“なりたい職業”はVTuber ― 2026年02月18日
小中学生2469人を対象に行われた調査で、将来なりたい職業について尋ねると、93.2%が「ある」と答えた。人気トップは小学生で「イラストレーター」(6.5%)、中学生では「ミュージシャン・音楽家」。全体では2位に「VTuber」(5.4%)、3位は「アイドル(K-POP・J-POP)」(4.8%)、4位は「学校の先生」(4.7%)だった。さらに「10年後になくなる職業があると思うか」との質問には74.1%が「ある」と回答。「翻訳家」「電車・バスの運転手」「アナウンサー・テレビキャスター」など、身近な仕事が名を連ねた。調査はこの年末年始、インターネットで実施された。
この結果が示すのは、医療や教育を除く実業分野が、子どもたちの“夢の地図”からほとんど消えている現実だ。製造業も建設業もサービス業も、社会を支える重要な仕事なのに、将来の選択肢としてはほとんど目に入らない。社会が提供する選択肢の偏りに、静かな危機感を覚える。
その空白を埋める存在として浮かび上がるのが、VTuberである。VTuber──Virtual YouTuber──はもはやYouTubeに限定されず、キャラクターIP、ライブ配信、コミュニティ形成を含む総合的なバーチャルタレント産業に進化している。市場規模は日本で800〜1200億円と中規模だが、存在感は際立つ。なぜ子どもたちはVTuberに惹かれるのか。表面的には「顔出し不要」「ゲーム実況文化」「キャラが好き」といった理由がある。しかし本質はその下にある。日本にはアニメや声優、キャラクター文化が根強く、VTuberはその延長線上にある。成功モデルが可視化され、「職業として成立している」という実感が、子どもたちにリアリティを与えたのだ。
さらに、社会構造の問題も影響している。学校も会社も政治もメディアも、一方向的コミュニケーションが中心で、対話経験は乏しい。失敗を恐れ、本音を言いづらい文化が根強い。そんな環境では、双方向で安全に承認される場は貴重だ。VTuber配信は、コメントが拾われ、名前を呼ばれ、物語に参加しているように感じられる──この「双方向の錯覚」を提供する。心理学ではパーソナライズ錯覚、参加錯覚、疑似関係と呼ばれ、現実の人間関係より安全で負担も少ない。AIとの対話でも「他者と話した気分になる」のと同じく、人間の脳は“対話の形式”を社会的刺激として処理する。現代日本の寂しさや承認不足が、この錯覚を価値あるものにしている。VTuber人気は「寂しい社会の結果」であると同時に、「寂しい社会を埋める新しい仕組み」でもあるのだ。
日本のVTuber市場は、プラットフォーム全体の主軸である「YouTuber(国内動画広告)市場」の約8,000億円超という規模に比べれば、まだその数分の1に過ぎない。しかし熱量の高い少数が支えるコミュニティの密度、錯覚を通じた心理的価値、社会の空白を埋める機能が人気の理由だ。単なるキャラクターでは廃れるが、キャラクター×ストーリー×コミュニティという三層構造を持つVTuberは、強く残る。VTuber現象は、教育・社会・文化の構造が生んだ“必然”であり、その規模以上の存在感はそこにある。そして同時に、医療や教育以外の実業がほとんど選択肢として存在しない現実への、静かで鋭い警鐘でもある。それにしても寂しい世の中になったと思うのは歳のせいか。
この結果が示すのは、医療や教育を除く実業分野が、子どもたちの“夢の地図”からほとんど消えている現実だ。製造業も建設業もサービス業も、社会を支える重要な仕事なのに、将来の選択肢としてはほとんど目に入らない。社会が提供する選択肢の偏りに、静かな危機感を覚える。
その空白を埋める存在として浮かび上がるのが、VTuberである。VTuber──Virtual YouTuber──はもはやYouTubeに限定されず、キャラクターIP、ライブ配信、コミュニティ形成を含む総合的なバーチャルタレント産業に進化している。市場規模は日本で800〜1200億円と中規模だが、存在感は際立つ。なぜ子どもたちはVTuberに惹かれるのか。表面的には「顔出し不要」「ゲーム実況文化」「キャラが好き」といった理由がある。しかし本質はその下にある。日本にはアニメや声優、キャラクター文化が根強く、VTuberはその延長線上にある。成功モデルが可視化され、「職業として成立している」という実感が、子どもたちにリアリティを与えたのだ。
さらに、社会構造の問題も影響している。学校も会社も政治もメディアも、一方向的コミュニケーションが中心で、対話経験は乏しい。失敗を恐れ、本音を言いづらい文化が根強い。そんな環境では、双方向で安全に承認される場は貴重だ。VTuber配信は、コメントが拾われ、名前を呼ばれ、物語に参加しているように感じられる──この「双方向の錯覚」を提供する。心理学ではパーソナライズ錯覚、参加錯覚、疑似関係と呼ばれ、現実の人間関係より安全で負担も少ない。AIとの対話でも「他者と話した気分になる」のと同じく、人間の脳は“対話の形式”を社会的刺激として処理する。現代日本の寂しさや承認不足が、この錯覚を価値あるものにしている。VTuber人気は「寂しい社会の結果」であると同時に、「寂しい社会を埋める新しい仕組み」でもあるのだ。
日本のVTuber市場は、プラットフォーム全体の主軸である「YouTuber(国内動画広告)市場」の約8,000億円超という規模に比べれば、まだその数分の1に過ぎない。しかし熱量の高い少数が支えるコミュニティの密度、錯覚を通じた心理的価値、社会の空白を埋める機能が人気の理由だ。単なるキャラクターでは廃れるが、キャラクター×ストーリー×コミュニティという三層構造を持つVTuberは、強く残る。VTuber現象は、教育・社会・文化の構造が生んだ“必然”であり、その規模以上の存在感はそこにある。そして同時に、医療や教育以外の実業がほとんど選択肢として存在しない現実への、静かで鋭い警鐘でもある。それにしても寂しい世の中になったと思うのは歳のせいか。
修学旅行費を全額無償化 ― 2026年02月16日
鳴門市が今年度から、市内の小中学生の修学旅行費を全額無償化する方針を打ち出した。小学生は約3万5千円、中学生は約8万円相当。市は789人分、総額で約4611万円を計上したという。表向きは「教育の機会均等」を掲げる施策だが、どこか違和感が残る。そもそも修学旅行は義務ではない。学校教育法で位置付けられる「特別活動」の一部に過ぎず、やらなくても教育的義務は果たせる。しかし日本の多くの学校では、伝統的に小6・中3に組み込まれ、卒業前の一大イベントとして固定されてきた。近年は海外旅行も珍しくなく、費用は数十万円単位に跳ね上がる。自治体が公費で補助する場合、小さな町でも数百万円、大都市では億単位に膨らむこともある。
教育的意義としては、集団生活での協調性や自立性、歴史・文化体験などが挙げられる。しかし実際の旅程を見ると、スケジュールの大半は教員主導で、生徒の自由な意思決定は限定的である。自立性を育てるというより、集団行動への順応を求められる場面が多いのが現状だ。むしろ修学旅行は「卒業前の通過儀礼」としての性格が強く、思い出作りや学級の結束、学校文化の象徴といった役割が前面に出ている。
多様性と伝統性の両立を図るには、子ども一人ひとりの興味や体験の幅を保障すると同時に、学校行事の歴史や地域文化も尊重される必要がある。宿泊学習や修学旅行は、現場の工夫次第でその両者を結び付ける機会になり得る。ただし、教育的意義や伝統を固定的に捉えすぎれば、集団行動が生理的に苦痛な子どもが少数ながら増えているという事実を見落としてしまう。
そして、全員無償化となれば状況は変わる。公費で費用が保証されれば、学校は「全員参加で問題なし」と判断しやすくなる。教育的意図を深く考えず、義務的な形式だけの儀式として固定化されるリスクが高まる。さらに、今でも課題を抱える修学旅行前提の学校文化を見直すチャンスまで失われる。改善の余地がある活動を、慣習に従って続ける圧力が強まるのだ。
海外まで足を伸ばす必要性も、ほとんどない。欧米の修学旅行事情を見れば明らかだ。イギリスやドイツでは国内の日帰り・宿泊学習が中心で、海外遠征は例外。費用の大半は保護者負担で、自治体が全額公費で支援することはほとんどない。自由度も高く、生徒が活動を選べる形式が一般的だ。短期の海外旅行で得られる経験など限定的で、教育効果も薄い。
公費投入の観点でも疑問は残る。小規模自治体なら数百万円で済む費用も、都市部では数千万円〜億円規模。教育投資の効率を考えれば、ICT教育や学習支援、教材整備など、より確実に学習効果の見込める分野に振り向けた方が理にかなっている。
東京の金持ち自治体の修学旅行無償化では金余り自治体の愚策とこき下ろすだけで済んだが、普通の自治体である鳴門市となると話が違う。このニュースは、単なる所得の再分配という子育て支援策ではなく、日本の修学旅行文化そのものを問う契機となる。「義務化」された全員参加の儀式──無償化は形式の固定化を助長し、教育の多様性を押し込めるだけでなく、学校文化を変える可能性を奪う危険性もある。教育とは思い出作りではなく、学びと成長の機会を確実に保障しつつ、多様な経験を尊重することが本質なのだ。教育議論もすっ飛ばした市長の点数稼ぎに利用しないでほしいと思う。
教育的意義としては、集団生活での協調性や自立性、歴史・文化体験などが挙げられる。しかし実際の旅程を見ると、スケジュールの大半は教員主導で、生徒の自由な意思決定は限定的である。自立性を育てるというより、集団行動への順応を求められる場面が多いのが現状だ。むしろ修学旅行は「卒業前の通過儀礼」としての性格が強く、思い出作りや学級の結束、学校文化の象徴といった役割が前面に出ている。
多様性と伝統性の両立を図るには、子ども一人ひとりの興味や体験の幅を保障すると同時に、学校行事の歴史や地域文化も尊重される必要がある。宿泊学習や修学旅行は、現場の工夫次第でその両者を結び付ける機会になり得る。ただし、教育的意義や伝統を固定的に捉えすぎれば、集団行動が生理的に苦痛な子どもが少数ながら増えているという事実を見落としてしまう。
そして、全員無償化となれば状況は変わる。公費で費用が保証されれば、学校は「全員参加で問題なし」と判断しやすくなる。教育的意図を深く考えず、義務的な形式だけの儀式として固定化されるリスクが高まる。さらに、今でも課題を抱える修学旅行前提の学校文化を見直すチャンスまで失われる。改善の余地がある活動を、慣習に従って続ける圧力が強まるのだ。
海外まで足を伸ばす必要性も、ほとんどない。欧米の修学旅行事情を見れば明らかだ。イギリスやドイツでは国内の日帰り・宿泊学習が中心で、海外遠征は例外。費用の大半は保護者負担で、自治体が全額公費で支援することはほとんどない。自由度も高く、生徒が活動を選べる形式が一般的だ。短期の海外旅行で得られる経験など限定的で、教育効果も薄い。
公費投入の観点でも疑問は残る。小規模自治体なら数百万円で済む費用も、都市部では数千万円〜億円規模。教育投資の効率を考えれば、ICT教育や学習支援、教材整備など、より確実に学習効果の見込める分野に振り向けた方が理にかなっている。
東京の金持ち自治体の修学旅行無償化では金余り自治体の愚策とこき下ろすだけで済んだが、普通の自治体である鳴門市となると話が違う。このニュースは、単なる所得の再分配という子育て支援策ではなく、日本の修学旅行文化そのものを問う契機となる。「義務化」された全員参加の儀式──無償化は形式の固定化を助長し、教育の多様性を押し込めるだけでなく、学校文化を変える可能性を奪う危険性もある。教育とは思い出作りではなく、学びと成長の機会を確実に保障しつつ、多様な経験を尊重することが本質なのだ。教育議論もすっ飛ばした市長の点数稼ぎに利用しないでほしいと思う。
「SNS告発」に追い込まれる学校 ― 2026年01月15日
学校で起きた暴行が、教師でも校長でもなく、SNSによって発覚する。この異様な光景が、いまや珍しくなくなった。栃木県と大分県の学校で、生徒が別の生徒に暴行する様子を撮影した動画がSNSで拡散した問題を受け、文部科学省は教育長らを集めた緊急会議を開き、「いじめの見過ごしがなかったかの点検」や「情報モラル教育の徹底」「警察との連携強化」を呼びかけた。だが、こうした対応を聞くたびに思う。論点がズレてはいないか。問題の本質は、SNS時代のトラブルでも、生徒の倫理観の低下でもない。むしろ、学校という組織が長年抱えてきた「内部告発の仕組み不在」こそが、暴行の黙殺とSNS拡散という両極端な事態を同時に生み出している。
今回の動画の経路は象徴的だ。栃木県のケースは学校不祥事を扱う“告発系アカウント”に投稿され、大分県ではSNS拡散によって半年も経て学校が事態を把握した。ここから読み取れるのは、単なる悪意の晒しではない。「学校に言っても動かない」という現場の諦念が、外部への告発を選ばせた可能性である。もちろん、告発目的であっても被害者の映像が拡散されれば、プライバシー侵害や二次被害の危険は避けられない。だが、そこにこそ学校制度の致命的な矛盾がある。校内暴力やいじめは何十年も前から繰り返されてきたにもかかわらず、学校は「体面」や「評判」を優先し、問題を矮小化し、時に黙殺してきた。教員の多忙と専門性不足、閉鎖的な人間関係、第三者が介入しづらい制度設計、こうした条件が重なり、暴力は見えなくされ、声は封じられてきた。
その結果、生徒にとってSNSが唯一の告発ルートになってしまった。校内に安全で信頼できる通報制度が存在しない以上、正当な問題提起であっても、ネットに投げれば「晒し」と受け取られ、被害者も加害者も、そして学校自身も傷つく。今回の二つの事例は、まさにこの構造的欠陥が表面化したものだ。
この悪循環を断ち切るために必要なのは、精神論でもモラル教育の唱和でもない。学校に実効性ある内部告発制度を制度として組み込むことである。生徒や教職員が匿名で安全に通報でき、暴行動画などの証拠は第三者委員会が適切に保全する。委員会には弁護士や司法関係者を参加させ、中立性と専門性を担保する。制度内では身元確認を行い虚偽通報を抑止しつつ、外部には匿名性を守る。さらに、学校側や委員会が隠蔽や不正を行った場合に限り、外部発信を「正当な公益通報」として保護すれば、SNSは“暴走する告発装置”ではなく最後の安全弁に戻る。
学校は「秩序」を守るという名目で、子どもたちに沈黙を強いてきたのではないか。その結果として、最も危険な告発手段――SNSでの拡散――を子どもたちに選ばせてしまったのではないか。栃木と大分で拡散した暴行動画は、制度改革を先送りにしてきた大人たちに、この問いを突きつけている。それにもかかわらず、制度そのものの欠陥を議論の俎上に載せようとしない文部科学省の姿勢は、あまりに心許ない。
今回の動画の経路は象徴的だ。栃木県のケースは学校不祥事を扱う“告発系アカウント”に投稿され、大分県ではSNS拡散によって半年も経て学校が事態を把握した。ここから読み取れるのは、単なる悪意の晒しではない。「学校に言っても動かない」という現場の諦念が、外部への告発を選ばせた可能性である。もちろん、告発目的であっても被害者の映像が拡散されれば、プライバシー侵害や二次被害の危険は避けられない。だが、そこにこそ学校制度の致命的な矛盾がある。校内暴力やいじめは何十年も前から繰り返されてきたにもかかわらず、学校は「体面」や「評判」を優先し、問題を矮小化し、時に黙殺してきた。教員の多忙と専門性不足、閉鎖的な人間関係、第三者が介入しづらい制度設計、こうした条件が重なり、暴力は見えなくされ、声は封じられてきた。
その結果、生徒にとってSNSが唯一の告発ルートになってしまった。校内に安全で信頼できる通報制度が存在しない以上、正当な問題提起であっても、ネットに投げれば「晒し」と受け取られ、被害者も加害者も、そして学校自身も傷つく。今回の二つの事例は、まさにこの構造的欠陥が表面化したものだ。
この悪循環を断ち切るために必要なのは、精神論でもモラル教育の唱和でもない。学校に実効性ある内部告発制度を制度として組み込むことである。生徒や教職員が匿名で安全に通報でき、暴行動画などの証拠は第三者委員会が適切に保全する。委員会には弁護士や司法関係者を参加させ、中立性と専門性を担保する。制度内では身元確認を行い虚偽通報を抑止しつつ、外部には匿名性を守る。さらに、学校側や委員会が隠蔽や不正を行った場合に限り、外部発信を「正当な公益通報」として保護すれば、SNSは“暴走する告発装置”ではなく最後の安全弁に戻る。
学校は「秩序」を守るという名目で、子どもたちに沈黙を強いてきたのではないか。その結果として、最も危険な告発手段――SNSでの拡散――を子どもたちに選ばせてしまったのではないか。栃木と大分で拡散した暴行動画は、制度改革を先送りにしてきた大人たちに、この問いを突きつけている。それにもかかわらず、制度そのものの欠陥を議論の俎上に載せようとしない文部科学省の姿勢は、あまりに心許ない。
スクールバスで交通空白解消 ― 2026年01月07日
山間の集落で一人暮らしをする高齢者は、月に一度の通院のため、前夜から段取りを考える。かつて走っていた路線バスは廃止され、タクシーは予約がなかなか取れない。家の前を毎朝決まった時間に通り過ぎるのは、孫世代を乗せたスクールバスだけだ。「あれに乗れたら、どれだけ楽か」。地方の「交通空白」は、すでに生活の細部を侵食している。政府がこの問題にようやく本腰を入れた。過疎化や人口減少で移動手段の確保が難しくなった地域を救うとして、スクールバスや福祉施設の送迎車など、地域に存在するあらゆる車両を一般住民の移動にも活用できるよう、地域公共交通活性化再生法(地域交通法)の改正案を次期通常国会に提出する方針だ。
自治体が交通、教育、医療、福祉といった関係者を横断的に調整し、地域の実情に応じた旅客運送サービスを構築する役割を担うことを明確化する。国は新サービス導入に財政支援を行う。学校や病院の統廃合が進む一方、バスやタクシーの運転手不足が深刻化し、既存の交通網だけでは住民の移動需要を支えきれなくなっている現実が、ようやく政策を動かした格好だ。
だが、切り札とされるスクールバスの活用には、以前から指摘されてきた構造的な歪みがある。多くの自治体で運行は民間委託され、朝夕の登下校と学校行事以外はほとんど稼働しない。土日や長期休暇中は完全停止。年間を通せば、車両と運転手の多くが長時間「止まったまま」だ。
特別支援学校では、この非効率がさらに際立つ。下校時には放課後等デイサービス事業所の車が児童を迎えに来るため、スクールバスはほとんど乗客を乗せないまま走る。「空気を運ぶバス」が日常化しているのである。教育委員会と福祉部局の縦割り、委託契約の硬直性、送迎加算をめぐる制度設計――現場では長年、改善不能な前提条件として扱われてきた。
今回の法改正案は、こうした“空白時間”を地域交通に転用しようという試みだ。デイサービス車両を非営業日に有料送迎として活用する、スクールバスを空き時間に予約制のデマンド交通として走らせる。事業認可の簡略化、車両や運転手の共同活用、運行データの標準化も盛り込まれる。制度設計としては、確かに前進である。
しかし冷静に見れば、これは地方交通の延命措置に過ぎない。車両のやり繰りで危機をしのげる段階は、すでに通り過ぎている。世界に目を向ければ、一般ドライバーが有償で乗客を運ぶUberやLyftが、都市部だけでなく郊外や地方の移動を支えている。保険、GPS監視、評価システムといったプラットフォーム管理によって安全性を担保するのが、いまや国際標準だ。
一方、日本では一般ドライバーによる有償運送は依然として原則禁止のままだ。導入された「日本版ライドシェア」も、タクシー会社が主体となり、二種免許を必須とするなど強い制約が課されている。「安全性」を理由に規制は維持されているが、その裏側で、移動手段を失った高齢者や通院が困難な人々が生まれている現実は、制度の外側に置き去りにされている。
わが町でもライドシェア制度を活用した町内バスが運行されるようになった。しかし、バス停までは自力で移動する必要があるし、使用されている大型ワゴン車はステップの段差が高く、足の弱い高齢者や障害のある人は利用しづらい。運転者が介助を行わないという取り決めもあり、実質的に対象外となっている。こうした状況は、指定した場所に来てくれるUberやLyftのように柔軟で利用者層の広い海外のライドシェアと比べると、到底同じ仕組みとは言えないほど不便だ。
地方の交通空白を本質的に解消するには、スクールバスの遊休活用だけでは不十分だ。二種免許要件の見直しや地域限定での規制緩和、さらにはプラットフォーム側に安全管理責任を負わせる制度設計など、誰がハンドルを握れるのかという「資格の壁」を、時代に合わせて引き直す覚悟が問われている。また、既存の路線に自動運転を導入する構想もあるが、道路交通法をはじめとする厳しい規制が立ちはだかり、実現の時期は依然として見通せない。
今回の法改正は、確かに重要な一歩だ。だが本当の焦点は、走らないバスをどう動かすかではない。動かせない制度を、いつまで守り続けるのか。地方交通の再生は、日本社会が規制と現実のどちらを選ぶのかを映す、静かな踏み絵になりつつある。
自治体が交通、教育、医療、福祉といった関係者を横断的に調整し、地域の実情に応じた旅客運送サービスを構築する役割を担うことを明確化する。国は新サービス導入に財政支援を行う。学校や病院の統廃合が進む一方、バスやタクシーの運転手不足が深刻化し、既存の交通網だけでは住民の移動需要を支えきれなくなっている現実が、ようやく政策を動かした格好だ。
だが、切り札とされるスクールバスの活用には、以前から指摘されてきた構造的な歪みがある。多くの自治体で運行は民間委託され、朝夕の登下校と学校行事以外はほとんど稼働しない。土日や長期休暇中は完全停止。年間を通せば、車両と運転手の多くが長時間「止まったまま」だ。
特別支援学校では、この非効率がさらに際立つ。下校時には放課後等デイサービス事業所の車が児童を迎えに来るため、スクールバスはほとんど乗客を乗せないまま走る。「空気を運ぶバス」が日常化しているのである。教育委員会と福祉部局の縦割り、委託契約の硬直性、送迎加算をめぐる制度設計――現場では長年、改善不能な前提条件として扱われてきた。
今回の法改正案は、こうした“空白時間”を地域交通に転用しようという試みだ。デイサービス車両を非営業日に有料送迎として活用する、スクールバスを空き時間に予約制のデマンド交通として走らせる。事業認可の簡略化、車両や運転手の共同活用、運行データの標準化も盛り込まれる。制度設計としては、確かに前進である。
しかし冷静に見れば、これは地方交通の延命措置に過ぎない。車両のやり繰りで危機をしのげる段階は、すでに通り過ぎている。世界に目を向ければ、一般ドライバーが有償で乗客を運ぶUberやLyftが、都市部だけでなく郊外や地方の移動を支えている。保険、GPS監視、評価システムといったプラットフォーム管理によって安全性を担保するのが、いまや国際標準だ。
一方、日本では一般ドライバーによる有償運送は依然として原則禁止のままだ。導入された「日本版ライドシェア」も、タクシー会社が主体となり、二種免許を必須とするなど強い制約が課されている。「安全性」を理由に規制は維持されているが、その裏側で、移動手段を失った高齢者や通院が困難な人々が生まれている現実は、制度の外側に置き去りにされている。
わが町でもライドシェア制度を活用した町内バスが運行されるようになった。しかし、バス停までは自力で移動する必要があるし、使用されている大型ワゴン車はステップの段差が高く、足の弱い高齢者や障害のある人は利用しづらい。運転者が介助を行わないという取り決めもあり、実質的に対象外となっている。こうした状況は、指定した場所に来てくれるUberやLyftのように柔軟で利用者層の広い海外のライドシェアと比べると、到底同じ仕組みとは言えないほど不便だ。
地方の交通空白を本質的に解消するには、スクールバスの遊休活用だけでは不十分だ。二種免許要件の見直しや地域限定での規制緩和、さらにはプラットフォーム側に安全管理責任を負わせる制度設計など、誰がハンドルを握れるのかという「資格の壁」を、時代に合わせて引き直す覚悟が問われている。また、既存の路線に自動運転を導入する構想もあるが、道路交通法をはじめとする厳しい規制が立ちはだかり、実現の時期は依然として見通せない。
今回の法改正は、確かに重要な一歩だ。だが本当の焦点は、走らないバスをどう動かすかではない。動かせない制度を、いつまで守り続けるのか。地方交通の再生は、日本社会が規制と現実のどちらを選ぶのかを映す、静かな踏み絵になりつつある。
職員室に封印された「禁書」 ― 2026年01月02日
防衛省が小学生向けに作成した「こども防衛白書」が全国の学校に配布され、教育現場がざわついている。なかでも長崎市では「職員室で保管」との対応まで取られたというが、これは事実上の“封印”に等しい。報道の多くは「政府が一方的な政治教材を送りつけ、現場が迷惑している」という、お決まりの被害者構図でこの騒動を描く。しかし、それはあまりに浅い理解だ。問題の核心は、“押し付け”か否かではない。日本の学校教育が、長年にわたって意図的に空白にしてきた領域が、ついに露呈したという点にある。
民主主義とは何か。自由はどのように守られているのか。国家は何のために存在するのか。多くの民主主義国家では、これらは市民教育の出発点として教えられる。民主主義は自然に与えられたギフトではなく、歴史的な闘争と犠牲の上に成立し、不断の努力なしには容易に崩れうる制度であること。国家が国民の生命や領土を守る役割を持つことも、特定の政治思想ではなく、社会を成り立たせる前提として共有されている。
ところが日本では、戦前教育への強烈なアレルギーと「政治的中立性」という言葉の誤用が絡み合い、国家や安全保障を語ること自体が“危険思想”のように忌避されてきた。その象徴が、学習指導要領における安全保障分野の極端な抽象化であり、教員養成課程で国防や国際安全保障を正面から扱わない構造である。結果として、教師自身が「教え方を知らない」まま現場に立たされ、扱いづらいテーマから距離を取ることが常態化した。
その帰結として、子どもたちは民主主義の脆さも、自由を支える制度設計も十分に学ばないまま社会に送り出される。そこへ突然、防衛省名義の白書が届けば、内容の是非以前に“異物”として拒絶反応が起きるのは当然だ。今回の混乱は、白書の出来が良いか悪いかの問題ではない。これまで「教えるべきことを教えてこなかった」教育行政のツケが、一気に噴き出したに過ぎない。
皮肉なのは、現代の子どもたちが学校の外では、スマートフォンを通じて戦争や軍事衝突の生々しい映像に日常的に触れているという現実だ。それらは断片的で、感情を刺激する一方、文脈や検証を欠くものが多い。学校が「中立」を盾に安全保障から目を背け続ければ、子どもたちは最初に出会った過激な言説に思考を“ハック”されるだけである。教えないことは中立ではない。ただの無防備な放置であり、教育の放棄に近い。
本来必要なのは、特定の政策を刷り込むことではない。事実と意見を区別し、国家間の力関係や国際秩序を理解するための「安全保障リテラシー」を育てることだ。これは思想教育ではなく、現代社会を生き抜くための思考の基礎体力である。にもかかわらず、一部メディアは「迷惑がる現場」という表層だけを強調し、防衛省の配布行為を単純な悪役に仕立てる。その結果、なぜ現場がここまで脆弱なのかという制度的欠陥は、都合よく不可視化されていく。これは批判ではなく、論点のすり替えだ。
中立性とは、国家の役割を曖昧にすることではない。複数の視点を示し、考える材料を与えることだ。国家が存在し、国を守る仕組みがあることを教えるのは、民主主義と何ら矛盾しない。むしろ、市民意識は教育によって耕されるものであり、自然発生するものではない。
「こども防衛白書」をめぐるドタバタ劇は、日本の教育が長年放置してきた巨大な空白を白日の下にさらした。問うべきは白書の是非ではない。民主主義と自由、国家の役割を土台に、現実の安全保障を多面的に考える力を、いつまで教育現場から締め出し続けるのかという点だ。問われているのは子どもでも教師でもない。学習指導要領を定め、教員養成の枠組みを設計しながら、その責任から逃げ続けてきた文部科学省と教育行政が、いつこの空白を自らの責任として引き受けるのか。その覚悟の欠如こそが、今回の騒動の「真の原因」ではないか。
民主主義とは何か。自由はどのように守られているのか。国家は何のために存在するのか。多くの民主主義国家では、これらは市民教育の出発点として教えられる。民主主義は自然に与えられたギフトではなく、歴史的な闘争と犠牲の上に成立し、不断の努力なしには容易に崩れうる制度であること。国家が国民の生命や領土を守る役割を持つことも、特定の政治思想ではなく、社会を成り立たせる前提として共有されている。
ところが日本では、戦前教育への強烈なアレルギーと「政治的中立性」という言葉の誤用が絡み合い、国家や安全保障を語ること自体が“危険思想”のように忌避されてきた。その象徴が、学習指導要領における安全保障分野の極端な抽象化であり、教員養成課程で国防や国際安全保障を正面から扱わない構造である。結果として、教師自身が「教え方を知らない」まま現場に立たされ、扱いづらいテーマから距離を取ることが常態化した。
その帰結として、子どもたちは民主主義の脆さも、自由を支える制度設計も十分に学ばないまま社会に送り出される。そこへ突然、防衛省名義の白書が届けば、内容の是非以前に“異物”として拒絶反応が起きるのは当然だ。今回の混乱は、白書の出来が良いか悪いかの問題ではない。これまで「教えるべきことを教えてこなかった」教育行政のツケが、一気に噴き出したに過ぎない。
皮肉なのは、現代の子どもたちが学校の外では、スマートフォンを通じて戦争や軍事衝突の生々しい映像に日常的に触れているという現実だ。それらは断片的で、感情を刺激する一方、文脈や検証を欠くものが多い。学校が「中立」を盾に安全保障から目を背け続ければ、子どもたちは最初に出会った過激な言説に思考を“ハック”されるだけである。教えないことは中立ではない。ただの無防備な放置であり、教育の放棄に近い。
本来必要なのは、特定の政策を刷り込むことではない。事実と意見を区別し、国家間の力関係や国際秩序を理解するための「安全保障リテラシー」を育てることだ。これは思想教育ではなく、現代社会を生き抜くための思考の基礎体力である。にもかかわらず、一部メディアは「迷惑がる現場」という表層だけを強調し、防衛省の配布行為を単純な悪役に仕立てる。その結果、なぜ現場がここまで脆弱なのかという制度的欠陥は、都合よく不可視化されていく。これは批判ではなく、論点のすり替えだ。
中立性とは、国家の役割を曖昧にすることではない。複数の視点を示し、考える材料を与えることだ。国家が存在し、国を守る仕組みがあることを教えるのは、民主主義と何ら矛盾しない。むしろ、市民意識は教育によって耕されるものであり、自然発生するものではない。
「こども防衛白書」をめぐるドタバタ劇は、日本の教育が長年放置してきた巨大な空白を白日の下にさらした。問うべきは白書の是非ではない。民主主義と自由、国家の役割を土台に、現実の安全保障を多面的に考える力を、いつまで教育現場から締め出し続けるのかという点だ。問われているのは子どもでも教師でもない。学習指導要領を定め、教員養成の枠組みを設計しながら、その責任から逃げ続けてきた文部科学省と教育行政が、いつこの空白を自らの責任として引き受けるのか。その覚悟の欠如こそが、今回の騒動の「真の原因」ではないか。
学校送迎時に保護者が拘束 ― 2025年12月29日
「オレゴン州で、学校送迎時に保護者が拘束されている」——この噂は、完全な虚構ではない。事実として、2025年に入り、オレゴン州内では学校や保育施設の送迎時間帯に保護者が拘束された事例が複数確認されている。地域報道や支援団体の集計によれば、その件数はポートランド都市圏を中心に十数件に上る。ただし、ここで決定的に重要なのは、その内実だ。これらの事例はいずれも、永住権(グリーンカード)を正式に保有する保護者が対象となったものではない。 多くは、ビザ超過滞在や申請中の不安定な在留資格を理由とする個別執行であり、「永住権を持っていても連行される」という理解は事実と異なる。
象徴的なケースとして知られるのが、ビーバートン市で起きたマフディ・カンババザデ氏(38)の拘束だ。モンテッソーリ系学校の駐車場で子どもを送り届けている最中に拘束され、その映像が拡散したことで、「学校送迎=危険」というイメージが一気に広まった。しかし彼は永住権保持者ではなく、学生ビザの超過滞在を理由とした執行対象だった。この一点が、噂の中で意図的、あるいは無自覚に抜け落ちている。
オレゴン州内では他にも、学校近辺や移民裁判所周辺での拘束事例が報告されているが、共通しているのは、執行対象が在留資格上の問題を抱えていた個別ケースであるという点だ。永住権保持者や米国市民が送迎中に恒常的に拘束されている事実は確認されていない。
それでも恐怖が拡散する背景には、拘束数の急増がある。2025年、移民・税関捜査局(アイス)による拘束は全米で約328,000件に達し、オレゴン州でも10月以降、月間拘束件数が従来比で5倍超に増加した。件数そのものよりも、「増加率」が心理に与える影響は大きい。
教職員組合や支援団体は「権利を知る」研修を実施し、校内立ち入り拒否の原則や家族安全計画を周知している。これに対し「恐怖を煽っている」との批判もあるが、恐怖の根源が執行の不透明さにあることは否定できない。同時に、永住権を持つ保護者にまで恐怖が及んでいる現状は、正確な情報が十分に共有されていないことの表れでもある。SNSで拡散される動画や体験談は、在留資格の違いという最も重要な前提を省略しがちだ。その結果、「誰でも送迎中に拘束される」という誤った一般化が生まれる。
噂は、事実そのものの欠如からではなく、事実の「切り取り方」から生まれる。学校送迎時の拘束という事態は、確かに現実に起きている。だが、その一点だけをもって「永住権保持者までもが危うい」と断じるのは、現状を正確に捉えているとは言い難い。
恐怖を払拭するために必要なのは、起きた事象を否定することではなく、その事象が成立する「条件」を精緻に語ることだ。線引きが曖昧なままでは、社会には不安だけが沈殿し続ける。大戦中に米国が約12万人の日本人を強制収容したという負の記憶が、不安を増幅させていることも否定できない。そして厄介なのは、この不安を政治的に利用しようとする潮流である。しかし、それを論じ始めれば水掛け論に陥り、議論は際限を失う。
さらに、正義と法の支配を掲げてきたアメリカが、カンババザデ氏拘束の映像を見る限り、いまやその基盤が揺らぎつつあると感じさせるほどの野蛮さを露呈した。この衝撃が、デマ拡散の燃料となったことは間違いない。
象徴的なケースとして知られるのが、ビーバートン市で起きたマフディ・カンババザデ氏(38)の拘束だ。モンテッソーリ系学校の駐車場で子どもを送り届けている最中に拘束され、その映像が拡散したことで、「学校送迎=危険」というイメージが一気に広まった。しかし彼は永住権保持者ではなく、学生ビザの超過滞在を理由とした執行対象だった。この一点が、噂の中で意図的、あるいは無自覚に抜け落ちている。
オレゴン州内では他にも、学校近辺や移民裁判所周辺での拘束事例が報告されているが、共通しているのは、執行対象が在留資格上の問題を抱えていた個別ケースであるという点だ。永住権保持者や米国市民が送迎中に恒常的に拘束されている事実は確認されていない。
それでも恐怖が拡散する背景には、拘束数の急増がある。2025年、移民・税関捜査局(アイス)による拘束は全米で約328,000件に達し、オレゴン州でも10月以降、月間拘束件数が従来比で5倍超に増加した。件数そのものよりも、「増加率」が心理に与える影響は大きい。
教職員組合や支援団体は「権利を知る」研修を実施し、校内立ち入り拒否の原則や家族安全計画を周知している。これに対し「恐怖を煽っている」との批判もあるが、恐怖の根源が執行の不透明さにあることは否定できない。同時に、永住権を持つ保護者にまで恐怖が及んでいる現状は、正確な情報が十分に共有されていないことの表れでもある。SNSで拡散される動画や体験談は、在留資格の違いという最も重要な前提を省略しがちだ。その結果、「誰でも送迎中に拘束される」という誤った一般化が生まれる。
噂は、事実そのものの欠如からではなく、事実の「切り取り方」から生まれる。学校送迎時の拘束という事態は、確かに現実に起きている。だが、その一点だけをもって「永住権保持者までもが危うい」と断じるのは、現状を正確に捉えているとは言い難い。
恐怖を払拭するために必要なのは、起きた事象を否定することではなく、その事象が成立する「条件」を精緻に語ることだ。線引きが曖昧なままでは、社会には不安だけが沈殿し続ける。大戦中に米国が約12万人の日本人を強制収容したという負の記憶が、不安を増幅させていることも否定できない。そして厄介なのは、この不安を政治的に利用しようとする潮流である。しかし、それを論じ始めれば水掛け論に陥り、議論は際限を失う。
さらに、正義と法の支配を掲げてきたアメリカが、カンババザデ氏拘束の映像を見る限り、いまやその基盤が揺らぎつつあると感じさせるほどの野蛮さを露呈した。この衝撃が、デマ拡散の燃料となったことは間違いない。
日本版DBSマーク ― 2025年12月26日
「子どもを守る」。この言葉ほど、耳触りがよく、同時に中身が問われるスローガンもない。こども家庭庁が公表した「日本版DBSマーク」は、その典型例だ。子どもと接する仕事に就く人の性犯罪歴を確認し、可視化する——理念だけを見れば、反対する理由はない。だが、制度の実像を丁寧に見ていくと、未然防止の決定打にはなり得ない現実が浮かび上がる。制度は2026年12月施行。学校や認可保育所などの法定事業者には、性犯罪歴の確認と安全確保措置が罰則付きで義務付けられる。一方、学習塾やスポーツ教室などの民間事業者は任意参加にとどまる。「社会全体で子どもを守る」と掲げながら、制度の網のかかり方は一様ではない。
とりわけ学校は、希望者だけが選ぶサービスではない。義務教育として、原則すべての子どもが通う公共制度であり、保護者にとっても「利用しない」という選択肢はない。その学校における安全対策が不十分であれば、影響は例外なく社会全体に及ぶ。だからこそ、学校を起点に制度改善を徹底する意義は大きい。
にもかかわらず、日本版DBSが照会できるのは「子ども対象性犯罪の有罪判決」という刑事確定記録に限られる。示談、不起訴、嫌疑不十分、内部調査で事実が認定されたケースは、すべて制度の外に置かれる。照会結果は「なし」。だがそれは、安全の保証ではない。前科がつかない性加害が学校現場で繰り返されてきた事実を思えば、この限界は致命的だ。
氏名変更への対策が盛り込まれている点は評価できる。しかし、そもそも犯罪歴が存在しなければ、どれほど厳格に照会しても結果は「白」のままである。日本版DBSは、あくまで「前科のある者」を排除する仕組みであり、未然防止の全体像を担える制度ではない。
これと対をなすのが、教員免許失効リスト(特定免許状失効者等データベース)だ。刑事事件化されない性的ハラスメントや不適切行為で懲戒免職となった教員を、前科の有無にかかわらず把握できる点で、現場の実態に即している。性加害の“刑事の手前”を捉えられる、数少ない制度である。
しかし、この制度は十分に機能していない。採用時の確認義務に罰則がなく、文科省調査では活用率は全国で約3割にとどまる。氏名変更への耐性も弱く、本人確認の厳格性もDBSほど高くない。懲戒処分の基準が自治体や学校法人ごとにばらつき、重大事案であっても懲戒免職に至らない例が少なくないことも、制度の実効性を損なっている。
結局、日本版DBSと免許失効リストは、どちらか一方では不十分だ。DBSは「前科のある性犯罪者」を防ぎ、失効リストは「前科はないが重大な不適切行為を行った教員」を防ぐ。対象は重ならず、補完関係にある。だからこそ、学校という社会全体が必ず利用する場を起点に、両制度を一体として強化すべきなのである。
「社会全体で子どもを守る」という理念を本気で掲げるなら、部分的な制度導入で満足してはならない。日本版DBSの義務化を契機に、免許失効リストにも罰則付き確認義務と氏名変更を前提とした厳格な本人確認を法的に担保する——学校から一気に制度改善を進める覚悟が、今こそ問われている。
マークを掲げることがゴールになった瞬間、制度は形骸化する。学校という公共制度を預かる以上、求められるのは表示ではなく、実効性である。
とりわけ学校は、希望者だけが選ぶサービスではない。義務教育として、原則すべての子どもが通う公共制度であり、保護者にとっても「利用しない」という選択肢はない。その学校における安全対策が不十分であれば、影響は例外なく社会全体に及ぶ。だからこそ、学校を起点に制度改善を徹底する意義は大きい。
にもかかわらず、日本版DBSが照会できるのは「子ども対象性犯罪の有罪判決」という刑事確定記録に限られる。示談、不起訴、嫌疑不十分、内部調査で事実が認定されたケースは、すべて制度の外に置かれる。照会結果は「なし」。だがそれは、安全の保証ではない。前科がつかない性加害が学校現場で繰り返されてきた事実を思えば、この限界は致命的だ。
氏名変更への対策が盛り込まれている点は評価できる。しかし、そもそも犯罪歴が存在しなければ、どれほど厳格に照会しても結果は「白」のままである。日本版DBSは、あくまで「前科のある者」を排除する仕組みであり、未然防止の全体像を担える制度ではない。
これと対をなすのが、教員免許失効リスト(特定免許状失効者等データベース)だ。刑事事件化されない性的ハラスメントや不適切行為で懲戒免職となった教員を、前科の有無にかかわらず把握できる点で、現場の実態に即している。性加害の“刑事の手前”を捉えられる、数少ない制度である。
しかし、この制度は十分に機能していない。採用時の確認義務に罰則がなく、文科省調査では活用率は全国で約3割にとどまる。氏名変更への耐性も弱く、本人確認の厳格性もDBSほど高くない。懲戒処分の基準が自治体や学校法人ごとにばらつき、重大事案であっても懲戒免職に至らない例が少なくないことも、制度の実効性を損なっている。
結局、日本版DBSと免許失効リストは、どちらか一方では不十分だ。DBSは「前科のある性犯罪者」を防ぎ、失効リストは「前科はないが重大な不適切行為を行った教員」を防ぐ。対象は重ならず、補完関係にある。だからこそ、学校という社会全体が必ず利用する場を起点に、両制度を一体として強化すべきなのである。
「社会全体で子どもを守る」という理念を本気で掲げるなら、部分的な制度導入で満足してはならない。日本版DBSの義務化を契機に、免許失効リストにも罰則付き確認義務と氏名変更を前提とした厳格な本人確認を法的に担保する——学校から一気に制度改善を進める覚悟が、今こそ問われている。
マークを掲げることがゴールになった瞬間、制度は形骸化する。学校という公共制度を預かる以上、求められるのは表示ではなく、実効性である。
無償化は「持ち出し」か「投資」か ― 2025年12月19日
政府が小中学校の給食費と高校授業料の無償化を打ち出した瞬間、全国知事会が一斉にブレーキを踏んだ。「自治体の財政負担が過大だ」。地方行政の世界では、聞き慣れすぎた台詞である。無理もない。自治体予算は常に余白がない。教育費が数%増えるだけで、福祉やインフラ、地域サービスのどこかを削らざるを得ない。「予算の1%増でも重い」という知事会の訴えは、現場を知る者ほど現実味をもって響く。
だが、この議論は致命的な欠陥を抱えている。支出を“今の帳簿”でしか見ていないのだ。教育への公的支出は、地方への押し付けでも、選挙向けのバラマキでもない。将来、税収として回収される投資である。ここを見誤れば、どんな政策も「高すぎる」の一言で葬られる。
数字は感情よりも正直だ。小中学校給食費の無償化では、対象児童は約650万人。保護者が年間約6万円負担してきた費用が消え、全国で約4,832億円が家計に戻る。高校授業料の無償化では、公立で年間11万8,800円、私立でも平均14〜15万円の負担が軽減され、規模は約4,048億円に達する。両者を合わせれば、約8,880億円が子育て世帯の可処分所得となる。
一世帯あたりにすれば、年20万円前後の余裕だ。この金が貯金だけに回ると考えるのは非現実的だろう。食費、学用品、日用品へと流れ、消費を押し上げる。では、その結果はどうなるか。
日本の過去データでは、GDPが1%増えると税収は約3%増える。税収弾性値は近年の実績で2.8〜3.2程度とされ、3前後が妥当だ。仮に7,000億円の支出がGDPを約0.12%押し上げれば、税収は0.35%以上増える。金額にして年間約3,500億円。国税で約2,500億円、地方税でも約1,000億円が戻る計算になる。
投入額のほぼ半分が、数年以内に回収される。これをなお「持ち出し」と呼ぶなら、将来の税収という概念自体を否定することになる。政府は長年、税収弾性値を1.1程度と低く見積もり、「どうせ税収は増えない」と財政出動を渋ってきた。その結果が「失われた30年」だ。需要を恐れ、投資を避け、成長の芽を摘み続けた。その失敗を、教育分野でまで繰り返す理由はない。
もちろん、知事会の懸念を切り捨てる話ではない。自治体の裁量経費が乏しいのは事実だ。だからこそ、支援の線引きが重要になる。
公立の給食費や授業料は、基礎教育という公共財そのものであり、ここは国が正面から負担すべき領域である。一方、私立の給食費や授業料は「選択的サービス」の性格が強く、公共投資としての優先順位は明らかに低い。支援は義務教育とそれに準じる普遍的部分に絞り、私学への過度な肩代わりは避ける――それが最も公平で現実的な整理である。
維新がしばしば唱える「私学と公立の条件を公平にして競争させ、質の向上を目指す」という主張は、聞こえは良い。しかし実際には財政力があり意思決定の速い有名私学が優位に立つことは明らかであり、「公平」という言葉は弱小公立校を切り捨てるためのレトリックにすぎない。従って私学の無償化は弊害が大きくほとんど意味がない。
結論は明白だ。知事会の反対は、目先の痛みを訴える声として尊重されるべきだ。しかし、国全体で見れば、教育無償化は確かな経済投資であり、税収還元効果も十分に見込める。
政府はこれを「子育て支援」という情緒的な言葉で済ませてはならない。
家計を下支えし、成長を呼び込む投資だと、正面から語るべきだ。未来への投資を「高い」と言い続けた国に、成長は訪れない。日本はいま、教育をコストと呼ぶ癖そのものを、改める時代に入っている。
だが、この議論は致命的な欠陥を抱えている。支出を“今の帳簿”でしか見ていないのだ。教育への公的支出は、地方への押し付けでも、選挙向けのバラマキでもない。将来、税収として回収される投資である。ここを見誤れば、どんな政策も「高すぎる」の一言で葬られる。
数字は感情よりも正直だ。小中学校給食費の無償化では、対象児童は約650万人。保護者が年間約6万円負担してきた費用が消え、全国で約4,832億円が家計に戻る。高校授業料の無償化では、公立で年間11万8,800円、私立でも平均14〜15万円の負担が軽減され、規模は約4,048億円に達する。両者を合わせれば、約8,880億円が子育て世帯の可処分所得となる。
一世帯あたりにすれば、年20万円前後の余裕だ。この金が貯金だけに回ると考えるのは非現実的だろう。食費、学用品、日用品へと流れ、消費を押し上げる。では、その結果はどうなるか。
日本の過去データでは、GDPが1%増えると税収は約3%増える。税収弾性値は近年の実績で2.8〜3.2程度とされ、3前後が妥当だ。仮に7,000億円の支出がGDPを約0.12%押し上げれば、税収は0.35%以上増える。金額にして年間約3,500億円。国税で約2,500億円、地方税でも約1,000億円が戻る計算になる。
投入額のほぼ半分が、数年以内に回収される。これをなお「持ち出し」と呼ぶなら、将来の税収という概念自体を否定することになる。政府は長年、税収弾性値を1.1程度と低く見積もり、「どうせ税収は増えない」と財政出動を渋ってきた。その結果が「失われた30年」だ。需要を恐れ、投資を避け、成長の芽を摘み続けた。その失敗を、教育分野でまで繰り返す理由はない。
もちろん、知事会の懸念を切り捨てる話ではない。自治体の裁量経費が乏しいのは事実だ。だからこそ、支援の線引きが重要になる。
公立の給食費や授業料は、基礎教育という公共財そのものであり、ここは国が正面から負担すべき領域である。一方、私立の給食費や授業料は「選択的サービス」の性格が強く、公共投資としての優先順位は明らかに低い。支援は義務教育とそれに準じる普遍的部分に絞り、私学への過度な肩代わりは避ける――それが最も公平で現実的な整理である。
維新がしばしば唱える「私学と公立の条件を公平にして競争させ、質の向上を目指す」という主張は、聞こえは良い。しかし実際には財政力があり意思決定の速い有名私学が優位に立つことは明らかであり、「公平」という言葉は弱小公立校を切り捨てるためのレトリックにすぎない。従って私学の無償化は弊害が大きくほとんど意味がない。
結論は明白だ。知事会の反対は、目先の痛みを訴える声として尊重されるべきだ。しかし、国全体で見れば、教育無償化は確かな経済投資であり、税収還元効果も十分に見込める。
政府はこれを「子育て支援」という情緒的な言葉で済ませてはならない。
家計を下支えし、成長を呼び込む投資だと、正面から語るべきだ。未来への投資を「高い」と言い続けた国に、成長は訪れない。日本はいま、教育をコストと呼ぶ癖そのものを、改める時代に入っている。
教員わいせつ処分歴 ― 2025年12月18日
福岡地裁で開かれた初公判は、一地方の不祥事というより、日本の行政が「使える制度を使わない」ことで招いた必然の事件だった。須恵町の町立中学校採用試験で、岐阜県教委の印影が押された偽造教員免許状の写しを提出した補助教員が、偽造有印公文書行使罪に問われた。被告は起訴内容を認め、検察側は「免許失効後に三度姓を変え、偽造免許を使い続けた」と指摘した。巧妙だったのは犯人ではない。杜撰だったのは制度の側だ。
教員免許が失効するのは、懲戒免職や禁錮以上の刑など、教育者としての信用を根底から失う重大事案だけでなく有罪にならなくとも類似事案は教委が独自に判断できる。免許とは資格証明である以前に、子どもを預かる者としての「信頼の証」である。その免許を失った人物が、偽造という手段で教壇に戻れた事実は、教育現場への裏切りであると同時に、制度の敗北を意味する。
なぜ防げなかったのか。答えは単純だ。免許状の写しを原本と突き合わせない。教育委員会同士で処分歴を共有しない。人手不足を理由に確認作業を形式化する。そして改姓や養子縁組があれば、過去は簡単に消える。これは「想定外」ではない。「想定しないことを選び続けた」結果である。
2021年から「教員わいせつ処分歴データベース」が運用され、一定の抑止効果は生まれた。しかし、私学での活用は鈍く、改姓による照合漏れという致命的欠陥も残った。ここで決定的に欠けているのが、マイナンバーの本格活用だ。
マイナンバー制度は、氏名変更や転籍を経ても個人を一意に識別できるよう設計されており、今回のような事件を未然に防ぐためにも使える仕組みである。それにもかかわらず、「プライバシーへの懸念」や「番号法による利用制限」が繰り返し持ち出され、最も必要とされる採用チェックの場面で活用されることがない。
だが考えてみてほしい。子どもの前に立つ教職員は、最も高い公共性と信頼性を求められる職種だ。そこに最低限の身元確認を適用しない理由があるだろうか。災害時に個人情報を理由に避難名簿を作らない自治体がないように、リスク管理と人権保護は本来、対立しない。
要するに、この事件は「免許制度の透明性を高めよう」といった抽象論で処理すべき話ではない。すでに存在するマイナンバー制度を、学校職員に適用すれば済む話なのだ。問題は技術でも法律でもない。制度を“使わない”という行政の選択である。
子どもへの人権侵害は、個人不祥事ではなく社会的災害だ。災害対策に必要なのは、新しい看板ではない。実効性のある仕組みを、例外なく運用する覚悟である。この事件が示したのは、倫理が崩れたからではない。守れるはずの子どもを、制度が守らなかったという現実だ。
改革に必要なのは新制度ではない。「使える制度を、使う決断」だけである。
教員免許が失効するのは、懲戒免職や禁錮以上の刑など、教育者としての信用を根底から失う重大事案だけでなく有罪にならなくとも類似事案は教委が独自に判断できる。免許とは資格証明である以前に、子どもを預かる者としての「信頼の証」である。その免許を失った人物が、偽造という手段で教壇に戻れた事実は、教育現場への裏切りであると同時に、制度の敗北を意味する。
なぜ防げなかったのか。答えは単純だ。免許状の写しを原本と突き合わせない。教育委員会同士で処分歴を共有しない。人手不足を理由に確認作業を形式化する。そして改姓や養子縁組があれば、過去は簡単に消える。これは「想定外」ではない。「想定しないことを選び続けた」結果である。
2021年から「教員わいせつ処分歴データベース」が運用され、一定の抑止効果は生まれた。しかし、私学での活用は鈍く、改姓による照合漏れという致命的欠陥も残った。ここで決定的に欠けているのが、マイナンバーの本格活用だ。
マイナンバー制度は、氏名変更や転籍を経ても個人を一意に識別できるよう設計されており、今回のような事件を未然に防ぐためにも使える仕組みである。それにもかかわらず、「プライバシーへの懸念」や「番号法による利用制限」が繰り返し持ち出され、最も必要とされる採用チェックの場面で活用されることがない。
だが考えてみてほしい。子どもの前に立つ教職員は、最も高い公共性と信頼性を求められる職種だ。そこに最低限の身元確認を適用しない理由があるだろうか。災害時に個人情報を理由に避難名簿を作らない自治体がないように、リスク管理と人権保護は本来、対立しない。
要するに、この事件は「免許制度の透明性を高めよう」といった抽象論で処理すべき話ではない。すでに存在するマイナンバー制度を、学校職員に適用すれば済む話なのだ。問題は技術でも法律でもない。制度を“使わない”という行政の選択である。
子どもへの人権侵害は、個人不祥事ではなく社会的災害だ。災害対策に必要なのは、新しい看板ではない。実効性のある仕組みを、例外なく運用する覚悟である。この事件が示したのは、倫理が崩れたからではない。守れるはずの子どもを、制度が守らなかったという現実だ。
改革に必要なのは新制度ではない。「使える制度を、使う決断」だけである。
PECS京都大阪合同会 ― 2025年12月15日
大阪で、PECSサークルの合同会が開かれた。京都との共同開催で、会場参加が37名、リモート参加が25名。合わせて60名余という数字は、いまの状況を思えばなかなかのものだ。会場に30人以上が集まる光景を見るのは久しぶりで、門医師が大阪まで足を運ばれたことも大きかったのだろう。かつて京都で研究会が勢いを持っていた頃の空気がふっとよみがえり、胸の奥に懐かしさが広がった。
今回、何より印象に残ったのは若い世代の多さだった。参加者の多くは施設職員で、大阪ではNPOピュアを中心に若手がしっかり組織されているという。熱心に耳を傾ける姿を見ながら、かつて自分も若手教員をまとめ、参加者を増やすことに奔走していた時代を思い出した。だが今はどうだろう。影響力のあるリーダーを育てきれず、研究会はじりじりと先細っている。その現実を突きつけられるようでもあった。
報告では、子どもや成人の利用者がPECSやABAを通じて、少しずつ生活を整えていく様子が動画で紹介された。画面越しに伝わってくる笑顔に触れ、「やってきてよかったな」と、心から思えた瞬間だった。研究会のあとには20人余りが居酒屋に集まり、懇親会は遅くまで賑やかに続いた。初めてPECSに取り組みながら、思うような評価を得られなかった支援者も参加し、率直な語り合いができた。できるだけ“老害”にならないよう気をつけたつもりだが、振り返れば少し厳しい言葉を投げてしまったかもしれない、と反省も残る。
PECSは、要求と契約から始まる機能的コミュニケーションだ。トークン使用は、要求したものの「待って」カードから、やがてはトークンエコノミーという、少し長い契約関係を学んでいく。すぐに要求に応えるのではなく、条件を示し、何回指示に応えれば約束が成立するのかを伝える。言ってみれば、出来高給制度を理解してもらうような仕組みだ。その教え方に対して「おかしいのではないか」という指摘も出た。大阪の事務局は事前にレポートを把握していたはずだが、成果よりも方法の誤りをどう扱うかは、組織や世代で考え方が分かれる。事前に修正を促すのか、あえて発表させ、批判を受けて再挑戦を促すのか。その違いに、年齢差というものを感じずにはいられなかった。
最近は、自分が組織してきた研究団体がじり貧になり、正直、投げ出したくなることもある。それでも、未来を楽しそうに語る若手の姿を見ると、「続けてきてよかった」と素直に思える。20年前、京都から始めたあの研究会がなければ、いまのつながりはなかっただろう。淡々と研究会を重ね、懇親会を続けてきた、その積み重ねの先に、今夜の光景がある。
投げ出すのは簡単だ。けれど、もう少しだけ頑張ってみよう。そんな気持ちを、静かに背中から押してくれる夜だった。
今回、何より印象に残ったのは若い世代の多さだった。参加者の多くは施設職員で、大阪ではNPOピュアを中心に若手がしっかり組織されているという。熱心に耳を傾ける姿を見ながら、かつて自分も若手教員をまとめ、参加者を増やすことに奔走していた時代を思い出した。だが今はどうだろう。影響力のあるリーダーを育てきれず、研究会はじりじりと先細っている。その現実を突きつけられるようでもあった。
報告では、子どもや成人の利用者がPECSやABAを通じて、少しずつ生活を整えていく様子が動画で紹介された。画面越しに伝わってくる笑顔に触れ、「やってきてよかったな」と、心から思えた瞬間だった。研究会のあとには20人余りが居酒屋に集まり、懇親会は遅くまで賑やかに続いた。初めてPECSに取り組みながら、思うような評価を得られなかった支援者も参加し、率直な語り合いができた。できるだけ“老害”にならないよう気をつけたつもりだが、振り返れば少し厳しい言葉を投げてしまったかもしれない、と反省も残る。
PECSは、要求と契約から始まる機能的コミュニケーションだ。トークン使用は、要求したものの「待って」カードから、やがてはトークンエコノミーという、少し長い契約関係を学んでいく。すぐに要求に応えるのではなく、条件を示し、何回指示に応えれば約束が成立するのかを伝える。言ってみれば、出来高給制度を理解してもらうような仕組みだ。その教え方に対して「おかしいのではないか」という指摘も出た。大阪の事務局は事前にレポートを把握していたはずだが、成果よりも方法の誤りをどう扱うかは、組織や世代で考え方が分かれる。事前に修正を促すのか、あえて発表させ、批判を受けて再挑戦を促すのか。その違いに、年齢差というものを感じずにはいられなかった。
最近は、自分が組織してきた研究団体がじり貧になり、正直、投げ出したくなることもある。それでも、未来を楽しそうに語る若手の姿を見ると、「続けてきてよかった」と素直に思える。20年前、京都から始めたあの研究会がなければ、いまのつながりはなかっただろう。淡々と研究会を重ね、懇親会を続けてきた、その積み重ねの先に、今夜の光景がある。
投げ出すのは簡単だ。けれど、もう少しだけ頑張ってみよう。そんな気持ちを、静かに背中から押してくれる夜だった。