選手を守る試合日程制度2026年08月23日

選手を守る試合日程制度
智弁和歌山が健大高崎に逆転2ランを許しながらも、直後にスクイズと相手ミスで再逆転。強打と粘りの攻撃で5年ぶり4度目の優勝をつかんだ。甲子園には魔物が住むというが、制度そのものは魔物ではない。高校野球の日程には、一般にはあまり知られていない慣習がある。それは、抽選で決まった試合番号をそのまま試合順として使用する方式である。本来これは公式ルールではなく、過去の大会運営の都合から生まれた名残である。しかし、この慣習が現在の甲子園の日程を複雑かつ不自然にしている一因となっている。しかもこの慣習は、選手の安全に直接関わる日程構成にまで及んでおり、看過できない問題である。トーナメントを公平に組み合わせるためのブロック制くじ引きは、近隣県同士が初戦で当たらないようにするための合理的な配慮であり必要である。しかし、くじ引きで決めたブロック分けをそのまま試合順にまで反映させる必然性はなく、制度の目的と手段が混同されている。組み合わせと試合順は切り離して考えるべきである。

この方式が残ることで、トーナメントのラウンドが自然な順番で進まなくなる。Aブロックは2回戦に入っているのに、Bブロックはまだ1回戦を行っているといった状況が生じ、学校ごとの試合間隔が大きくばらつく。本来、トーナメントの日程は規則的に進行し、どの学校もできる限り均等な休養時間を確保できるように組まれるべきである。にもかかわらず、ブロックごとの変則進行が残っているため休養日数が不均等となり、投手の負担が不合理に増大する。抽選による組み合わせ決定と、選手の負担を考慮した試合順の設定は、本来別の問題である。

さらに深刻なのが、真夏の甲子園における暑さである。近年はWBGT(暑さ指数)を用いた熱中症対策が強化され、午後の高温帯を避けるため夕方以降に試合を行う2部制も導入されている。しかし実際には、2026年大会でも正午から午後2時台にかかる試合が多数組まれており、制度が掲げる暑さ対策と実際の日程との間には大きな隔たりがある。甲子園ではすでにナイターも実施されており、試合時間を夕方以降へ移すこと自体は特別な運営ではない。であるならば、選手保護を優先して正午前後から午後3時前後までの最も暑い時間帯を避けることは当然検討すべきである。制度は例外ではなく原則で運営されるべきであり、暑さ対策を日程構成の原則へ昇格させる必要がある。

そこで、今後の甲子園は原則として1日3試合とし、第1試合を午前8時、第2試合を午後3時30分、第3試合を午後6時ごろに設定する方式へ移行すべきである。この構成なら真昼の試合を避けながら、現在すでに行われているナイター運営も活用できる。さらに、トーナメント表の左から順に試合を進め、各校の次戦までの休養時間をできる限り均等にすれば、投手の負担を制度的に抑制できる。もちろん、1日3試合にすれば大会日数は増える。しかし、高校生が真夏の炎天下で競技する以上、安全確保に必要な日数を最初から大会日程に組み込むことこそ大会運営の責任である。高校野球は教育の一環であり、安全確保は競技以前の前提である。

結論として、甲子園の日程改革で優先すべきなのは、伝統的な試合順や大会日数ではなく選手を守ることである。そのためには、組み合わせを決めるためのブロック制くじ引きは維持しつつ、そこから派生した試合順固定という、現在では合理性を失った慣行を廃止し、試合順を選手の休養と安全を基準に組み直すべきである。そして、正午前後から午後3時前後の危険な時間帯を避けた1日3試合方式へ移行することが不可欠である。伝統は安全の上に成立する。高校生の安全を守ることこそ、甲子園の伝統を未来へつなぐ道である。

投資教育と新作おにぎり2026年08月19日

投資教育と新作おにぎり
たとえば、コンビニで新作のおにぎりを見つけたときの「あの感じ」に似ている。「なんだか危なそうだな」「当たり外れが大きそうだな」と思いながら、結局は手に取らずに帰ってしまう。日本人の「投資」への距離感は、まさにこのおにぎりと同じだ。食べれば意外と普通なのに、勝手にハードルを上げてしまう。そんな固定観念を揺さぶるのが、記事で紹介されているN高投資部の取り組みである。

N高では村上財団の支援を受け、生徒が実際のお金を使って株式投資を学んでいる。銘柄選びや売買判断は生徒が行うが、未成年の取引には親権者の同意など一定の制約があるため、学校名義の口座を使い、先生が最終的な発注を行う。この仕組みのため、判断から取引成立まで最大1日のズレが生じることが記事でも課題として挙げられている。また損失は生徒が負担するのではなく学校側が吸収し、評価は利益ではなく「判断の質」で行われる。評価が良ければ次の投資額が増え、悪ければ減る。ただし年1回しか評価がないため、判断→結果→改善のサイクルが長くなり、学びのテンポが遅くなるという問題もある。

こうした制度は全国でもほとんど例がない。未成年の証券口座には親権者の同意が必要で、学校が教育目的で生徒の資金を一括管理する仕組みも一般化していないからだ。生徒ごとの投資枠を管理する制度も存在しない。記事が示すように、N高投資部は特別な仕組みによって成り立っている。したがって、他校が同じことをしようとしても制度の入口で止まってしまう。現状のままでは、全国の高校で投資教育を広げることは難しい。

それでも、この取り組みを全国に広げる価値は大きい。日本では「投資は危険」「投資は悪い」というイメージが根強いが、本来、投資は社会にとって重要な役割を持っている。企業が新しいサービスや技術を生み出すには資金が必要で、その資金を提供するのが投資である。預金が銀行を通じて企業にお金を回すように、投資も社会を動かす仕組みの一つだ。どの企業を応援するかを自分で選べる点では、投資は預金よりも主体的な社会参加とも言える。高校生のうちに「投資は社会の役に立つ行為だ」という視点を持つことは、将来の金融リテラシーを大きく高める。

全国の高校で安全に投資教育を行うためには、制度の見直しが必要だ。まず、評価は年1回ではなく半年ごとに行うべきだ。企業の決算は3か月ごとに発表され、半年あれば投資判断の結果と課題を十分確認できる。半年ごとに「判断→結果→評価→投資額の調整」という流れを回すことで、学びの質も高まる。次に、投資に使うお金は「一人1万円程度」が現実的だろう。1万円なら複数の銘柄に分けて投資でき、株価の動きも実感しやすい。親の同意も得やすく、学校側の負担も大きくない。全国展開を考えるなら、1万円程度が妥当な投資枠になる。

最大の課題は「口座」である。未成年の証券口座には親権者の同意が必要で、学校が教育目的で生徒の資金を一括管理する仕組みも一般化していない。この問題を解決するには、政府が制度を整え、証券会社が「教育専用口座」を運用する仕組みが必要になる。証券会社なら全国共通のルールで安全に管理でき、運用が不適切な学校は契約を打ち切ることもできる。投資を悪と誤解する文化を変えるには、若い世代が「投資は社会を支える行為だ」と実感する経験が欠かせない。教育専用口座、投資枠1万円、半年評価。この三つがそろえば、日本の金融教育は新しい段階へ進むだろう。投資とは、単に自分のお金を増やす行為ではない。どの企業に資金を託し、どんな社会をつくってほしいのかを自分で選ぶ行為でもある。その感覚を高校生のうちに身につける。それこそが、金融教育の出発点ではないだろうか。

甲子園の黙とう儀式2026年08月16日

甲子園の黙とう儀式
戦後の甲子園には、8月15日の正午になると試合を止めて黙とうをする。いかにも「恒例らしい恒例」だ。こういう恒例は、一度根を張ると妙に生命力が強い。まるで誰も打ち崩せない伝統のフォークボールである。気がつけば60年以上、見逃し続けている。なぜ続くのかといえば、続ける側が「続ける理由」を考えなくても済む仕組みになっているからである。そしてもっと深刻なのは、これを“強要している”という感覚を1ミリも持っていないことだ。強制のストライクゾーンがどこにあるのか、そもそも見えていないのである。

今年も熱中症対策のために、高野連は最高気温の時間帯の試合を避けるよう配慮している。ところが、8月15日の甲子園では、午前8時に第1試合、午前10時30分に第2試合、午後1時に第3試合、午後3時30分に第4試合という日程が組まれた。そして第2試合は正午になると試合を中断する。つまり、正午の黙とうが試合の途中に入るのである。ここが面白い。いや、面白がっている場合ではない。午前中に2試合を詰め込み、第2試合を正午にまたがらせる。これはもう、日程そのものが「儀式に合わせてバントをする」ようなものだ。試合のほうが儀式に合わせている。スポーツ大会なのに、である。球場にサイレンが鳴り、アナウンスが流れ、選手も観客も立つ。ここで「黙とうしません」という変化球を投げられる人間が、いったい何人いるだろうか。高校生が満員の甲子園で黙とう拒否などできるはずがない。これはどう見ても「全員参加の儀式」である。

それなのに、強制している側は強制していると思っていない。ここが最大の問題である。高野連の意思決定層には、元校長や元教育委員会関係者など、いわば「引退後の第2の職場」のような顔ぶれが並ぶ。彼らが現役選手だった時代と、今の酷暑の甲子園では、環境がまるで違う。理解できないからこそ、儀式はそのまま残る。残る理由は「昔からやっているから」。やめる理由は誰も言わない。そして、儀式をやらされている生徒や観客の存在は、彼らの視界からすっぽり抜け落ちている。強要しているという自覚がないのだから、議論が起きるはずもない。

近年はビデオ判定まで導入され、アウトかセーフかは映像で精密に決められるようになった。だが、そんなものを持ち込む前に、もっと先に入れるべき判定がある。暑さ指数、つまりWBGTである。WBGTが28を超えれば「厳重警戒」、31を超えれば「運動は原則中止」。スポーツの安全管理では、暑さを「気合」で処理しないのが現代の常識である。ところが甲子園では、ビデオ判定で「アウトかセーフか」は決めるのに、「生きるか倒れるか」は根性で決める。これは判定の優先順位が完全に逆である。炎天下の正午は選手にも観客にも厳しい時間帯で、フィールドは猛烈に熱くなり、観客は日陰を探して右往左往する。その一方で、正午になると試合を止めて全員で黙とうする。安全のために止めるのではない。60年以上続いている儀式のために止めるのである。

高野連が変わるかといえば、簡単には変わらない。構造的に変わりにくいからである。意思決定層が固定化され、外部の批判が届きにくく、若い世代の感覚も入りにくい。だから儀式の意味を問い直すこともなく、60年以上続いてしまった。しかし、60年以上続いたからといって、64年目も続けなければならない理由にはならない。戦没者を追悼することが悪いのではない。問題は、それを高校生の競技に組み込み、球場全体を巻き込み、「やらない」という選択肢を事実上なくしてしまうことである。スポーツは儀礼の器ではない。まず選手の安全と競技の質があり、その上に伝統があるべきだ。伝統の名を借りた形式が、若い選手の身体と時間を奪う理由にはならない。「昔からやっているから」は理由ではない。それは、考えることをやめた人間が最後に取り出す便利な逃げ球である。

東大と「六四天安門」2026年08月08日

東大と「六四天安門」
東大というのは、日本の学術界における巨大な「基幹装置」である。知識を生産し、言論を循環させ、社会に自由主義の酸素を送り込む役割を担う。その装置が今回、教授が入試情報ページのソースコードに「六四天安門」と記述していたとして、出勤停止三日の懲戒処分を下した。山本副学長は「本学教員としてあるまじき行為」と断じた。しかし、この「あるまじき」という言葉には、装置のネジが一本だけ逆向きに締められたような、どこか微妙な歪みが残る。問われるべきは、教授個人だけでなく、大学側の判断そのものではなかったか。

教授が記した「六四天安門」という語は、日本では完全に合法であり、政治的言論の自由の中核に位置する表現である。中国の検閲事情を理解したうえで、中国からのアクセスを妨げる意図があった可能性は否定できず、その点への批判は成立し得る。しかし、それが直ちに出勤停止という懲戒処分に値するかには疑問が残る。実際にアクセスを制限する主体は教授ではなく、中国の検閲システムである。教授は日本の自由主義の地面の上で行動しているのに、大学はいつの間にか中国の地形図を参照して足元を決めているようにも映る。

東大は中国の大学ではない。日本は自由主義国家であり、外国政府の検閲基準に従う義務もない。それにもかかわらず、「中国の検閲が作動する可能性」を処分理由の一部として掲げるのであれば、外形的には「中国で検閲対象となる言葉を用いると処分される大学」という構図が生まれてしまう。それは学術機関が最も慎重であるべき自己検閲を想起させる。結果として、教授の行為以上に、大学の対応そのものが自由主義の理念との整合性を問われることになった。

本来、東大には別の選択肢があったはずだ。業務上必要のないコードを書き込んだ教授を処分するならば、同時に「他国による検閲を研究府として容認することはできない。東大は学術と言論の自由を守る立場から、アクセス制限を正当化しない」と明確に発信する道もあった。それこそが最高学府として示すべき矜持である。もちろん、そのような発信は中国政府や中国社会の反発を招き、学術交流や留学生の受け入れなどに影響を及ぼす可能性もあっただろう。それでも、教授個人への処分だけで事態の収束を図れば、最も守るべき原則まで後景に退いてしまう。

今回の処分は、その矜持を示す機会でもあった。しかし結果として、外国の検閲への配慮を優先したようにも受け止められ、東大の姿勢に疑問を投げかけることになった。教授の行為に批判の余地があったとしても、出勤停止という懲戒処分だけで終わらせた判断が適切だったのかについては、なお議論の余地がある。自由主義社会において大学が守るべきものは研究成果だけではない。自由そのものを支える姿勢である。その意味で今回最も厳しく問われるべきだったのは、教授ではなく、最高学府としての東大自身の判断だったのではないだろうか。

東京都EVに130万円補助2026年07月28日

東京都EVに130万円補助
政府に続いて東京都がEVやPHEVへの補助金を大幅に拡大した。EVには最大130万円、国のCEV補助金と合わせれば最大260万円にもなる。一方、HVは国も東京都も補助金はゼロである。脱炭素という旗は政治の世界で強い正当性を持つが、政策は旗を振れば自動的に前へ進む便利な機械ではない。問われるべきは「EVをどれだけ増やすか」ではなく、「いまの日本の電力事情の下で、どの技術をどの順番で導入するのが社会の利益になるか」という、やや地味だが本質的な問いである。

結論を言えば、2030年代から2040年頃までの移行期に日本が最も普及を促すべき技術はHVである。これはEVの未来を否定する話ではない。未来の技術はいつだって眩しく見えるが、眩しさと適時性は別物だ。政策とは、技術の成熟度と社会条件が交差する一点を見極める作業であり、そこを外せば「正しい技術を、誤った時期に導入する」という事態が起こる。自動車の環境性能は、車両単体の美点だけでは決まらない。EVは走行時に排出ガスを出さないが、その電気がどの発電によって生み出されているかを無視すれば、議論は机上の模型のように軽くなる。

日本では再生可能エネルギーは増えつつあるものの、火力発電がなお主役である。太陽光や風力には出力変動という癖があり、送電網の整備も追いつかない。東京都は充電設備補助を太陽光とPEVのセットで考えているが、多くのEVが夜間に充電する現実を踏まえれば、その効果は限定的である。昼間に太陽光が発電し、夜間にEVが充電するという時間のずれは、制度設計の意図と実際の利用行動がかみ合っていないことを示している。原子力は震災前の姿に戻らず、電力の低炭素化は道半ばだ。こうした電源事情を踏まえれば、EVの環境性能を最大限発揮できる舞台装置は、まだ組み上がっていないと言わざるを得ない。

さらにこれから日本ではAI、データセンター、半導体工場などが電力をどんどん食べる。電気は蛇口をひねれば無限に出てくる水ではない。限られた低炭素電力をどこに優先配分するかという議論なしに、自動車だけを急速に電動化するのは、政策の順序を取り違える危険がある。その点、HVは既存の燃料供給網を使いながら燃料消費を削減し、充電インフラを待つ必要もない。都市部にも地方にも対応し、確実なCO₂削減効果を生み出す「腰の強い技術」である。

もちろん、EVの技術革新を止める理由はない。電池性能の向上、価格低下、資源問題の改善、そして電源の低炭素化が進めば、EVが最も効率的な選択になる時代は訪れる。その段階に達したなら、補助政策をEV側へ転換すればよい。重要なのは技術の勝敗ではなく、社会条件に応じて適切な順番で導入することである。HVの普及期間はEVへの抵抗ではなく、次の時代へ向かうための助走期間なのだ。

本来、補助金とは単なる購入支援ではなく、社会の状態を国民に示す「情報」であるべきだ。毎年、電源構成や技術進歩を評価し、HV、PHEV、EVへの補助比率を調整すれば、その変化自体が日本のエネルギー政策の現在地を示す指標になる。また、車両重量による道路維持負担は重量税で反映すべきである。補助金は環境価値を、重量税は社会的コストを表す。制度を透明化すれば、国民は単なる得失ではなく、自らの選択が社会に与える影響を理解できる。

未来の車を選ぶ前に、未来の電気の作り方を考える。その順序を忘れた「脱炭素」政策は、目的地を見失った高速道路のようなものである。

佐渡島金山とユネスコ勧告2026年07月26日

佐渡島金山をめぐる因縁
ユネスコという組織は、本来なら世界の文化財を静かに見守る“文化の管理人”のはずなのに、近ごろは歴史認識の赤ペン先生のような顔で登場することがある。佐渡島の金山をめぐる騒ぎなど、その典型だ。世界遺産委員会は日本に向かって「歴史の説明をもっと充実させなさい」と言うのだが、何がどう不足しているのか、どの史料を根拠にしているのか、どこまで説明すれば“合格”なのかは、これが驚くほど曖昧である。まるで「もっと反省しなさい」と言いながら、反省文のテンプレだけは絶対に教えてくれない先生のようで、こちらは机の前で首をかしげるしかない。

そもそも歴史学というのは、地味に史料を一枚一枚積み上げる“紙の山の職人仕事”である。新しい一次史料が出てくれば、展示も教科書も書き換えればよい。それは誰も異論のない話だ。しかし、新資料も出さずに「もっと説明できるはずだ」とだけ言われても、議論のしようがない。ある事実が存在したと主張するなら、その根拠を示すのは主張する側の責任である。「存在しなかったことを証明せよ」と言われても、それは台所の冷蔵庫に恐竜が入っていないことを証明しろと言われるようなもので、証明のしようがない。学問も法律も、そんな無茶な注文は最初から出していない。

問題は、日本と韓国の歴史認識の違いそのものではない。もっと深刻なのは、世界遺産委員会が立証責任を曖昧にしたまま決議を採択しているように見える点だ。本来、世界遺産の審査は、推薦国が提示した資料を第三者機関が検証するという手続が原則である。しかし現実には、その検証過程がほとんど見えず、日本にだけ「説明を強化せよ」という注文が渡される。これでは町内会の会計監査で、帳簿を開く前から一軒だけ「どうも怪しいですね」と言われているようなもので、公平な手続とは言い難い。物差しを持つ側が、そもそも曲がった物差しを使っているのではないかと心配になる。

日本もまた、内容論の泥沼に飛び込む必要はない。「強制労働だったか否か」を延々と応酬しても、新史料が出てこない限り決着はつかず、積み上がるのは感情ばかりである。それは世界遺産制度の目的からも遠ざかる。日本が求めるべきは歴史認識の勝敗ではなく、適正な手続である。「変更を求めるのであれば、その根拠を示していただきたい。主張する側にも立証責任を課していただきたい」。それだけを静かに、しかし繰り返し求めればよい。

国際協調とは、黙って受け入れることではない。不公平な手続に異議を唱えることは、国際秩序を壊す行為ではなく、むしろ守る行為である。国際機関である以上、誰に対しても同じ基準で判断し、同じ責任を求める。それが法の支配であり、文明社会の約束事である。

世界遺産というものは、本来、文化を守るためにつくられた制度であって、歴史認識の作文コンクールではない。ユネスコが本当に文化を守る機関であり続けたいのなら、まず守るべきは世界遺産そのものではなく、その判断を支える公平で透明な手続である。物差しが曲がれば、どんな立派な世界遺産も曲がって見える。困るのは文化財ではない。物差しのほうなのである。

「骨太ショック」2026年07月13日

「骨太ショック」報道
日本の報道というものは、数字を扱うとき妙に潔癖である。潔癖というより、数字を一つだけ摘み上げ、それに都合のよい物語を貼り付ける手際が実に鮮やかだ。おかげで複数の統計を因果の網の目の中で読み解くという、世界ではごく当たり前の作法が、どうにも日本では根付かない。円安が進めば「家計の悲鳴」、金利が上がれば「国債暴落の前兆」、景況感DIが悪化すれば「日本経済の終幕」である。まるでオーケストラを前にしてティンパニだけを叩き続け、「これが交響曲だ」と胸を張っているようなものだ。経済とは本来、無数の旋律が互いを支え、ときに打ち消し合いながら均衡を保つ、多声的な交響楽なのである。

この単眼の癖は、新聞社へ入ってから身につくわけではない。教育の段階で、すでに静かに仕込まれている。高校の「公共」や「政治・経済」は数字そのものは教える。しかし数字同士の関係はほとんど教えない。インフレ率と失業率、政策金利とエネルギー価格、実質賃金と名目GDPを結び付け、「さて、この国はいまどちらへ歩いているのだろう」と考えさせる授業には、めったに出会わない。対照的に米国では、多くの州で中等教育の段階から複数の統計を関連付けて経済現象を説明する訓練が行われ、Council for Economic Educationの教育基準でも、データを横断して解釈する力が学習目標として掲げられている。数字を覚える国と、数字を読む国。その違いは、単なる授業内容の差ではない。社会が何を知性とみなし、何を教養と考えるかという理念の差であり、制度の差なのである。

政府の骨太方針をめぐる「骨太ショック」報道は、その欠落を見事なまでに露呈した。長期金利がわずかに動いただけで、「財政危機の足音」「市場が骨太方針に反乱」と勇ましい見出しが紙面を踊る。新聞というものは、ときどき見出しを書くために世の中が存在していると思っている節がある。しかし同じ週に名目GDPが上方改定され、税収が増え、企業収益が改善していたという、経済のもう一つの顔にはほとんど触れられなかった。円安が輸出企業の利益を押し上げ、金利上昇が金融機関の収益を改善する側面も、都合よく舞台袖へ追いやられる。長期金利が米国金利や国際資金フローの影響を強く受けるという、ごく当たり前の事実さえ、「骨太ショック」という筋書きには少々都合が悪かったらしい。数字は揃っている。欠けていたのは、数字そのものではなく、その読み方である。

行政もまた、縦割りという古くて頑丈な壁から自由ではない。役所というところは、自分の井戸の水位は毎日量る。しかし隣村の川が干上がっていても、それは所管外ということになりやすい。農政は需給DIと在庫を見つめ、財政は税収を見つめ、金融政策は物価と金利を見つめる。それぞれの数字については驚くほど詳しいのに、それらを横断して一枚の風景として読む段になると、急に心もとなくなる。専門化が進めば知識は深まる。しかし視野まで深まるとは限らない。むしろ専門が細分化されるほど、木を見る力は増し、森を見る力は痩せていく。数字は十分にあるのに、景色だけが見えてこないのである。

だから日本では、社会へ出ても、一つの数字だけを根拠に議論が進みやすい。コメ価格でもエネルギー価格でも長期金利でも、川上で起きている変化を見ず、川下に現れた現象だけを追い掛ける。政策金利の引上げを求めながら、長期金利の上昇には驚いてみせるという、因果のねじれも珍しくない。欠けているのは統計ではない。統計を複眼で読み、互いの因果をたどり、判断へ結び付ける制度と文化である。統計とは未来を占う水晶玉ではなく、現在という複雑な風景を読み解くための地図にほかならない。地図はすでに手元にある。足りないのは、それを広げ、方角を確かめ、隣り合う地形を見比べながら歩く習慣だけである。

少年ハッカーの人生2026年07月11日

少年ハッカーの人生
動画配信サービス「バンダイチャンネル」を運営するバンダイナムコフィルムワークスに対し、埼玉県所沢市の高校一年生の男子生徒(十五)が偽計業務妨害の疑いで逮捕された。昨年十一月、当時中学三年生だった少年が自作プログラムを用い、約四万六八一二件のアカウントを無断退会させ、サービスを一時停止に追い込んだという。数字の迫力だけ見れば、まるで怪物的な悪意がそこに潜んでいるかのようだが、事件の内部を丁寧にたどると、むしろ年齢不相応の技術力が静かに姿を現す。世間が「中学生がやった」と驚くのは自由だが、驚きの向け先を少し間違えているようにも思われる。

報道によれば、少年は小学生の頃から独学でプログラミングを学び、通信を解析して脆弱性を発見し、退会処理を自動化するスクリプトを設計し、さらにIPアドレスを三十回以上切り替えながら実行したという。これらは、生成AIに「コードを書いて」と頼めば即座に出てくるような簡便な作業ではない。AIは便利な道具ではあるが、通信解析や脆弱性の抽出、攻撃手順の構築といった“骨のある部分”を肩代わりしてくれるわけではない。基礎力のない人間が握れば、エクセルのVBAマクロすらまともに動かせないのが現実である。それにもかかわらず、一部報道では「ChatGPTで作成したプログラム」という点が妙に強調され、あたかもAIが事件の主役であるかのような印象を与えている。料理番組で、料理人ではなく“塩ひとつまみ”が主役扱いされるような奇妙さが残る。

むしろ本質は、少年自身が脆弱性を見つけ、攻撃の流れを組み立て、実行まで完遂した点にある。もちろん違法行為であり、被害も小さくない。しかし、善悪とは別に、その技術力が年齢を考えれば突出していたことまで否定する必要はないだろう。日本では、こうした突出した技術を持つ若者を受け止め、正しい方向へ導く仕組みが十分整っているとは言い難い。結果として「犯罪」と「才能」が同じ袋に放り込まれ、処罰だけで議論が終わってしまう。少年法が掲げる更生重視の理念が、サイバー分野ではまだ十分に生かされていないという印象を受ける。

企業には利用者への責任や再発防止、抑止効果も求められるため、安易な「許し」は許されない。そこは当然である。しかし、被害回復や反省が十分に確認されるのであれば、司法上の処分とは別に、自社システムの脆弱性改善への協力や、将来的にホワイトハッカーとして能力を生かす道を模索する余地はあるはずだ。というのも、こうした少年は社会復帰後、地下の犯罪集団から“勧誘”という名の誘惑を受けやすい。技術力のある若者を狙うのは、彼らの常套手段である。社会がその手より先に、正しい方向へ導く手を差し伸べなければならない。企業、教育機関、司法がそれぞれの立場で連携し、若い技術者を社会へつなぎ直す仕組みを整えることは、結果として社会全体の利益にもつながる。技術者の卵を摘み取ることは簡単だが、育てることの方がはるかに社会的価値が高い。

AI時代には、このような突出した技術を持つ若者は今後さらに現れるだろう。彼らをどう扱うかは、単なる犯罪抑止の問題ではなく、未来の技術人材をどう育てるかという国家的な課題でもある。少年法の理念を時代に合わせて具体化し、才能を社会の側へ引き戻す仕組みを整えることが、これからの日本には求められている。事件の表面だけを見て「悪いことをした子ども」と片づけるのは容易だが、その奥に潜む可能性まで見ようとする姿勢こそ、社会の成熟を測る尺度になるのではないか。

寛容のパラドックス2026年07月01日

寛容のパラドックス
LGBT理解増進法の見直しをめぐり、世の中がどこか落ち着かない。風が吹けば桶屋が儲かるという話でもないのに、教育や行政の現場まで含めて空気がざわついている。思い返せば、法律が施行された2023年の日教組の教研集会では、小学校高学年の児童が『竹取物語』を題材にした劇を発表したという。かぐや姫が「体の性は男、心の性は女」で、月の使者から「王子として生きろ」と迫られ葛藤する筋書きだったらしい。台本は児童が考え、教員が「アドバイス」したとされるが、その助言がどこまで作品に影響したのかはブラックボックスのままだ。昔話の改変が「桃から生まれた桃子の鬼退治」くらいの軽い遊びなら笑って見ていられるが、今回のように価値観の方向づけが入り込むと、さすがに笑って済ませるわけにはいかない。

もちろん、多様性を重視する側にも理屈はある。「子どものうちからさまざまな生き方を知ることは大切だ」「性的マイノリティの子どもが孤立しないようにしたい」。言われてみれば、たしかに筋は通っている。教室で自分だけが違うと感じて苦しむ子どもを減らしたいという願い自体を否定する人は多くないだろう。ただ、その理屈が万能薬のように何にでも当てはめられ始めると、話は急にややこしくなる。古典作品を現代のジェンダー観を表現する教材として積極的に再構成することまで学校教育の役割なのか。子ども主体と言いながらも、教員の助言や授業の方向性が作品づくりに影響を与えることは珍しくない。道具箱のフタが開きっぱなしになっていないか、ときどきのぞいてみる必要がある。

こうした議論は海外でも続いている。アメリカ・ニューヨーク州では家族法の見直しに伴い、「母」「父」という表現を「妊娠する親」「妊娠しない親」や「ペアレント」といった中立的な用語に置き換える法改正が進んでいる。提案側は代理出産や同性カップル、多様な家族形態を公平に扱うためだと説明する。これもまた理屈としてはわからなくはない。しかし、生物学的な現実を必要以上に抽象化すると、濃い出汁を水で割って「これも味です」と言い張るようなものだ。共和党は「常識を壊す改革だ」と怒鳴り、民主党は「包摂社会に必要だ」と胸を張る。どちらも声が大きく、鍋のフタがガタガタしている。

ここには、多様性という理念が抱える難しさがある。多様性を尊重しようという考え方自体は現代社会に欠かせない価値だ。しかし、その理念が唯一絶対の価値として扱われ始めると、「伝統的な家族観を大切にしたい」「生物学的な区別も社会には必要だ」という考え方まで排除されかねない。多様性を掲げながら、多様な意見そのものが認められなくなる──これはカール・ポッパーの「寛容のパラドックス」を思わせる。多様性の鍋を一生懸命かき混ぜていたら、いつの間にか「自分たちの味だけが正しい」という料理になってしまう。

教育も法律も、本来は社会の共通基盤である。だからこそ、古典を現代の価値観で安易に読み替えたり、長年使われてきた言葉を次々と抽象化したりすることには慎重さが求められる。制度を変えること自体が目的ではない。社会全体が納得できる共通の土台を維持しながら、多様な人々が共に暮らせる仕組みを考えることこそ本来の課題である。教育は価値観を押しつける場ではなく、子どもが自ら考える力を育てる場であってほしい。古典は古典として味わい、家族を表す言葉は誰にでも伝わるものであり続ける。そのうえで、多様な人々への理解を深めていく──そのくらいのバランス感覚が、いま一番求められているのではないか。

「発達障害留学支援」詐欺2026年06月29日

「発達障害留学支援」詐欺
発達障害のある子どもを海外に留学させて、未来をパーッと開いてあげましょう――そんな、聞いているだけで脳内に虹がかかりそうな甘い誘い文句に、東京都内の母子は約1800万円を吸い取られた。吸い取ったのは「発達障害支援」を看板に掲げる一般社団法人の元代表。医師でもないのに診断書まで書き、イギリスだのニュージーランドだの、地球儀を回して適当に指さしたような学校名を並べ、「同じように悩んでいた子も成功していますよ」と胸を張る。胸を張るのは自由だが、中身はスカスカ。まるで空気だけで膨らんだシュークリームである。噛んだ瞬間にスカッと虚無が広がるタイプのやつだ。

とはいえ、ここで「そんな話を信じるほうが悪い」と被害者を責めるのは簡単だ。簡単すぎて、むしろ何も見えていない。問題は、日本の支援体制そのものが“空洞ビジネス”を呼び寄せる巨大な湿地帯になっているという点だ。湿地帯は生き物が繁殖しやすい。詐欺師も同じである。

学校には校内委員会があり、個別の教育支援計画や指導計画もある。書類だけ眺めれば、なんだか手厚そうだ。だが実際には、会議を開いたという記録が残るだけで、支援そのものはどこかへ蒸発してしまうことがある。まるで、湯気だけ立派で肝心の鍋が空っぽの寄せ鍋のようだ。責任者を探そうにも、学校、教育委員会、福祉、医療がそれぞれ少しずつ関わっているため、全体を束ねる人が見えにくい。「みんなで支える」は、ときに「誰も最後まで責任を持たない」に化ける。化けるのが早い。妖怪並みである。

そのうえ、福祉は縦割り、医療は予約が何か月も先。学校も外部の専門職と自由にチームを組めるわけではない。親は学校へ行き、病院へ行き、役所へ行き、そのたびに同じ説明を繰り返す。まるでスタンプラリーである。違うのは、ゴールしても景品がもらえないことだ。むしろ疲労だけが増える。ようやく息をついたところへ、「日本では難しくても海外なら伸びますよ」と耳元でささやかれれば、藁が金塊に見えてしまう。藁が金塊に見えるのは、親が愚かだからではなく、周囲が霧だらけで何も見えないからだ。そこへ、親自身にも発達特性がある場合は、判断のハンドルがさらに取られやすくなり、詐欺の餌食となる危険は一段と高まる。

一方、アメリカでは、障害が疑われる子どもについて学校区(日本の市町村教委にあたる)がIDEAの「Child Find」義務に基づき評価を行いIEPを作成する法的義務がある。LDや読み書き障害は当然含まれ、読み書きに困難が見られれば学校区は評価を開始する義務を負い、必要と判断されればIEPで読み書きの直接指導や合理的配慮を提供する。IEPは学校区が提供すべき教育サービスを縛る文書で、評価から計画、実施、進捗管理まで、連邦法と規則が細かく抜け道なく規定している。学校区がこれを怠れば、保護者は審問や訴訟で責任を問える。制度の強度は、日本と比べれば圧倒的に硬い。硬いというより、「やらなければ裁判になる」という乾いた現実が、向こうの教育現場を一定の方向へ押し出している。

もちろんアメリカにも、人手不足や予算の薄さ、地域差など問題は山ほどある。だが少なくとも、保護者が学校・医療・福祉の間を延々とさまよい、書類の湿気で角が丸くなるほど右往左往する“湿った巡礼”は、米国ではあまり見られない。IEPという契約制度がないため、保護者への告知をためらうような教師側の湿り気も米国は薄い。制度が乾いている分、迷う余地も湿る余地も少ないのである。

結局、この事件は、一人の詐欺師だけが起こした事件ではない。制度がぽっかり空けた穴に、悪徳業者が店を開いただけの話でもある。詐欺師という生き物は、人の弱さを見抜く前に、制度の弱さを嗅ぎつける。だから一人逮捕しても、穴がそのままなら次が来る。今日もどこかで、立派な看板を掲げた「支援」の陰で、親は孤立し、空洞ビジネスは次の客を待っている。湿気を吸って、ますます元気に育つ。