションだ。トークン使用は、要求したものの「待って」カードから、やがてはトークンエコノミーという、少し長い契約関係を学んでいく。すぐに要求に応えるのではなく、条件を示し、何回指示に応えれば約束が成立するのかを伝える。言ってみれば、出来高給制度を理解してもらうような仕組みだ。その教え方に対して「おかしいのではないか」という指摘も出た。大阪の事務局は事前にレポートを把握していたはずだが、成果よりも方法の誤りをどう扱うかは、組織や世代で考え方が分かれる。事前に修正を促すのか、あえて発表させ、批判を受けて再挑戦を促すのか。その違いに、年齢差というものを感じずにはいられなかった。
最近は、自分が組織してきた研究団体がじり貧になり、正直、投げ出したくなることもある。それでも、未来を楽しそうに語る若手の姿を見ると、「続けてきてよかった」と素直に思える。20年前、京都から始めたあの研究会がなければ、いまのつながりはなかっただろう。淡々と研究会を重ね、懇親会を続けてきた、その積み重ねの先に、今夜の光景がある。
投げ出すのは簡単だ。けれど、もう少しだけ頑張ってみよう。そんな気持ちを、静かに背中から押してくれる夜だった。
女流棋士の出産規定 ― 2025年12月11日
「妊娠したら、タイトルか出産かの二択を迫られる。第2子は不可能だと絶望した」。12月10日、大阪。照明に照らされた会見場で、福間香奈女流六冠(32)は、声を震わせながらもはっきりと言い切った。名実ともに現役女流棋界の絶対的エース。その彼女が、妊娠という自然な出来事をきっかけに“キャリアの死角”へ追い込まれるという事実は、将棋界にとって痛烈な一撃となった。前日、彼女が日本将棋連盟に提出した要望書は、遠慮も婉曲も一切ない。妊娠・出産を理由とした出場制限の撤回、タイトルや挑戦権の保護、復帰ルートの明確化──いずれも、世界のプロスポーツでは当たり前の仕組みばかりだ。連盟は慌てて「不安を抱かせ申し訳ない」とコメントを出したが、火消しのスピードは異例。裏側で泡を食った様子が目に浮かぶ。
“火薬庫”となったのは、2025年4月に施行された新規定だ。「出産予定日±14週にタイトル戦が重なれば、出場不可」。表向きは「母体の安全」「棋戦の公平性」。しかし実態は、妊娠した瞬間に王座から転落する構造そのもの。対局は体力勝負ではないと言われながら、制度は身体状況を理由に真っ先に締め出す。矛盾を抱えたまま導入された“乱暴なルール”だ。そもそも十四週の根拠も曖昧だ。医療ガイドラインを踏まえた形跡は乏しく、タイトル戦の年間スケジュールと衝突しないよう“事務的に”設定された気配が濃厚だ。だが棋士は人間だ。妊娠は予定調和の出来事ではない。
さらに言えば、将棋界にはスポーツ界で一般化している制度がほとんど存在しない。テニスでは産休時のランキング凍結(プロテクトランキング)。サッカーや卓球では地位保全と復帰支援。欧米なら契約書に出産時の待遇条項が当然のように盛り込まれる。対して将棋界はどうか。「休めばその瞬間に順位失効」という、アマチュア競技すら驚く“空白地帯”のままだった。
福間が突きつけた改善案は、その空白を一気に埋める内容だ。
1. 新規定の即時停止
2. 出場判断を本人の意思と医師の判断に委ねる仕組み
3. 椅子対局・会場温度・服装など環境整備
4. 暫定王者制度、挑戦権保護などの地位保全策
さらに「1か月以内に回答を」と期限まで切った。これは単なる要望ではなく、“制度改革への時限爆弾”だ。会見で福間は静かに語った。「これから将棋を志す女の子たちが、安心して頂点を目指せる環境にしてほしい」ここにあるのは、ひとりの棋士の叫びではない。将棋界全体が長年放置してきた“構造的な見落とし”への告発である。
不可解なのは、現在の連盟役員構成だ。女性初の会長・清水市代女流七段、理事の斎田晴子女流五段──女性の声が執行部に届く土壌はかつてより整っていたはずだ。それでもこの制度が導入されたのはなぜか。内部を見ると、タイトル戦の主催者やスポンサー、スケジュール調整の論理が優先され、女性棋士が制度設計に本質的に関与できる仕組みが整っていなかった可能性が浮かぶ。表面的には女性役員がいても、実質的な権限が伴わなければ「女性がいるのに何も変わらない」という矛盾だけが残る。
つまり今回の問題は、単なるルール不備ではない。“意思決定の場で、女性当事者が制度を左右できない”という根深い構造の露呈でもある。福間の告発は、長年の暗黙の了解「女流棋士は子どもを産むならキャリアを諦めろ」という不文律を、初めて公式の場で引きずり出した。
連盟は、もう逃げ場がない。1か月後の回答が曖昧なら、世界に向けて「将棋界は女性を守る気がない」と宣言するのと同じだ。少女たちが将棋盤に向かい、「いつか自分もタイトルを」と夢を見る未来を守れるのか。試されているのは制度ではない。この競技を支えてきた“大人たち”の成熟度そのものである。
“火薬庫”となったのは、2025年4月に施行された新規定だ。「出産予定日±14週にタイトル戦が重なれば、出場不可」。表向きは「母体の安全」「棋戦の公平性」。しかし実態は、妊娠した瞬間に王座から転落する構造そのもの。対局は体力勝負ではないと言われながら、制度は身体状況を理由に真っ先に締め出す。矛盾を抱えたまま導入された“乱暴なルール”だ。そもそも十四週の根拠も曖昧だ。医療ガイドラインを踏まえた形跡は乏しく、タイトル戦の年間スケジュールと衝突しないよう“事務的に”設定された気配が濃厚だ。だが棋士は人間だ。妊娠は予定調和の出来事ではない。
さらに言えば、将棋界にはスポーツ界で一般化している制度がほとんど存在しない。テニスでは産休時のランキング凍結(プロテクトランキング)。サッカーや卓球では地位保全と復帰支援。欧米なら契約書に出産時の待遇条項が当然のように盛り込まれる。対して将棋界はどうか。「休めばその瞬間に順位失効」という、アマチュア競技すら驚く“空白地帯”のままだった。
福間が突きつけた改善案は、その空白を一気に埋める内容だ。
1. 新規定の即時停止
2. 出場判断を本人の意思と医師の判断に委ねる仕組み
3. 椅子対局・会場温度・服装など環境整備
4. 暫定王者制度、挑戦権保護などの地位保全策
さらに「1か月以内に回答を」と期限まで切った。これは単なる要望ではなく、“制度改革への時限爆弾”だ。会見で福間は静かに語った。「これから将棋を志す女の子たちが、安心して頂点を目指せる環境にしてほしい」ここにあるのは、ひとりの棋士の叫びではない。将棋界全体が長年放置してきた“構造的な見落とし”への告発である。
不可解なのは、現在の連盟役員構成だ。女性初の会長・清水市代女流七段、理事の斎田晴子女流五段──女性の声が執行部に届く土壌はかつてより整っていたはずだ。それでもこの制度が導入されたのはなぜか。内部を見ると、タイトル戦の主催者やスポンサー、スケジュール調整の論理が優先され、女性棋士が制度設計に本質的に関与できる仕組みが整っていなかった可能性が浮かぶ。表面的には女性役員がいても、実質的な権限が伴わなければ「女性がいるのに何も変わらない」という矛盾だけが残る。
つまり今回の問題は、単なるルール不備ではない。“意思決定の場で、女性当事者が制度を左右できない”という根深い構造の露呈でもある。福間の告発は、長年の暗黙の了解「女流棋士は子どもを産むならキャリアを諦めろ」という不文律を、初めて公式の場で引きずり出した。
連盟は、もう逃げ場がない。1か月後の回答が曖昧なら、世界に向けて「将棋界は女性を守る気がない」と宣言するのと同じだ。少女たちが将棋盤に向かい、「いつか自分もタイトルを」と夢を見る未来を守れるのか。試されているのは制度ではない。この競技を支えてきた“大人たち”の成熟度そのものである。
特別支援校生を進学率から除外 ― 2025年12月03日
文部科学省が大学進学率を算出する際、「18歳人口」から特別支援学校高等部卒業者を除外してきた問題で、松本洋平文科相は「必ずしも適切ではなかった」と謝罪した。産経新聞は見直し方針を報じたが、焦点となるのはもっと地味で深刻な“行政の惰性”である。事実を整理するとこうだ。2007年の学校教育法と同施行規則改正で、特別支援学校高等部修了者は大学入学資格が明確化された。それ以前は資格が明確化されておらず、統計上「18歳人口」に含めない運用は制度的には筋が通っていた。しかし改正後も、文科省は従来の算出方法を放置。特支卒業者を統計から外したまま、十数年にわたり大学進学率を公表してきたのである。ここにこそ、問題の核心がある。
本来なら制度改正に応じて統計手法を更新するのが行政の責務だ。だが文科省は「就学猶予で年齢と学年が一致しない可能性」を理由に挙げた。通常校でも留年は存在するし、就学猶予を受ける特支生徒はごく少数。言い換えれば、言い訳としてはほぼ意味をなさない。数字の正確性より慣習を優先する、典型的な“お役所言い訳”だ。ただ、「法改正を統計に反映するのを忘れていた」とは減点を嫌う役人根性からは口が裂けても言えないのだろう。
報道の扱いも論点をぼかす傾向が強い。毎日新聞は東京大学教授の「自覚なき差別意識」というコメントを大きく取り上げ、文科省に差別の構造が根付いていたかのように描いた。しかし、専門家なら2007年の法改正を熟知しているはずだ。心理的レッテルに飛びつくのは、論点を制度的矛盾から逸らす作為にすぎない。
もちろん結果として、特支卒業者は統計上「存在しない扱い」となり、進学率は実態より高めに表示されていた。差別的効果は否定できない。しかし、原因を短絡的に「差別意識」と結びつけるのは論理的に不十分だ。問題の核心は「制度改正を反映しない統計の不作為」にある。行政内部のチェック機能の欠如も明らかだ。担当者が替わっても統計手法は変わらず、上層部も気づかない。
文科省の統計チームでは、制度改正の反映が長期間行われなかった問題について、内部で認識されていた可能性がある。しかし、それが上位判断で放置されたかどうかを裏づける公的記録は確認できない。それでもなお明白なのは、制度に合わせて統計を更新すべきという最低限の職務が果たされなかったという事実である。この“地味な不作為”こそ、教育政策の根幹を静かに、しかし確実に蝕む要因である。派手な差別論よりも、むしろ統計の基盤が歪められることの方が背筋を凍らせる深刻な問題である。
教育統計の信頼性への影響も重大である。特別支援学校卒業者を正しく扱わないまま進学率を算出すれば、統計上の数字は実態よりも高く見える。その結果、特別支援教育の拡充や大学進学支援策の必要性が過小評価される危険がある。制度と統計の不整合は、教育政策の評価を狂わせ、現場の支援体制を歪める直接的なリスクである。この点こそ看過してはならない。
産経新聞の後追い報道が淡々としているのは、この問題の本質が“派手な事件性ではなく、行政慣行の固定化”だからだ。心理的レッテル貼りに飛びつかず、制度的矛盾を正確に指摘する方が筋が通る。焦点は差別意識ではなく、統計運用の不作為による制度的歪みだ。
結局、この問題は「差別」ではなく、「制度改正を反映しない行政統計の劣化」として捉えるべきである。教育政策の信頼性を支えるのは派手なスローガンや感情論ではない。地味でも正確な統計こそが、政策判断の基盤であり、教育行政の信用を保証する土台なのである。
本来なら制度改正に応じて統計手法を更新するのが行政の責務だ。だが文科省は「就学猶予で年齢と学年が一致しない可能性」を理由に挙げた。通常校でも留年は存在するし、就学猶予を受ける特支生徒はごく少数。言い換えれば、言い訳としてはほぼ意味をなさない。数字の正確性より慣習を優先する、典型的な“お役所言い訳”だ。ただ、「法改正を統計に反映するのを忘れていた」とは減点を嫌う役人根性からは口が裂けても言えないのだろう。
報道の扱いも論点をぼかす傾向が強い。毎日新聞は東京大学教授の「自覚なき差別意識」というコメントを大きく取り上げ、文科省に差別の構造が根付いていたかのように描いた。しかし、専門家なら2007年の法改正を熟知しているはずだ。心理的レッテルに飛びつくのは、論点を制度的矛盾から逸らす作為にすぎない。
もちろん結果として、特支卒業者は統計上「存在しない扱い」となり、進学率は実態より高めに表示されていた。差別的効果は否定できない。しかし、原因を短絡的に「差別意識」と結びつけるのは論理的に不十分だ。問題の核心は「制度改正を反映しない統計の不作為」にある。行政内部のチェック機能の欠如も明らかだ。担当者が替わっても統計手法は変わらず、上層部も気づかない。
文科省の統計チームでは、制度改正の反映が長期間行われなかった問題について、内部で認識されていた可能性がある。しかし、それが上位判断で放置されたかどうかを裏づける公的記録は確認できない。それでもなお明白なのは、制度に合わせて統計を更新すべきという最低限の職務が果たされなかったという事実である。この“地味な不作為”こそ、教育政策の根幹を静かに、しかし確実に蝕む要因である。派手な差別論よりも、むしろ統計の基盤が歪められることの方が背筋を凍らせる深刻な問題である。
教育統計の信頼性への影響も重大である。特別支援学校卒業者を正しく扱わないまま進学率を算出すれば、統計上の数字は実態よりも高く見える。その結果、特別支援教育の拡充や大学進学支援策の必要性が過小評価される危険がある。制度と統計の不整合は、教育政策の評価を狂わせ、現場の支援体制を歪める直接的なリスクである。この点こそ看過してはならない。
産経新聞の後追い報道が淡々としているのは、この問題の本質が“派手な事件性ではなく、行政慣行の固定化”だからだ。心理的レッテル貼りに飛びつかず、制度的矛盾を正確に指摘する方が筋が通る。焦点は差別意識ではなく、統計運用の不作為による制度的歪みだ。
結局、この問題は「差別」ではなく、「制度改正を反映しない行政統計の劣化」として捉えるべきである。教育政策の信頼性を支えるのは派手なスローガンや感情論ではない。地味でも正確な統計こそが、政策判断の基盤であり、教育行政の信用を保証する土台なのである。
佐賀関火災と漁村防災 ― 2025年11月23日
海風に煽られた火の粉が夜空を染め、狭い路地を逃げる住民の背中に炎が迫る――。大分市佐賀関で発生した大規模火災は、わずか数時間で170棟以上を焼き尽くした。強風と乾燥、そして木造家屋の密集という“条件の三重奏”が、漁村を丸ごと呑み込んだのである。様相は2016年の糸魚川大火とまるで写し鏡。日本の沿岸部に横たわる「木密・道狭・空家多数」という構造的リスクが、再び牙をむいた格好だ。
全国あちこちを巡って目に付くのは佐賀関のような漁村は山のように存在していることだ。リアス式海岸に張り付くように形成される漁村は、平地が乏しく、家屋は密集。道は生活導線に合わせて曲がりくねり、生活道路は軽トラ一台がやっと通るか通らないかの幅が当たり前だ。中には狭い階段が坂の上まで続くところも少なくない。人口減少と高齢化が進んだ結果、空き家は増え、無人の家は火の発見を遅らせ、延焼拡大の“燃料”にもなる。佐賀関だけが特異なのではない。全国に同じ危うさを抱えた漁村は数百単位に上るという。
制度がないわけではない。建築基準法の接道義務やセットバック規定、防火地域指定、空き家対策特措法もある。だが既存集落に対しては強制力が弱く、「危険空き家」に該当しなければ自治体も手を出せない。財政体力の乏しい小規模自治体では、撤去や道路拡幅など“面的な改善”には踏み出せないのが実情だ。こうして三重苦は、まるで“構造的宿命”のように温存され続けている。
しかし、解決の糸口は確かにある。その一つが、京都府伊根町の舟屋群のケースだ。海沿いに建ち並ぶ独特の景観で知られる伊根町では、老朽化した舟屋が増え、耐震性・防火性ともに問題が指摘されていた。そこで町は、文化庁・府と連携し、「景観を残しながら防災性を高める」方針へかじを切る。不燃材による補強、屋根材の更新、耐火性の高い建具の導入など、外観をほぼ変えずに安全性を底上げした。撤去が必要な建物には公費補助を組み合わせ、空き地は防火広場や避難スペースとして再配置した。つまり伊根は、“景観か防災か”という二者択一を乗り越え、両立を実現した数少ない成功例だ。
佐賀関のような漁村に必要なのは、この「両立の設計思想」であり、自治体任せでは到底実現し得ない制度的後押しだ。国が動くべき優先順位は明確だ。第一に、空き家撤去の公費負担を恒久化すること。 撤去後の土地は延焼遮断帯となり、防火広場として再配置できる。第二に、再建築時のセットバックを徹底し、不燃化リノベーションへの補助制度を広げることで、道路拡幅と防火帯形成を同時に達成できる。第三に、所有者不明土地の公的管理を強化し、国交省・消防庁・水産庁の縦割りを越えた合同プログラムを創設することだ。
「人口の少ない漁村に多額の税金を投入する価値はあるのか」。必ず出る疑問だ。しかし、ひとたび火災や津波が集落を飲み込めば、被害額は数十億円単位になる。景観資産や歴史文化の喪失は、金額では測れない。漁港は食料安全保障の要であり、沿岸防災の最前線でもある。観光、移住促進、地域ブランド――漁村の価値は人口統計に表れない層でこそ大きい。
佐賀関火災は、漁村の防災が“自治体任せでは限界”である現実を突きつけた。火災を都市型自然災害として正式に位置づけ、空き家対策と地域リノベーションを国策として束ねる。伊根町に学ぶべきは、文化を守りながら安全性を底上げした“総合的な処方箋”である。次の火災の報は、決して遠い未来の話ではない。分かっていたのに動かなかった――そんな悔恨だけは残してはならない。
全国あちこちを巡って目に付くのは佐賀関のような漁村は山のように存在していることだ。リアス式海岸に張り付くように形成される漁村は、平地が乏しく、家屋は密集。道は生活導線に合わせて曲がりくねり、生活道路は軽トラ一台がやっと通るか通らないかの幅が当たり前だ。中には狭い階段が坂の上まで続くところも少なくない。人口減少と高齢化が進んだ結果、空き家は増え、無人の家は火の発見を遅らせ、延焼拡大の“燃料”にもなる。佐賀関だけが特異なのではない。全国に同じ危うさを抱えた漁村は数百単位に上るという。
制度がないわけではない。建築基準法の接道義務やセットバック規定、防火地域指定、空き家対策特措法もある。だが既存集落に対しては強制力が弱く、「危険空き家」に該当しなければ自治体も手を出せない。財政体力の乏しい小規模自治体では、撤去や道路拡幅など“面的な改善”には踏み出せないのが実情だ。こうして三重苦は、まるで“構造的宿命”のように温存され続けている。
しかし、解決の糸口は確かにある。その一つが、京都府伊根町の舟屋群のケースだ。海沿いに建ち並ぶ独特の景観で知られる伊根町では、老朽化した舟屋が増え、耐震性・防火性ともに問題が指摘されていた。そこで町は、文化庁・府と連携し、「景観を残しながら防災性を高める」方針へかじを切る。不燃材による補強、屋根材の更新、耐火性の高い建具の導入など、外観をほぼ変えずに安全性を底上げした。撤去が必要な建物には公費補助を組み合わせ、空き地は防火広場や避難スペースとして再配置した。つまり伊根は、“景観か防災か”という二者択一を乗り越え、両立を実現した数少ない成功例だ。
佐賀関のような漁村に必要なのは、この「両立の設計思想」であり、自治体任せでは到底実現し得ない制度的後押しだ。国が動くべき優先順位は明確だ。第一に、空き家撤去の公費負担を恒久化すること。 撤去後の土地は延焼遮断帯となり、防火広場として再配置できる。第二に、再建築時のセットバックを徹底し、不燃化リノベーションへの補助制度を広げることで、道路拡幅と防火帯形成を同時に達成できる。第三に、所有者不明土地の公的管理を強化し、国交省・消防庁・水産庁の縦割りを越えた合同プログラムを創設することだ。
「人口の少ない漁村に多額の税金を投入する価値はあるのか」。必ず出る疑問だ。しかし、ひとたび火災や津波が集落を飲み込めば、被害額は数十億円単位になる。景観資産や歴史文化の喪失は、金額では測れない。漁港は食料安全保障の要であり、沿岸防災の最前線でもある。観光、移住促進、地域ブランド――漁村の価値は人口統計に表れない層でこそ大きい。
佐賀関火災は、漁村の防災が“自治体任せでは限界”である現実を突きつけた。火災を都市型自然災害として正式に位置づけ、空き家対策と地域リノベーションを国策として束ねる。伊根町に学ぶべきは、文化を守りながら安全性を底上げした“総合的な処方箋”である。次の火災の報は、決して遠い未来の話ではない。分かっていたのに動かなかった――そんな悔恨だけは残してはならない。
NPOフローレンス公金問題 ― 2025年11月19日
子育て支援の旗を掲げてきた認定NPO法人フローレンスが、思わぬ形で世間の“監視の目”にさらされることになった。東京都の補助金で建設した施設に、創業者・駒崎弘樹氏名義の根抵当権が設定されていたのだ。発火点はX(旧Twitter)。登記簿を読み込んだ市民が「おかしいぞ」と呟いた一文が、いわば“善意の象徴”として扱われてきたNPO界隈の暗部を照らすことになった。渋谷区議の照会で補助金要綱との齟齬が確認されると、さらにスキャンダラスな情報が飛び出した。これは昨年の参議院での質問主意書で明らかになっていたことだが、役員名簿に存在しない「会長職」で年額2040万円超の報酬——。これが企業なら株主総会レベルの大騒ぎだが、非営利法人では「報告書に書いてあればOK」という、驚くほど緩い世界がまかり通ってきた。今回の件は、その“緩さ”を世間が一気に知るきっかけとなったと言っていい。
なぜそんなことが平然と起きるのか。答えは簡単で、NPOを取り巻く監査体制が穴だらけだからだ。税務署は収益事業を行わないかぎり法人税を課さず、当然調査しない。所轄庁である都道府県や政令市は、提出された書類を形式的にチェックするだけ。会計検査院も国の直轄補助金以外は守備範囲外。要するに「誰も本気で監査していない」のである。
では、この“無人地帯”でどれだけ公金が消えているのか。全国のNPO約5万件のうち1割が補助金を受け取り、平均年額500万〜1000万円と仮定すると、総額は3000億〜7500億円。もしその5〜10%が不正・不適正に流れているとしたら、年間150億〜750億円が煙のように消えている計算になる。数字を眺めているだけで、背筋が冷える。
制度の根本原因は、NPO法の“性善説設計”にある。市民による公益活動を前提にした結果、役員報酬の上限も基準もなく、補助金の実地監査も義務にしてこなかった。公益社団・財団なら細かく縛られている点が、NPOは“自己申告”で通ってしまう。善意を信じる制度は美しい——だが、現実はそこまで美しくない。
今回のフローレンス問題は、“氷山の一角”というより、“氷山の入り口”だろう。この先には、ひっそりと積み重ねられた“公金の積雪”が広がっている可能性すらある。必要なのは、制度の大幅な作り直しだ。役員報酬の上限明記や補助金交付時の実地監査の義務化、税務署と所轄庁の情報連携、NPO向けの第三者監査機関の新設、市民通報制度の法定化。改革メニューはすでに揃っている。あとは、やる気の問題だけだ。
公益を名乗るなら、まずは自分たちの足元を照らすこと。フローレンスが突きつけたのは、そんな当たり前の原点である。善意の物語の裏側に潜む“複雑な現実”を、私たちはそろそろ直視すべき時期に来ている。
なぜそんなことが平然と起きるのか。答えは簡単で、NPOを取り巻く監査体制が穴だらけだからだ。税務署は収益事業を行わないかぎり法人税を課さず、当然調査しない。所轄庁である都道府県や政令市は、提出された書類を形式的にチェックするだけ。会計検査院も国の直轄補助金以外は守備範囲外。要するに「誰も本気で監査していない」のである。
では、この“無人地帯”でどれだけ公金が消えているのか。全国のNPO約5万件のうち1割が補助金を受け取り、平均年額500万〜1000万円と仮定すると、総額は3000億〜7500億円。もしその5〜10%が不正・不適正に流れているとしたら、年間150億〜750億円が煙のように消えている計算になる。数字を眺めているだけで、背筋が冷える。
制度の根本原因は、NPO法の“性善説設計”にある。市民による公益活動を前提にした結果、役員報酬の上限も基準もなく、補助金の実地監査も義務にしてこなかった。公益社団・財団なら細かく縛られている点が、NPOは“自己申告”で通ってしまう。善意を信じる制度は美しい——だが、現実はそこまで美しくない。
今回のフローレンス問題は、“氷山の一角”というより、“氷山の入り口”だろう。この先には、ひっそりと積み重ねられた“公金の積雪”が広がっている可能性すらある。必要なのは、制度の大幅な作り直しだ。役員報酬の上限明記や補助金交付時の実地監査の義務化、税務署と所轄庁の情報連携、NPO向けの第三者監査機関の新設、市民通報制度の法定化。改革メニューはすでに揃っている。あとは、やる気の問題だけだ。
公益を名乗るなら、まずは自分たちの足元を照らすこと。フローレンスが突きつけたのは、そんな当たり前の原点である。善意の物語の裏側に潜む“複雑な現実”を、私たちはそろそろ直視すべき時期に来ている。
コーンロッドグラス ― 2025年11月17日
コーンロッドグラスは、CRD(錐体杆体ジストロフィー)患者の視覚特性に着想を得て開発された製品であり、特定の光波長が認知に歪みを生じさせる個体に対して、該当波長をフィルターカットする眼鏡である。文字の読み取りなど視覚認知を補助するだけでなく、正確な視覚入力が味覚など他の感覚入力の歪みにも影響を及ぼし、日常生活の質を向上させる可能性がある視覚支援デバイスという。ただし、現時点では査読付きの臨床研究は存在せず、科学的根拠は限定的である。CRDは、網膜における錐体および杆体細胞の機能低下によって生じる希少疾患であり、症状の現れ方には個人差が大きく、スペクトラム的な広がりを持つと考えられている。なお、本製品はCRD患者向けの医療機器ではなく、CRDの病態生理に着目して開発された認知の歪みを調整する健康補助器具というべきだろう。
ここで思い出されるのが、かつてのディスレクシアの話だ。「眼球運動を鍛えれば読み書きが上手になる」と一時期信じられたことがある。科学的には、ディスレクシアの原因は脳内の音韻処理や言語処理機能にあるため、眼球運動の改善だけでは根本的な解決にはならない。それでも当時、多くの人がトレーニングに時間と費用を費やした。科学的根拠の薄い補助具やサービスがどのように受け入れられるか、身をもって示す事例だ。
コーンロッドグラスも同じような構図に見える。理論的な説明はあるものの、独立した大規模データや査読付き研究はまだ確認されていない。効果や適用範囲は十分に検証されておらず、利用にあたっては費用や時間の負担も含め、慎重な判断が求められる。さらに重要なのは、網膜自体の機能障害に起因するからといっても、補助具や訓練での改善には個人差が大きく、すべての症状に同じ効果があるわけではない。
結局のところ、この眼鏡は「可能性を試す段階」にあるに過ぎない。科学的根拠は限定的で、効果は人それぞれ。利用者は、費用や時間を含めたリスクを理解し、自分に合うかどうかを判断することが大切だ。社会としても、科学的根拠に基づく補助具や支援策を優先し、確認されていない技術やサービスに過度に頼らない意識を持つことが望ましい。
過去の事例を思い返せば、希少疾患や学習障害をめぐる補助具は、期待先行で利用されることが少なくない。CRD専用グラスも例外ではない。正しい理解と慎重な利用こそが、安全に“可能性”を試すカギだろう。
ここで思い出されるのが、かつてのディスレクシアの話だ。「眼球運動を鍛えれば読み書きが上手になる」と一時期信じられたことがある。科学的には、ディスレクシアの原因は脳内の音韻処理や言語処理機能にあるため、眼球運動の改善だけでは根本的な解決にはならない。それでも当時、多くの人がトレーニングに時間と費用を費やした。科学的根拠の薄い補助具やサービスがどのように受け入れられるか、身をもって示す事例だ。
コーンロッドグラスも同じような構図に見える。理論的な説明はあるものの、独立した大規模データや査読付き研究はまだ確認されていない。効果や適用範囲は十分に検証されておらず、利用にあたっては費用や時間の負担も含め、慎重な判断が求められる。さらに重要なのは、網膜自体の機能障害に起因するからといっても、補助具や訓練での改善には個人差が大きく、すべての症状に同じ効果があるわけではない。
結局のところ、この眼鏡は「可能性を試す段階」にあるに過ぎない。科学的根拠は限定的で、効果は人それぞれ。利用者は、費用や時間を含めたリスクを理解し、自分に合うかどうかを判断することが大切だ。社会としても、科学的根拠に基づく補助具や支援策を優先し、確認されていない技術やサービスに過度に頼らない意識を持つことが望ましい。
過去の事例を思い返せば、希少疾患や学習障害をめぐる補助具は、期待先行で利用されることが少なくない。CRD専用グラスも例外ではない。正しい理解と慎重な利用こそが、安全に“可能性”を試すカギだろう。
票の強奪・施設が人権を壊す ― 2025年11月14日
2025年7月の参院選。その裏側で見過ごせない事件が起きていた。大阪府八尾市と泉大津市の高齢者施設で、不在者投票35人分が虚偽に行われていたのである。施設運営会社の関係者が入所者になりすまし、特定候補の名を記入した投票用紙を選管に提出したという。
つまり、他人の票を“盗んだ”のだ。不在者投票制度は、投票所に行けない高齢者や障害者が政治参加できるように設けられた仕組みだ。本来ならば「本人の意思」がすべての前提になる。しかし、現実にはその“本人”が確認されていない。立会人制度は形だけ、監視カメラもなし。制度は「性善説」に頼り切っており、職員の誠実さにすべてを委ねる設計だ。だが、その善意が通用しない現場が、いま全国に静かに広がっている。
同様の事件は過去にも何度も起きている。2013年の北九州市議選では、特養の施設長が認知症の入所者3人分の票を偽造し、有罪判決を受けた。2016年の鹿児島・奄美大島「虹の園」事件では、施設長らが意思表示困難な8人の投票を操作。2022年の熊本では、職員が知的障害者に特定候補の名刺を持たせ投票を誘導し、9人が書類送検。2024年の藤沢市長選でも、職員2人が票を偽造し、罰金刑で幕引きとなった。
要するに、「介助」と「操作」の境目が、完全に溶けている。しかも厄介なのは、この手の不正が制度の“中”で起きることだ。外見上はすべて合法的手続きに見え、本人の「意思確認」をしたという一筆で事実が塗り替えられてしまう。支援の名を借りた支配。介護現場が、人の尊厳を奪う装置へと変わる瞬間である。
選挙不正と聞くと、政治家の買収や票の水増しを思い浮かべがちだ。しかし、ここで起きているのはもっと陰湿で、もっと静かな暴力だ。投票用紙一枚の重みを知らないまま、入所者の手を握り、候補者名を代筆する。暴力ではない。けれど、尊厳を踏みにじるという意味では、虐待と何も変わらない。
背景には、介護職員の疲弊や人手不足があるという“常套句”がある。だが、それは言い訳だ。人権意識があれば、どんなに過酷な現場でも「してはならないこと」は分かる。問題は、施設運営者がその意識を持たず、監督機関も“現場任せ”を放置してきたことにある。これは個人の逸脱ではなく、制度の腐食である。いま求められるのは、単なる罰則強化ではない。外部立会人の義務化、意思確認支援の専門職制度、投票過程の記録・監査、そして施設ごとの人権評価制度の導入。最低限、これらを整えなければ、制度は「不正を温める箱」にしかならない。
介護施設は、人の最期の時間を守る場所であるはずだ。だが、そこで人権が軽んじられ、票まで奪われるなら、もはや「施設」ではなく「囲い」だ。投票の自由とは、民主主義の根幹である。その最も弱い場所──病床や車椅子のそばで、その自由が消されている。選挙違反? そんな生ぬるい言葉では済まされない。これは、社会全体の怠慢が生んだ“集団的人権侵害”である。
私たちは、票の数ではなく、一票の尊厳を守る覚悟があるのか。その問いが、いま静かに突きつけられている。
つまり、他人の票を“盗んだ”のだ。不在者投票制度は、投票所に行けない高齢者や障害者が政治参加できるように設けられた仕組みだ。本来ならば「本人の意思」がすべての前提になる。しかし、現実にはその“本人”が確認されていない。立会人制度は形だけ、監視カメラもなし。制度は「性善説」に頼り切っており、職員の誠実さにすべてを委ねる設計だ。だが、その善意が通用しない現場が、いま全国に静かに広がっている。
同様の事件は過去にも何度も起きている。2013年の北九州市議選では、特養の施設長が認知症の入所者3人分の票を偽造し、有罪判決を受けた。2016年の鹿児島・奄美大島「虹の園」事件では、施設長らが意思表示困難な8人の投票を操作。2022年の熊本では、職員が知的障害者に特定候補の名刺を持たせ投票を誘導し、9人が書類送検。2024年の藤沢市長選でも、職員2人が票を偽造し、罰金刑で幕引きとなった。
要するに、「介助」と「操作」の境目が、完全に溶けている。しかも厄介なのは、この手の不正が制度の“中”で起きることだ。外見上はすべて合法的手続きに見え、本人の「意思確認」をしたという一筆で事実が塗り替えられてしまう。支援の名を借りた支配。介護現場が、人の尊厳を奪う装置へと変わる瞬間である。
選挙不正と聞くと、政治家の買収や票の水増しを思い浮かべがちだ。しかし、ここで起きているのはもっと陰湿で、もっと静かな暴力だ。投票用紙一枚の重みを知らないまま、入所者の手を握り、候補者名を代筆する。暴力ではない。けれど、尊厳を踏みにじるという意味では、虐待と何も変わらない。
背景には、介護職員の疲弊や人手不足があるという“常套句”がある。だが、それは言い訳だ。人権意識があれば、どんなに過酷な現場でも「してはならないこと」は分かる。問題は、施設運営者がその意識を持たず、監督機関も“現場任せ”を放置してきたことにある。これは個人の逸脱ではなく、制度の腐食である。いま求められるのは、単なる罰則強化ではない。外部立会人の義務化、意思確認支援の専門職制度、投票過程の記録・監査、そして施設ごとの人権評価制度の導入。最低限、これらを整えなければ、制度は「不正を温める箱」にしかならない。
介護施設は、人の最期の時間を守る場所であるはずだ。だが、そこで人権が軽んじられ、票まで奪われるなら、もはや「施設」ではなく「囲い」だ。投票の自由とは、民主主義の根幹である。その最も弱い場所──病床や車椅子のそばで、その自由が消されている。選挙違反? そんな生ぬるい言葉では済まされない。これは、社会全体の怠慢が生んだ“集団的人権侵害”である。
私たちは、票の数ではなく、一票の尊厳を守る覚悟があるのか。その問いが、いま静かに突きつけられている。
親権制度の大転換と野党 ― 2025年11月01日
来年4月、日本の親権制度は戦後以来の大転換期を迎える。改正民法により、離婚後も父母が共同で親権を持つ「共同親権」が選択可能となるこの制度は、「離婚は夫婦関係の解消であって、親子関係の断絶ではない」という、国際的にも標準的な理念に基づくものだ。子どもに対する責任は、父母が離婚後も共有すべきだというこの理念自体は、極めて明快で合理的である。しかし、国会審議では、この歴史的転換点となる制度に対し、一部野党が強い抵抗を見せた。日本共産党やれいわ新選組は、DVや虐待の加害者が親権を持ち続けることで被害者や子どもへの支配が続くという「運用のリスク」を前面に掲げ、制度そのものの導入に反対し、立憲民主党も賛成しつつ附帯決議で制限を求めるなど、慎重姿勢に終始したのだ。
ここで浮き彫りになるのは、日本の政策論議が抱える構造的な欠陥、すなわち「制度理念」と「運用リスク」の混同という病理である。共同親権が目指すのは、両親が離婚後も子どもに責任を持つという普遍的な原則の確立であり、DV事案などは、その原則を実現するにあたって、制度設計の中で制御すべき「例外的な課題」に過ぎない。にもかかわらず、野党の一部は、この例外的なリスクを理由に制度全体を否定するという、論理的に倒錯した構造に陥ってしまっている。これはあたかも、包丁が人を傷つけるリスクがあるからといって、その生産や販売を全て禁止せよと主張するに等しい、制度設計能力の欠如と映る。
そして、この病は共同親権に限定されるものではない。スパイ防止法やセキュリティークリアランス法における「国家安全保障」という理念と「恣意的運用」という懸念の分離拒否、さらには教育無償化や生活保護制度の見直し、憲法の見直しで9条や緊急事態条項といったあらゆる政策分野で繰り返されてきたのだ。制度の理念には賛同を示しながらも、具体的な運用リスクを声高に叫ぶことで制度創設自体を否定するこの姿勢は、結果として、国民が求める政策実現を遅らせ、立法府の議論を空転させている最大の原因である。
国際標準がすべて日本文化に適合するとは限らないが、制度と運用を峻別せず、懸念点を克服するための「制御の工夫」を放棄し、制度の否定に終始することは、立法府の責任放棄に等しいと言わざるを得ない。共同親権制度をめぐる議論は、私たち日本の政治が、普遍的な理念をいかに現実の法制度に落とし込み、運用上の課題を民主的統制によって乗り越えていけるのかを問う、重要な「政治の試金石」となるだろう。それにしてもこうした野党の幼稚な議論の繰り返しに国民はうんざりしていることに当事者が気づかないというのが一番問題なのだが。
ここで浮き彫りになるのは、日本の政策論議が抱える構造的な欠陥、すなわち「制度理念」と「運用リスク」の混同という病理である。共同親権が目指すのは、両親が離婚後も子どもに責任を持つという普遍的な原則の確立であり、DV事案などは、その原則を実現するにあたって、制度設計の中で制御すべき「例外的な課題」に過ぎない。にもかかわらず、野党の一部は、この例外的なリスクを理由に制度全体を否定するという、論理的に倒錯した構造に陥ってしまっている。これはあたかも、包丁が人を傷つけるリスクがあるからといって、その生産や販売を全て禁止せよと主張するに等しい、制度設計能力の欠如と映る。
そして、この病は共同親権に限定されるものではない。スパイ防止法やセキュリティークリアランス法における「国家安全保障」という理念と「恣意的運用」という懸念の分離拒否、さらには教育無償化や生活保護制度の見直し、憲法の見直しで9条や緊急事態条項といったあらゆる政策分野で繰り返されてきたのだ。制度の理念には賛同を示しながらも、具体的な運用リスクを声高に叫ぶことで制度創設自体を否定するこの姿勢は、結果として、国民が求める政策実現を遅らせ、立法府の議論を空転させている最大の原因である。
国際標準がすべて日本文化に適合するとは限らないが、制度と運用を峻別せず、懸念点を克服するための「制御の工夫」を放棄し、制度の否定に終始することは、立法府の責任放棄に等しいと言わざるを得ない。共同親権制度をめぐる議論は、私たち日本の政治が、普遍的な理念をいかに現実の法制度に落とし込み、運用上の課題を民主的統制によって乗り越えていけるのかを問う、重要な「政治の試金石」となるだろう。それにしてもこうした野党の幼稚な議論の繰り返しに国民はうんざりしていることに当事者が気づかないというのが一番問題なのだが。
スマホに奪われた「読書脳」 ― 2025年10月27日
信じがたいが、これは現実の数字だ。ベネッセと東京大学社会科学研究所が昨年実施した調査によると、小中高生の53%が「1日の読書時間0分」と答えた。半分以上の子どもが本を一行も読んでいない。2015年の34%からほぼ1.5倍。もはや「活字離れ」ではない──これは「活字絶食」である。そして、この“知的飢餓”の黒幕は、言うまでもなくスマートフォンだ。調査によれば、スマホの利用時間が長いほど読書時間が減る。たとえば小学高学年でスマホを3時間以上使う子の読書時間は平均9.5分。スマホを使わない子の半分以下だという。中高生になると、この差はさらに拡大する。つまり、「知るための道具」が「考える力」を奪っているのだ。
皮肉な話だ。子どもたちは“情報”に囲まれながら、言葉を失い、文章を読めず、考えることに耐えられなくなっている。SNSで数秒の動画を見て笑う代わりに、長文を前にすると「めんどくさい」と言う。脳がスマホ仕様に変質し始めている。だが読書は、単なる“勉強の下準備”ではない。東北大学や文科省の研究が繰り返し示すように、読書時間が長い子どもほど語彙力・読解力が高く、学力も良好だ。しかも読書はIQにも影響する。双子を追跡した研究では、初期IQが同じでも、読書量の多い方がIQが高くなることが確認されている。つまり読書とは、単なる趣味ではなく、脳のトレーニングだ。知識を増やすだけでなく、論理的思考や問題解決力といった「知能の筋肉」を鍛える行為なのだ。
その「筋トレ時間」を削ってまで、いまの学校は何を教えているのか。
小学校では英語が教科化され、プログラミング授業も増加。授業時間はこの10年で週2時間も増えた。だが、その裏で減っているのが国語と読書の時間だ。結果、全国学力調査では中学生の英語スピーキング正答率が2019年の30.8%→2023年12.4%へと激減。英語嫌いの児童も増えているという。つまり、「英語が大事」と叫ぶほど英語ができなくなり、「読書が大事」と言いながら読む時間がなくなる。──まるで教育行政のブラックジョークである。
文科省は「国際化」「情報化」を錦の御旗に、次々と新教科を押し込むが、それが子どもの発達段階を無視した“政策的スマホ依存”であることに気づいていない。現場の教師が「読書の時間が削られている」と声を上げても、上層部は「デジタル教材の充実」と言って耳を塞ぐ。だが、読解力が衰えれば、英語も数学も何も理解できなくなる。日本の教育は、根を切ったまま葉を磨こうとしている。
家庭でも読書習慣が維持できない今、公教育こそがその“最後の砦”であるはずだ。読書は学力の根を育てる「水」。英語もプログラミングも、その水で咲く「花」にすぎない。だが水を枯らせば、花は咲かない。それでもなお、教育行政は花壇のデザインばかり議論している。
「スマホが悪い」のではない。それに支配される大人の無策こそが、子どもたちの知性を干からびさせている。読書時間の確保は“文化政策”ではない。“国家の存続戦略”だ。今こそ、文科官僚も政治家も、タブレットを置いて一冊の本を読むべきだろう。せめて「考える」という行為が、どういうことだったのかを思い出すために。
皮肉な話だ。子どもたちは“情報”に囲まれながら、言葉を失い、文章を読めず、考えることに耐えられなくなっている。SNSで数秒の動画を見て笑う代わりに、長文を前にすると「めんどくさい」と言う。脳がスマホ仕様に変質し始めている。だが読書は、単なる“勉強の下準備”ではない。東北大学や文科省の研究が繰り返し示すように、読書時間が長い子どもほど語彙力・読解力が高く、学力も良好だ。しかも読書はIQにも影響する。双子を追跡した研究では、初期IQが同じでも、読書量の多い方がIQが高くなることが確認されている。つまり読書とは、単なる趣味ではなく、脳のトレーニングだ。知識を増やすだけでなく、論理的思考や問題解決力といった「知能の筋肉」を鍛える行為なのだ。
その「筋トレ時間」を削ってまで、いまの学校は何を教えているのか。
小学校では英語が教科化され、プログラミング授業も増加。授業時間はこの10年で週2時間も増えた。だが、その裏で減っているのが国語と読書の時間だ。結果、全国学力調査では中学生の英語スピーキング正答率が2019年の30.8%→2023年12.4%へと激減。英語嫌いの児童も増えているという。つまり、「英語が大事」と叫ぶほど英語ができなくなり、「読書が大事」と言いながら読む時間がなくなる。──まるで教育行政のブラックジョークである。
文科省は「国際化」「情報化」を錦の御旗に、次々と新教科を押し込むが、それが子どもの発達段階を無視した“政策的スマホ依存”であることに気づいていない。現場の教師が「読書の時間が削られている」と声を上げても、上層部は「デジタル教材の充実」と言って耳を塞ぐ。だが、読解力が衰えれば、英語も数学も何も理解できなくなる。日本の教育は、根を切ったまま葉を磨こうとしている。
家庭でも読書習慣が維持できない今、公教育こそがその“最後の砦”であるはずだ。読書は学力の根を育てる「水」。英語もプログラミングも、その水で咲く「花」にすぎない。だが水を枯らせば、花は咲かない。それでもなお、教育行政は花壇のデザインばかり議論している。
「スマホが悪い」のではない。それに支配される大人の無策こそが、子どもたちの知性を干からびさせている。読書時間の確保は“文化政策”ではない。“国家の存続戦略”だ。今こそ、文科官僚も政治家も、タブレットを置いて一冊の本を読むべきだろう。せめて「考える」という行為が、どういうことだったのかを思い出すために。
理念ばかりで測らない国 ― 2025年10月25日
昨日の「小1プロブレム」報道を見て、あらためてこの国の教育政策の“体質”を痛感した。なぜ日本では、効果検証もないまま施策が次々と導入され、そして静かに消えていくのか。現場の疲弊だけが理由ではない。制度の寿命を縮めているのは、「理念だけを信仰する文化」と「検証を忌避する官僚主義」だ。「人間を数値で測るな」──教育現場で繰り返されるこの言葉は、もはや呪文の域にある。子どもの成長は数字では表せない、信頼関係がすべて、現場の声を尊重せよ……。聞こえはいい。だが、こうした“美辞麗句”こそが検証責任を回避する口実になってきた。理念は語られても、成果は測られない。現場の努力に丸投げし、政策の評価は感想文でお茶を濁す。そんな曖昧な制度が、国の根幹を担っているのだ。
工学や医学の世界なら、新薬が効いたかどうか、設計変更が安全性を高めたかは、数値で示されなければ議論の土俵にも上がらない。だが教育や福祉では、“定量的な検証”が“人間味の欠如”とみなされる奇妙な風潮がある。その結果、制度は理念と現実の間で空回りし、現場は疲弊し、国民は成果を実感できない。
そして、検証なき制度は政治の都合で生きも死にもする。成果が不明確なまま、「現場が望んでいる」「保護者が安心している」といった感覚的な理由で延命される。一方で、政権交代や財政再編のタイミングでは、「費用対効果が悪い」として切り捨てられる。科学的根拠ではなく、印象と空気が政策の生死を決めている。これが「民主的行政運営」と言えるだろうか。
さらに厄介なのは、国際比較が“魔法の言葉”として機能していることだ。OECDの報告書やフィンランドの成功例が、理念としてありがたく輸入される一方で、国内での再現性や効果検証はほとんど行われない。「世界標準に合わせる」「グローバル人材を育てる」といったスローガンは、政策の実効性を覆い隠す飾りにすぎない。制度文脈を無視した模倣は、現場の混乱を深め、結果的に迷惑を被るのは子どもたちである。
たとえば、「フィンランドに学べ」と持ち上げて導入された“ゆとり教育”は、PISAの得点低下をきっかけに手のひらを返され、今度は授業時間の増加へと舵が切られた。小学校への英語教科導入も同様で、「国際化」の名のもとに急ぎ足で進められたが、導入後に英語嫌いの子どもがむしろ増えているのは、すでに各種調査でも明らかだ。
それでも、日本の行政は「文化的背景が違うから仕方ない」と自らを慰める。だが、それは怠慢の正当化だ。文化は制度設計の条件であって、検証責任の免除理由ではない。むしろ文化的多様性を踏まえた上で、数量的データと質的評価を両立させる枠組みこそ必要だ。理念を守るためにも、測定が不可欠なのである。
理念を語るのは簡単だ。だが、実装を測るのは痛みを伴う。数字は嘘をつかない分、政治家にも官僚にも都合が悪い。だからこそ、日本では「感想文行政」がはびこる。報告書は“努力の跡”を強調し、失敗の原因は「現場の課題」として処理される。だが、本当に問われるべきは、制度が“何を達成したか”であり、“どんな思いで取り組んだか”ではない。
理念は必要だ。しかし、理念だけでは国は動かない。検証なき制度は、成果がなくても延命され、成果があっても切り捨てられる。それは制度が「公共のため」ではなく「政治のため」に存在している証左である。
教育政策に今こそ必要なのは、“語る勇気”ではなく“測る覚悟”だ。理念を守るためにも、実装を可視化し、制度の正統性を「感情」から「データ」へと引き上げる。その一歩を踏み出せない限り、日本の教育は永遠に“感想文の国”から抜け出せない。科学的根拠のある教育施策はいつになったら実現するのだろう。
工学や医学の世界なら、新薬が効いたかどうか、設計変更が安全性を高めたかは、数値で示されなければ議論の土俵にも上がらない。だが教育や福祉では、“定量的な検証”が“人間味の欠如”とみなされる奇妙な風潮がある。その結果、制度は理念と現実の間で空回りし、現場は疲弊し、国民は成果を実感できない。
そして、検証なき制度は政治の都合で生きも死にもする。成果が不明確なまま、「現場が望んでいる」「保護者が安心している」といった感覚的な理由で延命される。一方で、政権交代や財政再編のタイミングでは、「費用対効果が悪い」として切り捨てられる。科学的根拠ではなく、印象と空気が政策の生死を決めている。これが「民主的行政運営」と言えるだろうか。
さらに厄介なのは、国際比較が“魔法の言葉”として機能していることだ。OECDの報告書やフィンランドの成功例が、理念としてありがたく輸入される一方で、国内での再現性や効果検証はほとんど行われない。「世界標準に合わせる」「グローバル人材を育てる」といったスローガンは、政策の実効性を覆い隠す飾りにすぎない。制度文脈を無視した模倣は、現場の混乱を深め、結果的に迷惑を被るのは子どもたちである。
たとえば、「フィンランドに学べ」と持ち上げて導入された“ゆとり教育”は、PISAの得点低下をきっかけに手のひらを返され、今度は授業時間の増加へと舵が切られた。小学校への英語教科導入も同様で、「国際化」の名のもとに急ぎ足で進められたが、導入後に英語嫌いの子どもがむしろ増えているのは、すでに各種調査でも明らかだ。
それでも、日本の行政は「文化的背景が違うから仕方ない」と自らを慰める。だが、それは怠慢の正当化だ。文化は制度設計の条件であって、検証責任の免除理由ではない。むしろ文化的多様性を踏まえた上で、数量的データと質的評価を両立させる枠組みこそ必要だ。理念を守るためにも、測定が不可欠なのである。
理念を語るのは簡単だ。だが、実装を測るのは痛みを伴う。数字は嘘をつかない分、政治家にも官僚にも都合が悪い。だからこそ、日本では「感想文行政」がはびこる。報告書は“努力の跡”を強調し、失敗の原因は「現場の課題」として処理される。だが、本当に問われるべきは、制度が“何を達成したか”であり、“どんな思いで取り組んだか”ではない。
理念は必要だ。しかし、理念だけでは国は動かない。検証なき制度は、成果がなくても延命され、成果があっても切り捨てられる。それは制度が「公共のため」ではなく「政治のため」に存在している証左である。
教育政策に今こそ必要なのは、“語る勇気”ではなく“測る覚悟”だ。理念を守るためにも、実装を可視化し、制度の正統性を「感情」から「データ」へと引き上げる。その一歩を踏み出せない限り、日本の教育は永遠に“感想文の国”から抜け出せない。科学的根拠のある教育施策はいつになったら実現するのだろう。