ゴールポストをずらすな2026年06月02日

政治的活動と一体化していないか
沖縄・辺野古の海で、抗議活動団体の船に生徒が乗り込み事故が起きた。文科省は、フィールドワークを行った同志社国際高校に対し「政治的活動と一体化」し教育基本法に違反していると発表した。すると、これに真っ先に反発したのが共産党である。「教育への介入だ」「フィールドワークの自由を守れ」と、立派な言葉を次々と繰り出す。だが、その言葉の勢いとは裏腹に、肝心の現場の話になると急に口が重くなる。料理番組で「味付けが命です」と言いながら、鍋の中身だけは絶対に見せない、あのもどかしさである。

事実はそう複雑ではない。抗議活動が続く海域に出向き、その活動に関わる団体の船に乗り、講師は「自分たちは違法なこともしている」と語った。教師もそれを聞いていた。それでも学習を続けた。ここまで並べれば、議論の半分は終わっている。残るのは「その判断は適切だったのか」という一点だけだ。ところが、この“簡単な問い”ほど、共産党はなぜか遠回りしたがる。真っすぐ歩けば五分で着くのに、わざわざ峠道に入り、尾根を三つ越えて、道に迷い、気づけば元の場所に戻って目的地には到着しない。

案の定、話は妙な方向へ曲がる。「政党支持ではないから問題ない」「教育の自由が大事だ」「平和教育を委縮させるな」。どれも耳ざわりはいい。だが、それは鍋の“味付け”の話であって、“材料”の話ではない。文科省が問うているのは「政治的活動と一体化して偏向していないか」という一点なのに、その問いに正面から答えず、別の話にすり替える。材料を見せずに「この料理は自由の味がします」と言われても、こちらは困る。自由の味とは何か。塩なのか、砂糖なのか、それともただの言い訳なのか。

さらに厄介なのは、共産党の側も理屈に逃げたくなることだ。「中立性がどうだ」「法解釈がどうだ」と積み上げれば、それらしくは見える。だが、事実を見ずに論理だけ積むのは、砂の上に城を建てるようなものだ。形は立派でも、波が来れば一瞬で崩れる。しかも、その砂の城を前にして「これは平和と自由の象徴である」と言い出す人まで現れる。そこまで来ると、もう議論ではなく、砂遊びである。

本質はもっと単純だ。違法行為を含むと自ら語る主体の現場に、生徒を置いた。その判断は適切だったのか。ここに尽きる。違法性の細部を大仰に論じるまでもなく、その時点で教育としての線を越えている、と考えるのが自然だろう。ところが、この「自然」がまた気に食わないらしい。どれだけ大雨が降っていても「俺は風邪ひかない」と言い張って傘をささない人のように、当たり前のことでも認めようとしない。

結局のところ、議論とは難しい言葉を並べることではない。まず事実を拾い、その上で判断する。それだけの話である。当たり前のことを当たり前にやる。それができないとき、人は抽象論という季節外れの厚着をしてしまう。真夏にコートを着込んで汗だくになりながら、「これで理屈は通る」と妙に安心している姿である。今回の一件は、その姿をいやに鮮明に映し出している。議論の道は本来まっすぐなのに、わざわざ曲がり角を探しに行く。その癖が、今回も見事に顔を出したのである。

「送料無料」研究は正しいか2026年06月01日

「送料無料」研究の間違い
世の中には「送料無料」という、なんとも人の心をふにゃっとさせる魔法の札がある。あれを見ると、財布の紐が勝手に伸びる。まるで“おいでおいで”してくる猫の手だ。しかし、よく考えれば送料が蒸発したわけでも、宅配業者が慈善活動を始めたわけでもない。商品価格にこっそり混ぜられているだけだ。ところが人間というのは、この簡単な算数をなぜか忘れる。「無料」と聞いた瞬間、脳のどこかがそわそわ動き出すらしい。韓国の研究チームがfMRIで調べたところ、報酬系と呼ばれるあたりの血流が増えて、「おっ、無料だぞ」と反応したように見えるというのだ。

だが、こちらとしては「本当にそんな話かね」と眉をひそめたくなる。なにしろこの手の実験、数的リテラシーや計算能力といった“個体差”が往々にして無視されている。九九が怪しい人も、暗算が趣味の人も、全部ひとまとめにして「脳がこう反応した」と言われてもそりゃあ困る。人間の脳を無理やり平均化して「ほら、無料は全人類にとっての報酬だ」と言われても、平均の波に沈められた個性がぷかぷか浮かんで抗議しているのが見えるようだ。

実際のところ、送料無料が好まれる理由はもっと地味で、もっと人間くさい。要するに「計算が面倒くさい」のである。送料200円だの400円だの、いちいち足し算して他店と総額を比べるのは、脳にとっては立派な重労働だ。脳はいつだって省エネ運転をしたい「認知のケチ」なのだ。そこへ「0円」と出されると、「ああ、今日は計算しなくていいんだ」と脳がホッとする。この“解放感”が報酬系に映り込んでいるだけで、別に無料という概念そのものが神々しいわけではない。算数嫌いの子どもが「今日は宿題なし!」と言われて跳ね回るのと同じ構造だ。

そしてここからが本題である。計算が不得手な人ほど、この“送料無料”にパッと飛びつきやすい。脳の報酬系が「おっ、計算しなくていいぞ」とばかりに、ちょっとした花火大会を始めてしまうのである。つまり、この反応の強弱そのものが、被験者の“計算したくなさ”の度合いをそのまま映し出している。

だから、この実験の被験者にあとから算数テストを受けてもらったとしても、そこで出てくる得点の散らばり方は、今回の「送料無料への反応」のばらつきとほとんど同じ形になるだろう。というのも、この実験そのものが、実質的には“計算を前にしたときに脳がどれだけイヤそうな表情を浮かべるか”を測っているようなもので、あとから算数テストを持ってきても「はいはい、これね」と言わんばかりに、同じような散らばり方を見せるに決まっているのである。

この「複雑な計算を前にすると、脳が白旗を上げて思考を止める」という性質を裏返すと、別の罠も見えてくる。たとえば、利息や総額の計算をあえて細かく刻んで「1日あたり、わずか○円!」と提示されると、数字を見るだけで肩がこるような人まで、なぜか妙に納得してしまう。脳が総額の掛け算を放棄して、目の前の小さな数字だけをつまんで「まあ、このくらいなら」と勝手に折り合いをつけてしまうのだ。脳というのは、こういうときだけ妙に楽天的で、財布の中身のことなど一切考えていない。これも結局、「送料無料」に釣られるのと同じ“脳の横着”の親戚筋である。

そして、話をさらにややこしくしているのが科学報道である。「脳科学が証明した!」とタイトルに書かれた瞬間、脳はそれだけで「はいはい、正しいんでしょ」と思考を放棄する。難しい統計を読むより、五文字を信じるほうがはるかに楽だからだ。タイトルを見た途端、脳がソファに寝転んでしまうのである。送料無料に飛びつくのも、科学報道にひれ伏すのも、ただの「認知負荷を避けたい」という人間らしい怠惰の産物。私たちがひれ伏しているのは無料の魔力でも脳科学の権威でもなく、自分の脳がこっそり仕掛けてくる、ちょっとお茶目な錯覚なのである。

合成の誤謬ナフサ問題2026年05月22日

合成の誤謬・ブルウィップ効果
ナフサ由来の商品が足りない――とニュースが言う。ナフサ? なんだか聞き覚えはあるのに、いざとなると正体がつかめない。灯油のはとこか、ガソリンの遠い親戚か。そんな曖昧な存在が、突然「不足するらしい」と言われると、こちらの心まで曖昧にざわつく。で、ざわついた心が棚に走る。ああ、また始まった。トイレットペーパー、マスク、そして今回はナフサ。日本人は“○○不足”と聞くと、反射的に棚へダッシュする民族なのか。

ところがよく聞けば、ナフサそのものは足りているという。蒸留も順調、タンカーも元気に来ている。足りないのは、その先の溶剤だの樹脂だの、用途別の“細かいところ”だけらしい。つまり、全体は満タンなのに、蛇口のネジがちょっと固い、みたいな話だ。それなのに人間は、部分の不足を見ると全体が危ないと思い込む。いわゆる「合成の誤謬」である。近所のスーパーの棚が空だと、日本全体が終わった気がする。SNSがそれを全国に拡声して、火に油を注ぐ。いや、ナフサに油を注ぐのはどうかと思うが。

で、みんなが「念のため」に買う。念のための念のため。すると本当に不足する。いわゆるブルウィップ効果というやつだ。店で5%売れ残りが減ると、卸は20%増発注、メーカーは40%増産、上流は100%。まるで伝言ゲームで「りんご」が「ドラゴンフルーツ」になるように、需要が勝手に膨れ上がる。で、過剰発注の山ができ、買い占めが終わると今度は暴落。市場は忙しい。ジェットコースターに乗せられているみたいだが、乗っているのは私たちである。

ここで政府が慌てて「買い占めはやめて」と言うと、逆に不安が増す。「やめて」と言われると「やっぱり危ないのか」と思うのが人情だ。数量制限をかければ「ほら見ろ」となる。価格を固定すれば供給が死に、統制経済の入口が開く。統制すれば裏をかく者が出る。配給すれば闇市場が生まれる。歴史は何度も見た光景である。善意で始めた統制が、気づけば同じ失敗をなぞる。ではどうするか。万能薬はない。あるのは「市場を殺さず、パニックだけ殺す」という、少々気難しい処方箋だ。価格は自由に、数量制限は最小限に、情報は用途別に細かく出す。どこが詰まり、どこは流れているのかを、全体ではなく“蛇口”の話として伝える。それでも揺れは消えないが、揺れ方は穏やかになる。

結局、必要なのは教育である。といっても、黒板いっぱいにグラフを描くような話ではない。もっと実用的で、もう少し切実なやつだ。たとえば道徳の時間に「トイレットペーパーがなくなりそうなときの心の持ち方」をやる。先生が教壇に立つ。「はい、ここにクラス1日分の3ロールがあります。さて、どうしますか」生徒A「全部買います!」生徒B「半分にします!」生徒C「家にあるけど念のため1個買います!」ここで先生、チョークを持って黒板に一行。「それ、30人全員がやるとどうなる?」教室が一瞬だけ静かになる。たぶんこの沈黙が、いちばん大事なところだ。これでいい。立派な経済教育である。下手なグラフを何枚も見せるより、よほど効く。大人になってからニュースを見て棚に走るより、ずっと安上がりで、しかも副作用がない。社会は完璧に安定しないが、少なくとも自分の足でダッシュする回数くらいは減らせる。

算数を数学に?2026年05月19日

算数を数学に?
いやはや、文部科学省の中央教育審議会というところは、ときどき「看板屋さん」みたいなことを言い出す。「小学校の算数を中学・高校と同じ“数学”にしてはどうか」。理由は「学びの連続性」だそうである。なるほど、表札を揃えれば家並みはきれいに見える。だが、家の中が迷路のままでは、来客は相変わらず廊下で右往左往するばかりではないか。しかもその迷路、ところどころに段差があって、油断するとつまずく。そんな家に「数学」と書いた表札を掲げても、訪れた人はやっぱり転ぶ。

そもそも日本のカリキュラムというのは、どこか「急げ急げ」と背中を押す癖がある。小5から中1にかけて、割合だの単位量あたりだの速さだの密度だの濃度だの、あげくに文字式まで、「はい次、はい次」と流し込んでくる。まるで、昨日まで平地を歩いていたのに、今日から急に登山口に立たされ、「さあ、あの山の頂上まで行ってきて」と言われるようなものだ。しかも地図は渡されず、コンパスもなし。頼りは自分の足と勘だけである。

ところが10歳から12歳というのは、頭の中の“抽象スイッチ”の入り方にずいぶん個人差がある。軽やかにポンポン上がる子もいれば、「あれ、次の段が見えないぞ」と足踏みする子もいる。中には、階段の前で「これは本当に階段なのか」と哲学的な疑問を抱き始める子もいる。そこへ“抽象化ラッシュ”が押し寄せるのだから、つまずく子が出るのは、まあ自然の成り行きである。実際、国際調査のTIMSSでも、日本では小4のときには「算数が得意」と胸を張っていた子どもが半分以上いたのに、中2になるとぐっと減る。これはどう考えても、「算数か数学か」という看板の問題ではない。家のつくりの問題である。階段の角度が急すぎるのだ。

ところが議論のテーブルを見ると、これがまた立派な肩書きの方々がずらりと並んではいるのだが、どうも「算数は得意でした」という人が多すぎる。しかも、子どもの認知発達を専門にする研究者は皆無である。そのせいか、「子どもがどこでつまずくか」を肌で知っている人が、あまり見当たらない。靴屋が足のサイズも測らずに「最近は26センチが流行りです」と言って靴を並べているようなもので、履くほうはたまったものではない。しかもその靴屋、流行の色やデザインにはやたら詳しいのに、「この人は外反母趾かもしれない」という視点はまるで持ち合わせていないのである。

ではどうするか。話はそう難しくない。階段の段差を少し低くしてやればいいのである。具体的なものから入り、少しずつ半分だけ抽象にし、最後にきちんと抽象へ持っていく。速さや密度といったものも、「比の仲間」としてまとめて教えれば、「ああ同じ顔をしているな」と気づける。これを小4から中1までにばらして置いておけば、いまのような“ドッと来る感じ”はずいぶん和らぐはずだ。

人間の頭というのは不思議なもので、余裕があるときにこそ、寄り道をしたり、面白いことを考えたりする。ところが、いまのカリキュラムは、どうも頭の中に荷物を詰め込みすぎて、立ち止まる場所がない。これでは創造力もへったくれもない。結局のところ、「算数」を「数学」と呼び替えるかどうかは、玄関の表札を新しくするような話である。もちろん表札が曲がっているよりは、まっすぐなほうがいい。しかし、その前にやるべきは、家の中の段差を削ることではないか。来た人が転ばない家。それが、まず先だと思うのである。

個人情報保護法違反PTA名簿2026年05月18日

個人情報保護法違反のPTA名簿
静岡市で、学校がPTAに名簿を渡していた──と聞くと、なんだか昔の町内会の回覧板みたいである。名前がぐるぐる回って、最後は誰の家にあるのかわからなくなる、あの感じだ。ところが今どきは、これが個人情報保護法に触れるらしい。時代というのは、ある日ふっと「それ、ダメです」と言い出すから油断がならない。市教委の調査では、20校で9200人分。同意なし。数字だけ見ると、なかなかの“大漁”である。だが現場の先生にしてみれば、「いや昨日まで普通にやってましたけど」という顔になるだろう。ここにすでに、話のズレがある。

このズレ、何に似ているかと考えると、自転車の歩道走行である。歩道は歩行者がいて気をつかうし、車道は車がビュンビュン来て怖い。だからつい歩道をそろそろ走る。誰もが一度はやっている。ところがある日、「はい違反です」と笛を吹かれる。こちらとしては、悪いことをしているつもりはなかったのに、急に“違反者”である。名簿の話も、どうもこの感じに近い。こういうときに元気になるのが、「どっちが悪いか」をすぐ決めたがる人たちだ。事情はどうでもいい、とにかく白黒つけたい。白か黒か、勝ちか負けか。おそらく判定が好きなのだろう。だが現場で動いている側からすると、「ちょっと待ってくれ」と言いたくなる。昨日までの善意が、今日から違反になるのだから、話が急すぎる。

PTAというのは教師と保護者の任意団体である。任意といいつつ、気がつくと半分くらい義務の顔をしている。役員はだいたい前任者のノートを引き継ぎ、「去年もこうだったから」で回していく。安全運転である。ここで「ちょっと変えませんか」と言うと、「じゃああなたがやってください」とくる。この一言、なかなかの切れ味で、たいていの人はここで黙る。校長先生も大変である。昔は地域の顔役みたいなところがあって、PTA顧問といえば「まあ一席どうぞ」という余裕もあった。ところが今は、書類、監査、説明責任と、机の上がどんどん高くなる。顔を上げるとまた書類が増えている。気がつけば「責任は重いが権限は軽い」という、なんとも不思議な立場である。

教育委員会はというと、ここでスッと法律を持ち出す。「これはダメです」と線を引く。たしかに間違ってはいないのだが、どうも話が早すぎる気もする。現場の「なぜこうなったか」は、その線の少し手前にある。結局のところ、学校とPTAと地域が、いちど腰を下ろして話すしかないのだろう。「なんとなく続いてきたこと」を、「これからどうするか」に変える作業である。面倒といえば面倒だが、やらないと、また同じことが別の形で起きる。

良いPTAというのは、不思議と人が集まる。頼まれていないのに手伝う人がいて、言わなくても話が通じる。そういう流れが一度できると、名簿がなくてもだいたい回る。逆に、形だけ残ると、何をやってもぎこちない。さて今回の件、違反は違反として、では明日からどうするのか。そこがいちばん難しい。笛を吹くのは簡単だが、自転車の行き先までは教えてくれない。ここから先は、誰かが少しずつ、様子を見ながら漕ぐしかないのである。

「文学」と機能性ヨーグルト2026年05月15日

「文学をもっと読ませよう」文科省
文部科学省がまた高校国語の科目を組み替えるという。現代の国語Ⅰ、Ⅱ、言語文化Ⅰ、Ⅱ。なんだかスーパーのヨーグルト売り場を眺めている気分である。「濃厚」「とろける」「腸まで届く」と、効能ばかり立派な名前がずらりと並び、結局どれを選べばいいのか分からない。しかも今回は“標準科目”と称して、ほぼ全員が食べることになる国語の定食セットらしい。AI時代だから国語力が大事だ、と言われれば、こちらも「まあ、そうでしょうね」とうなずくしかない。AIが文章をつくる時代、人間はもっと文章を読んで、書いて、話して、聞いて、つまり“人間らしいこと”をしなければならないらしい。

そこで文科省は、「文学をもっと読ませよう」と言い出した。理系の生徒にも文学を読ませ、“みずみずしい感性”を育てるのだという。たしかに文学を読むと、心がふわっと動く瞬間はある。だが文学というのは、本来そんなに“量”で勝負するものだっただろうか。昔の日本人は、八犬伝や忠臣蔵のような人気の物語を、繰り返し読み、語り、聞いていた。つまり文学は“大量消費”ではなく、“生活との距離”が近かったのである。

ところが現代はどうか。家庭ではゲームが止まらない。止めようとすると、子どもは干物に水をかけたみたいに急にぷるぷる動き出し、「あと5分」「今セーブできない」と言いながら、気づけば1時間経っている。家庭はすでに“ゲームの巣窟”である。そこへ学校が「もっと読書を」と呼びかけても、砂漠に水鉄砲で挑むようなものだ。しかもゲームは光る、鳴る、動く、褒めてくれる、レベルまで上がる。学校は黒板があるだけである。勝負にならない。だからといって学校がゲームの真似をしても仕方がない。学校は、学校にしか出せないものを出すしかないのである。

それが、実体験と言葉の往復だ。ただし、体験なら何でもいいわけではない。「本物に触れれば子どもは育つ」などという雑な標語を真に受けると危ない。辺野古では抗議船が転覆し、高校生が亡くなった。あれは海でも波でもなく、大人の独りよがりが招いた事故である。必要なのは刺激の強さではない。“言葉に変えられる余白”である。激しい出来事や、大人の価値観を一方的に流し込むような体験では、子どもの感性はむしろ痩せていく。驚きや感動というのは、本来、自分で考え、自分で気づくから育つのである。振り返り、「あれは何だったのか」と考え、自分の言葉を探せる距離があって、はじめて体験は学びになる。

学校が本当にやるべきなのは、派手なイベントではなく、もっと地味な“言葉の筋トレ”だろう。校庭の隅の雑草の名前を調べる。給食のパンが昨日より固い理由を考える。友達とのちょっとした行き違いを文章にしてみる。そういう、誰にもバズらない小さな体験のほうが、あとからじわじわ効いてくる。文学は、その“じわじわ”を増幅してくれる装置なのである。文科省の再編は悪くない。文学を戻すのも悪くない。ただ、文学は棚に並べれば効く“機能性ヨーグルト”ではない。自分の生活に引き寄せ、噛みしめ、「あれ、こんな味だったのか」と気づいた時に、はじめて血肉になる。冷蔵庫の奥で忘れられていた漬物が妙にうまい。文学とは、案外ああいうものなのかもしれない。

憲法96条問題2026年05月14日

憲法96条問題
国会という場所は、どうも“本丸を避ける名人”が揃っているらしい。毎年のように「憲法改正の議論を深めるべきだ」と威勢のいい声が飛ぶ。ところが、いざ始まると出てくるのは緊急事態条項だの任期延長だのオンライン国会だの、いわば“台所の蛇口が壊れているのに、動かしようのない棚の位置を延々と議論している”ような話ばかりだ。本当に直すべきは蛇口なのに、誰もそこへ手を伸ばそうとしない。蛇口とはもちろん、憲法96条である。

この96条、日本国憲法を改正するには、衆議院と参議院のそれぞれで総議員の3分の2以上の賛成が必要だという条文だ。しかも、その先には国民投票まで待っている。つまり、どれほど改憲論を戦わせても、96条を突破できなければ国民投票の土俵にすら上がれない。国会で何年議論しようが、最後は“ゼロ”。ゼロのまま「議論は深まった」と胸を張るのだから、これはもう砂漠で井戸を掘るふりをしながら、実際にはスコップで砂遊びをしているようなものである。

しかも厄介なのは、この3分の2という数字が、参議院制度と組み合わさることで、ほとんど“開かずの扉”になっていることだ。衆議院はまだいい。小選挙区制の追い風で、大勝すれば3分の2に届くこともある。しかし参議院はそうはいかない。半数改選なので、一度の選挙で議席は半分しか動かず、1人区では野党共闘も効きやすい。つまり参議院は、そもそも“3分の2を作りにくい構造”なのである。

つまり日本の改憲論というのは、実は「改憲案の中身」で止まっているのではない。“入り口の鍵”が硬すぎて前に進めないのである。

これを子どもでも分かるように説明する方法がある。学級会で「デザートはプリンかアイスか」を決める。普通なら多数決で決まる話だ。ところが先生が突然、「奇数番号の班の班長会議と、偶数番号の班の班長会議、その両方で3分の2以上の賛成が必要です」と言い出す。するとプリン派もアイス派も、それぞれ過半数くらいの支持は集めるのに、どちらかの会議で届かない。結局、何も決まらない。子どもたちは「半分以上が賛成しているのに、なんで決まらないの?」と首をかしげるだろう。これが96条の現実である。多数が支持しても、“3分の2の壁”の前では止まってしまう。

では、なぜ国会は96条そのものを正面から議論しないのか。理由は単純で、「ルールを変えてまで憲法を変えるのか」という反発を政治家が恐れているからだ。しかし皮肉なのは、その“ルール”自体が、日本の政治制度を極端に硬直化させている点にある。本来なら、改憲に賛成か反対か以前に、「入口の条件として妥当なのか」を議論しなければならない。ところが学校でもメディアでも、理念論ばかりが先に走り、制度設計そのものはほとんど共有されない。

だから国会は、96条を避けたまま周辺だけをいじる。いじって、いじって、いじり倒して、結局なにも変わらない。変わらないのに「議論は深まった」と胸を張る。これを欺瞞と言わずして何と言うのか。「議論を深めれば民意が惹起され、野党も賛成に回る可能性がある」という主張は、正義としては期待したい。だが国会は議論が深まれば深まるほど、与党は与党の顔、野党は野党の顔を守らねばならず、支持母体の視線が背中にビシビシ刺さる。国会の2/3はコンクリートで固めた壁。議論で動くように見えて、実はまったく動かないのである。

憲法審査会で、実現可能性の低い改憲案を延々と並べているくらいなら、一度、議員たち自身が「プリンかアイスか会議」を体験したほうがいい。国会のセンセー方なら、プリンかアイスではなく、おはぎか団子でも構わない。奇数班と偶数班に分かれ、それぞれで3分の2以上を取らなければデザートなし――。何なら両派の後ろに、おはぎ協会と団子促進会の“協賛”までつけてみればいい。おそらく十分もしないうちに、「こんなルールでは何も決まらないじゃないか」という声が飛び始めるだろう。国会が避け続けてきたのは、まさにその“決まらなさ”そのものなのだ。

その瞬間、彼らは初めて、自分たちが毎年やっている“憲法論議ごっこ”の正体に気づくのかもしれない。

共生社会と個人情報2026年05月09日

共生社会と個人情報
宮城教育大付属特別支援学校のニュースを見て、「うわあ、学校それはまずいだろう」と思った人は多いはずである。地下鉄で迷惑行為があったとして、一般の通報者を学校に招き、生徒名簿を見せた。しかも顔写真付き。保護者は「鉄道警察隊への提出用」として了承していたもので、見知らぬ第三者への公開は許されない。文科省も「目的外利用」と指摘し、学校は謝罪。当該生徒は登校拒否のまま卒業したという。

ここまで聞くと、学校が悪い。終わり。そういう話に見える。だが、世の中というのは、「終わり」で終わらない。むしろ、そこからギシギシと妙な音がし始める。まず地下鉄のトラブルというのは、本来ぜんぶ警察案件である。足を蹴られた、怒鳴られた、押された。これは学校の生活指導ではなく、鉄道警察隊の仕事だ。ところが今回の通報者は、制服やヘルプマークを見て、「学校へ知らせた方がいいのでは」と考えたのだろう。これ、なんとなく分かるのである。

昔の町内には、頼まれてもいないのに学校へ知らせに来る人がいた。「あそこの子、駅前でちょっと荒れてたよ」とか、「最近元気ないねえ」とか、そういうことを伝えに来る。いま風に言えば“地域連携”だが、昔は単なる世話焼きである。社会というのは、実はこういう余計なお節介で回っていた。そして、子どもを確認するために集合写真や卒業アルバムを見せるようなことも、昔は案外普通にあった。「ああ、この子ですか」「この帽子の子かな」と、地域と学校が雑に情報を擦り合わせる。かなり危ういのだが、その危うさ込みで社会は動いていた。今回も、学校側の感覚としては、おそらくそちらに近かったのではないか。「名簿を開示した」というより、「どの子か写真で確認した」という現場感覚である。

ところが、これを法律や報道の言葉へ翻訳すると、一気に響きが変わる。「確認のために写真を見せた」は、「顔写真付き個人情報を第三者へ提供した」になる。「どの生徒か確認した」は、「名簿を閲覧させた」になる。すると学校は、まるで秘密ファイルを外部へ流出させた組織のような輪郭を帯び始める。もちろん、保護者が怒るのは当然だ。顔写真付き名簿を第三者に見せられたのだから、「それは違うだろう」となる。当たり前である。そして「個人情報保護法違反」という言葉が出た瞬間、善意がきっかけの地域の中の揉め事だったものが、一気に全国ニュース級の“不祥事”へ変わる。

だが、この話でいちばん強い燃料を投げ込んだのは、実はメディアかもしれない。学校も、通報者も、保護者も、本来は「子どもをどう支えるか」という同じ円の中にいた。多少やり方を間違えたとしても、本来は地域と学校の間で調整される種類の話だった。ところが、そこへ「個人情報漏洩」「第三者閲覧」「目的外利用」という強い言葉が並ぶと、空気は一変する。学校は“不祥事側”になり、保護者は“被害者側”になり、通報者は“危険な第三者”になる。本来は、現場の雑で不器用な確認作業だったものが、全国消費型の炎上案件へ変換されてしまうのである。

すると学校側も縮こまる。地域住民も、「もう学校には言わない方がいいな」と考え始める。最近はどこへ行っても、「担当部署に確認します」「個人情報なのでお答えできません」「警察へご相談ください」である。スーパーでも病院でも役所でも、とにかく境界線がきっちり引かれている。全部、法律的には正しい。だが、それを徹底した先にあるのは、学校は教育だけ、地域は通報だけ、あとは全部警察へ、という社会である。たしかに安全だ。責任も発生しにくい。誰も境界線を越えないから、コンプライアンス事故も減る。しかし、それは本当に日本が目指してきた「共生社会」なのか。誤解されやすい子どもを地域で支えるとは、本来、多少の面倒や越境を引き受けることでもあったはずだ。学校と地域が、「まあまあ」と言いながら橋をかけ続けることで、なんとか成り立っていた部分がある。

もちろん、学校の対応は不用意だったのだろう。保護者が怒るのも当然である。メディアにも報じる役割はある。だが、本来みんなが目指していたのは、「誰を処罰するか」ではなく、「どう共生社会を維持するか」だったはずだ。学校も、保護者も、地域も、メディアも、もう少し落ち着いて、「この子たちを社会でどう支えるか」を考える余裕があれば、話は違う形になっていたのかもしれない。最近の社会は、白黒をつける速度だけは異様に速い。だが、共生社会というものは、本来そんな瞬発力ではなく、少し鈍く、少し不器用で、少し面倒くさいものだった気がするのである。

空飛ぶクルマ2026年05月05日

空飛ぶクルマ
最近、空飛ぶクルマのニュースをとんと見かけなくなった。あれほど万博前には「未来の交通だ」「空のタクシーだ」と、政府から企業からメディアまで、まるで新発売の激辛カップ麺みたいに持ち上げていたのに、万博が終わった途端、棚の奥に押し込まれた季節限定フレーバーのように姿を消した。あれは一体なんだったのか。空飛ぶクルマは、あの時だけ日本の空をふわっと漂い、気がつけば湯気のように消えていた。

そもそも空飛ぶクルマというものは、物理法則の前に立つと急にしょんぼりしてしまう存在だ。ガソリンのエネルギー密度は約12,000Wh/kg、一方でリチウムイオン電池は200〜300Wh/kg程度にすぎない。つまり40倍から60倍の差がある。カロリー満点のちゃんこ鍋と、ほとんど水に近い春雨スープほどの開きだ。それでも無理を承知で飛ばそうとするのだから、話としては最初から苦しい。つまり空飛ぶクルマとは、お相撲さんに春雨スープで勝負しろと言っているようなものだ。食べ物ではある。カロリーもゼロではない。しかし土俵に上がる前に、もう勝負の輪郭が溶けている。

ヘリコプターですら、あれだけの騒音と振動と燃料を食って、ようやく空に居場所を作る。あれはエネルギー密度の高い燃料を前提に成立している“重たい飛行体”だ。それを春雨スープのような電池で「未来です」と言われても、こちらとしては力士のまわしの前に話の腰が抜ける。飛行時間は10〜20分。空のタクシーどころか、空の散歩にも届かない。

それでも万博前は必要だったのだろう。「未来社会ショーケース」と看板を掲げる以上、何かしら“未来っぽいもの”が要る。そこで空飛ぶクルマが引っ張り出され、「ほら、未来はもうここまで来ています」と空に掲げられた。実際には、決められたルート、決められた天候、決められた時間だけのデモ飛行である。それでも語られ方だけは、明日から通勤できる乗り物の顔をしていた。

だが祭りが終われば現実が戻る。航続距離は短く、安全基準は重く、採算は見えない。ヘリの下位互換で、しかも高い。誰が日常の足として選ぶのかと言えば、ほとんど誰も選ばない。そうなるとニュースも消える。消えたというより、維持する理由がなくなっただけだろう。

問題は、こうした“未来の語り口”が、物理法則をすっ飛ばしたまま社会に流通してしまうことだ。「できる」と言い切る声が先に走り、エネルギー密度や重量といった制約条件の説明は後回しになる。そして都合が悪くなると、説明そのものが静かに棚に戻される。これでは技術より先に、認識のほうが歪む。

さらに厄介なのは、これが子どもの教育にもそのまま影響してしまうことだ。未来とはこういうものだ、という語り方だけが先に刷り込まれ、実現可能性や制約条件は抜け落ちる。空を飛ぶ乗り物が「かっこいい未来」として提示される一方で、エネルギー密度という決定的な差や、重量・コストといった現実の話は退屈なものとして横に置かれる。その結果、技術は「積み上げて到達するもの」ではなく、「それっぽく語れば成立するもの」に見えてしまう。だが本来の工学は逆だ。エネルギー密度、重量、安全性、整備性、コスト。そうした制約の束の中で、可能な範囲を一ミリずつ削り出していく作業でしかない。

それなのに未来の演出だけが先行すると、子どもに残るのは「技術は魔法に近い」という誤った感覚だ。そしてこの誤解は、後になって静かに効いてくる。現実は思ったほど飛ばないし、思ったほど自由でもない、という場面で初めて齟齬になる。空飛ぶクルマのニュースが消えたのは、技術が成熟したからではない。幻想を日常として維持する燃料が尽きただけだ。未来の象徴として消費され、役割を終えた。空に浮かぶ前に、そもそも地に足のついた議論がなかったのである。

饅頭に紛れ込んだ金属片2026年04月27日

饅頭に紛れ込んだ金属片
辺野古沖で起きた抗議船の転覆事故。それは、きれいに包まれた饅頭を一口かじったとき、中から鈍く光る金属片が出てきたような出来事だった。甘いはずのものの中に、説明のつかない硬質で危険な異物が混じっている。「平和学習」という言葉で包むには、その包み紙はあまりに薄く、中身の歪さが透けて見える。安全を語るべきテーブルに、いつの間にか宗教と教育と社会運動が同席していた。誰が彼らを招いたのか。招いた側も、招かれた側も、実はその座りの悪さを持て余していたのではないか。

学校とは本来、安全という名の「物理的現実」を最優先にする場所である。ところが今回露呈したのは、学校と外部団体の長年の“なあなあ関係”の上に、宗教団体のネットワークと社会運動の論理が幾重にも重なる多層構造だった。宗教団体が私学教育に果たしてきた歴史的功績は否定できない。国家の教育が届かない領域に最初に光を当てたのは、常に信仰者たちの情熱だった。しかし、現代において宗教・教育・社会運動の距離が近づきすぎると、互いを律するはずのチェック機能は麻痺し、視線は同じ方向——「理念の実現」——へと固定されてしまう。

今回の二つの団体が掲げた言葉は、どれも耳に心地よいものだった。平和、人権、尊厳。だが、彼らは「物理の世界」の警告に対しては致命的に鈍感だった。旅客船登録の欠如、波浪注意報下の出航、海上保安庁の警告無視。「理念の熱」でどれほど思考を昂ぶらせようとも、叩きつける「波」はどこまでも冷酷で平坦な物理現象である。 この温度差が、そのまま生徒を海へ放り出す結果を招いた。学校側もまた、「いつもの顔馴染み」という安心感に沈殿していたのだろう。長年の付き合いは、味噌汁の出汁のように組織の隅々に染み渡る。だが、効きすぎた出汁は素材の味を殺し、違和感を察知する嗅覚を奪う。宗教団体と学校が同じ組織体系に属していれば、その“出汁”はなおさら濃くなる。外部であるはずの存在が内部の延長として扱われ、客観的な検証は「信頼」という名の不作為に置き換わる。これが“なあなあ構造”の正体だ。

この危うさは、決して平和学習に限った話ではない。環境保護でも、国際協力でも、キャリア教育でも、構図は同じだ。理念を語る団体と学校が、緊張感のない密室で繋がった瞬間、教育内容は性質を変え、安全を食いつぶす「劇薬」となる。平和学習そのものが悪なのではない。「理念優先の外部団体」を、検証なしに安全領域へと招き入れる構造そのものが、教育現場の病巣なのだ。本来、安全管理は理念の「上位」に置かれるべき鉄則である。しかし、この現場では理念が先頭に立ち、安全は最後尾に追いやられた。引率教員は岸に残り、生徒だけが荒れる海へ出航した。責任を負うべき大人が陸に留まり、リスクだけが波間に消えた。この配置の歪さこそが、この事故の本質を雄弁に物語っている。

宗教・教育・社会運動の境界が溶け落ちた場所では、誰もが「善意」を盾にし、誰も最終的な責任を引き受けなくなる。政治の問題、信仰の問題、そして安全の問題。これらが未分化のまま同じ皿に盛られたとき、その中心で最も過酷なリスクを背負わされるのは、常に守られるべき立場にある生徒たちだ。あの饅頭に紛れ込んだ金属片は、どこから来たのか。誰もが目を逸らし、責任の所在が霧散していく中で、その冷たい感触だけが生徒たちの記憶に刻まれる。