寛容のパラドックス2026年07月01日

寛容のパラドックス
LGBT理解増進法の見直しをめぐり、世の中がどこか落ち着かない。風が吹けば桶屋が儲かるという話でもないのに、教育や行政の現場まで含めて空気がざわついている。思い返せば、法律が施行された2023年の日教組の教研集会では、小学校高学年の児童が『竹取物語』を題材にした劇を発表したという。かぐや姫が「体の性は男、心の性は女」で、月の使者から「王子として生きろ」と迫られ葛藤する筋書きだったらしい。台本は児童が考え、教員が「アドバイス」したとされるが、その助言がどこまで作品に影響したのかはブラックボックスのままだ。昔話の改変が「桃から生まれた桃子の鬼退治」くらいの軽い遊びなら笑って見ていられるが、今回のように価値観の方向づけが入り込むと、さすがに笑って済ませるわけにはいかない。

もちろん、多様性を重視する側にも理屈はある。「子どものうちからさまざまな生き方を知ることは大切だ」「性的マイノリティの子どもが孤立しないようにしたい」。言われてみれば、たしかに筋は通っている。教室で自分だけが違うと感じて苦しむ子どもを減らしたいという願い自体を否定する人は多くないだろう。ただ、その理屈が万能薬のように何にでも当てはめられ始めると、話は急にややこしくなる。古典作品を現代のジェンダー観を表現する教材として積極的に再構成することまで学校教育の役割なのか。子ども主体と言いながらも、教員の助言や授業の方向性が作品づくりに影響を与えることは珍しくない。道具箱のフタが開きっぱなしになっていないか、ときどきのぞいてみる必要がある。

こうした議論は海外でも続いている。アメリカ・ニューヨーク州では家族法の見直しに伴い、「母」「父」という表現を「妊娠する親」「妊娠しない親」や「ペアレント」といった中立的な用語に置き換える法改正が進んでいる。提案側は代理出産や同性カップル、多様な家族形態を公平に扱うためだと説明する。これもまた理屈としてはわからなくはない。しかし、生物学的な現実を必要以上に抽象化すると、濃い出汁を水で割って「これも味です」と言い張るようなものだ。共和党は「常識を壊す改革だ」と怒鳴り、民主党は「包摂社会に必要だ」と胸を張る。どちらも声が大きく、鍋のフタがガタガタしている。

ここには、多様性という理念が抱える難しさがある。多様性を尊重しようという考え方自体は現代社会に欠かせない価値だ。しかし、その理念が唯一絶対の価値として扱われ始めると、「伝統的な家族観を大切にしたい」「生物学的な区別も社会には必要だ」という考え方まで排除されかねない。多様性を掲げながら、多様な意見そのものが認められなくなる──これはカール・ポッパーの「寛容のパラドックス」を思わせる。多様性の鍋を一生懸命かき混ぜていたら、いつの間にか「自分たちの味だけが正しい」という料理になってしまう。

教育も法律も、本来は社会の共通基盤である。だからこそ、古典を現代の価値観で安易に読み替えたり、長年使われてきた言葉を次々と抽象化したりすることには慎重さが求められる。制度を変えること自体が目的ではない。社会全体が納得できる共通の土台を維持しながら、多様な人々が共に暮らせる仕組みを考えることこそ本来の課題である。教育は価値観を押しつける場ではなく、子どもが自ら考える力を育てる場であってほしい。古典は古典として味わい、家族を表す言葉は誰にでも伝わるものであり続ける。そのうえで、多様な人々への理解を深めていく──そのくらいのバランス感覚が、いま一番求められているのではないか。

「発達障害留学支援」詐欺2026年06月29日

「発達障害留学支援」詐欺
発達障害のある子どもを海外に留学させて、未来をパーッと開いてあげましょう――そんな、聞いているだけで脳内に虹がかかりそうな甘い誘い文句に、東京都内の母子は約1800万円を吸い取られた。吸い取ったのは「発達障害支援」を看板に掲げる一般社団法人の元代表。医師でもないのに診断書まで書き、イギリスだのニュージーランドだの、地球儀を回して適当に指さしたような学校名を並べ、「同じように悩んでいた子も成功していますよ」と胸を張る。胸を張るのは自由だが、中身はスカスカ。まるで空気だけで膨らんだシュークリームである。噛んだ瞬間にスカッと虚無が広がるタイプのやつだ。

とはいえ、ここで「そんな話を信じるほうが悪い」と被害者を責めるのは簡単だ。簡単すぎて、むしろ何も見えていない。問題は、日本の支援体制そのものが“空洞ビジネス”を呼び寄せる巨大な湿地帯になっているという点だ。湿地帯は生き物が繁殖しやすい。詐欺師も同じである。

学校には校内委員会があり、個別の教育支援計画や指導計画もある。書類だけ眺めれば、なんだか手厚そうだ。だが実際には、会議を開いたという記録が残るだけで、支援そのものはどこかへ蒸発してしまうことがある。まるで、湯気だけ立派で肝心の鍋が空っぽの寄せ鍋のようだ。責任者を探そうにも、学校、教育委員会、福祉、医療がそれぞれ少しずつ関わっているため、全体を束ねる人が見えにくい。「みんなで支える」は、ときに「誰も最後まで責任を持たない」に化ける。化けるのが早い。妖怪並みである。

そのうえ、福祉は縦割り、医療は予約が何か月も先。学校も外部の専門職と自由にチームを組めるわけではない。親は学校へ行き、病院へ行き、役所へ行き、そのたびに同じ説明を繰り返す。まるでスタンプラリーである。違うのは、ゴールしても景品がもらえないことだ。むしろ疲労だけが増える。ようやく息をついたところへ、「日本では難しくても海外なら伸びますよ」と耳元でささやかれれば、藁が金塊に見えてしまう。藁が金塊に見えるのは、親が愚かだからではなく、周囲が霧だらけで何も見えないからだ。そこへ、親自身にも発達特性がある場合は、判断のハンドルがさらに取られやすくなり、詐欺の餌食となる危険は一段と高まる。

一方、アメリカでは、障害が疑われる子どもについて学校区(日本の市町村教委にあたる)がIDEAの「Child Find」義務に基づき評価を行いIEPを作成する法的義務がある。LDや読み書き障害は当然含まれ、読み書きに困難が見られれば学校区は評価を開始する義務を負い、必要と判断されればIEPで読み書きの直接指導や合理的配慮を提供する。IEPは学校区が提供すべき教育サービスを縛る文書で、評価から計画、実施、進捗管理まで、連邦法と規則が細かく抜け道なく規定している。学校区がこれを怠れば、保護者は審問や訴訟で責任を問える。制度の強度は、日本と比べれば圧倒的に硬い。硬いというより、「やらなければ裁判になる」という乾いた現実が、向こうの教育現場を一定の方向へ押し出している。

もちろんアメリカにも、人手不足や予算の薄さ、地域差など問題は山ほどある。だが少なくとも、保護者が学校・医療・福祉の間を延々とさまよい、書類の湿気で角が丸くなるほど右往左往する“湿った巡礼”は、米国ではあまり見られない。IEPという契約制度がないため、保護者への告知をためらうような教師側の湿り気も米国は薄い。制度が乾いている分、迷う余地も湿る余地も少ないのである。

結局、この事件は、一人の詐欺師だけが起こした事件ではない。制度がぽっかり空けた穴に、悪徳業者が店を開いただけの話でもある。詐欺師という生き物は、人の弱さを見抜く前に、制度の弱さを嗅ぎつける。だから一人逮捕しても、穴がそのままなら次が来る。今日もどこかで、立派な看板を掲げた「支援」の陰で、親は孤立し、空洞ビジネスは次の客を待っている。湿気を吸って、ますます元気に育つ。

ノルウェーが「小学生はAI禁止」2026年06月22日

ノルウェーが「小学生はAI禁止」
どうも最近の教育界は、デジタルを見ると、台所に見慣れない虫が出たときのように「とりあえず叩いておけ」と反応する癖がついてしまったらしい。ノルウェーが「小学生はAI禁止」と打ち出したと聞けば、「ああ、またデジタル一括処分セールか」と思ってしまう。スマホもSNSもAIも、まとめて“デジタル”という大袋に放り込み、口を縛って危険物扱いにする。しかし、その袋の中身は本当に同じ生き物なのか。北欧三国の対応を見るだけでも、その乱暴さがよくわかる。

ノルウェーは袋の中身を確かめる前に「危ないものは危ない」と冷凍庫へ放り込む予防原則派。スウェーデンは袋を開け、「危ないものもいるが全部ではない」と様子を見ながら扱いを決める中庸派。そしてフィンランドは「育てれば役に立つ」と考え、袋の中身を理解しながら共存を図る活用派だ。同じ北欧でも袋の扱い方は見事に違う。

では日本はどこにいるのか。おそらく袋の前で腕を組み、「うーん」と唸ったまま動かない“逡巡派”である。ノルウェーほど大胆に禁止しないし、フィンランドほど積極的に活用もしない。スウェーデンに近いようでいて、スウェーデンほど明確な方針も示さない。結局「もう少し様子を見よう」が何年も続く。日本の行政は、ときどき決断の先送りを慎重さと呼ぶ。

さらに日本の議論には、SNSとAIを同じ棚に並べてしまう悪癖がある。だが両者は似ているようで性格がまるで違う。SNSは承認欲求を刺激し、依存を招き、匿名性が攻撃性を増幅する“じゃじゃ馬”で、発達途上の子どもには扱いが難しい。一方AIは本質的には道具であり、誤情報の問題はあっても、設計と使い方次第で子どもの思考を補助し、興味を広げ、学びを深める力を持つ。いわば「外付けの前頭前野」である。これを同列に扱うのは、ハサミとチェーンソーを同じ「刃物」として一括管理するようなもので、分類としては正しくても、現実の扱いとしては雑すぎる。

厄介なのは、教育の不調を何でもデジタルのせいにしたがる風潮だ。読解力の低下、集中力の低下、学力不振。もちろんデジタルの影響はあるが、その背後には読書習慣の衰え、教師不足、睡眠不足、家庭環境の格差、制度疲労といった、もっと地味で重たい問題が横たわっている。だが、こうした問題は解決に時間も金もかかる。そこで手近な「デジタル」が悪役に選ばれる。街灯の下で鍵を探す酔っぱらいのように、明るい場所ばかり探して本質を見失う。本来ならSNSには年齢や匿名性に応じた強い規制をかけ、AIは目的に応じて教育的に活用すべきだろう。ところが現実にはSNSは半ば野放しのまま、AIばかりが警戒される。教育に必要なのは、袋ごと捨てる勇気でも袋ごと抱きしめる度胸でもなく、袋を開け、中身を一つひとつ見極める手間である。教育とは子どもに学ばせる営みだと思われがちだが、案外いちばん学び直しを求められているのは、大人たちのほうなのかもしれない。

根拠なき『貧困徴兵』論2026年06月18日

経済的に厳しい子が自衛隊就職
六月の国会という場所は、ときどき時空のねじが一本ゆるむ。すると令和の議場に、なぜか昭和の空気がふわりと流れ込んでくる。今回の一幕も、まさにそんな“ねじのゆるみ”だった。参議院決算委員会で、立憲民主党の女性議員が「自衛隊に行くのは経済的に厳しい子どもたち。豊かな子どもは自衛官にならない」と発言したのである。聞いた瞬間、「あれ、いま何年でしたっけ」とカレンダーを見直したくなった人もいたのではないか。場内の空気はみるみる冷え込み、防衛相からは「偏見に満ちた見方だ」と反論が飛んだ。議員は発言を撤回したが、失言というものは床に落とした豆腐みたいなものである。拾うことはできる。しかし元の姿には戻らない。

しかもこの議員、元教師だという。ここから話が少しややこしくなる。居酒屋で酔ったおじさんが言ったのなら、「また始まった」で済む。しかし長年教壇に立っていた人の口から出ると、「その考え方で子供を見ていたのか」と気になってくる。理科室の戸棚の奥に、ホルマリン漬けの古い歪んだ国家観でも保存していたのかと疑いたくなる。教育現場というのは、時に外界の変化から切り離され、独自の気候をつくりがちな場所である。その空気が、国会のマイクの前までついてきてしまったのかもしれない。

不思議なのは、この話に根拠らしい根拠が見当たらないことだ。防衛省は入隊者の家庭の年収を調査していない。つまり「貧しい子が自衛隊へ行く」という説には、肝心の数字が存在しない。ところが数字はないのに物語だけは元気である。まるで目撃者はいないのに都市伝説だけが商店街を闊歩しているようなものだ。現実には、景気が良ければ民間企業へ進む人が増え、不景気になれば安定を求める人が増える。警察も消防も自衛隊も、その影響を受ける。自衛隊だけが特別な生き物ではない。サバンナのシマウマの群れの中で、一頭だけ「私は経済的徴兵制です」と名札を下げて歩いているわけではないのだ。

防衛大学校ともなれば、教育熱心な家庭の子どもも少なくない。都市部の出身者もいれば地方出身者もいる。裕福な家庭もあれば、ごく普通のサラリーマン家庭もある。野球好きもいればアニメ好きもいるだろう。要するに自衛隊は、日本社会の縮図に近い。それを「貧しい子の集団」と決めつけるのは、水族館を一周して「魚とはマグロである」と結論づけるような乱暴さである。さらに最近は「経済的徴兵制」という便利な言葉がある。便利な言葉というのは厄介で、冷蔵庫の万能調味料と同じで、何にでもかけたくなる。安定した給料がほしい、福利厚生がしっかりしている、将来が不安だから公務員を目指す──こうした理由で職業を選ぶ人は山ほどいる。もしそれを全部「経済的強制」と呼ぶなら、日本中の会社員は毎朝、満員電車に揺られながら企業へ徴兵されていることになる。

もちろん生活のために人は働く。しかし人間というのは、そんなに単純な生き物でもない。災害派遣の映像を見るたびに思う。泥だらけになって土砂を運び、避難所で風呂を設営し、孤立した集落へ物資を届ける。あれを見て「なるほど、給料だけが目的ですね」と言う人はあまりいないだろう。若者の志望動機というのは弁当のおかずに似ている。唐揚げもあれば卵焼きもあり、ウインナーもある。給料も欲しいし、やりがいも欲しいし、誰かの役に立ちたい気持ちもある。ところが今回の話は、その弁当をのぞき込んで「なるほど、これは白飯ですね」と言っているようなものだった。国防の話になると、ときどき「屋根を直す金があるなら座布団を新しくしろ」という議論が現れる。しかし雨漏りが始まれば、最後にはその座布団もびしょ濡れになる。

結局のところ、今回の失言は一人の議員の問題というより、日本社会のどこかにまだ残っている古い歪んだ思い込みが、ふと顔を出した出来事だったのだろう。令和の国会で昭和の偏見が口を開き、多くの人が「ああ、まだ残っていたのか」と振り返った。失言は撤回できる。しかし、その失言を生んだ考え方まで消えたかどうかは別の話だ。押し入れの奥から出てきた古い扇風機というのは不思議なもので、もう使わないと言いながら、なかなか捨てられない。今回の騒動もまた、そんな古い考え方が国会のどこかにまだ置かれていることを教えてくれたのである。

飛鳥・藤原宮跡と日本神話2026年06月07日

飛鳥・藤原宮跡と日本神話
飛鳥・藤原宮跡が世界遺産登録の勧告を受けた。めでたい話である。めでたいのだが、ニュースを眺めながら妙な気分にもなる。日本最初の本格的な都城が「人類共通の財産です」と国際的にお墨付きをもらうまで、ずいぶん時間がかかった。まるで実家の押し入れから出てきた古いアルバムを見て、「ああ、うちにもちゃんと歴史があったんだな」と今さら気づくような話である。

考えてみれば、日本の古代史というのは長いあいだ、どこか片目をつぶったまま眺められてきた。中国の史書は熱心に読む。だが日本神話になると、急にみんな視線をそらす。古事記や日本書紀は、本棚の上段に置かれたまま「触らないほうが無難です」という空気をまとっていた。おかげで古代史研究は、地図の半分だけ広げて旅に出るような状態になった。目的地を探しているのに、肝心のページが折り畳まれたままなのである。

世界では少し事情が違う。考古学者という人種は案外ロマンチストだ。ギリシャではホメロスの物語を頼りにトロイを探し、中国では長く伝説扱いだった殷王朝を甲骨文で掘り当てた。インドでも叙事詩に登場する地名を追いかけて遺跡が探されている。要するに「そんな話が残っているなら、一度スコップを入れてみよう」という発想である。世界標準では、神話は信じるものでも否定するものでもない。まず掘るための地図なのだ。

ところが日本では、戦後になると神話は急に扱いづらい存在になった。国家神道への反省もあったし、神話が歴史として教えられた時代への警戒もあった。事情は理解できる。だが戦後の教育現場には、「神話に触れるとどこか思想の地雷を踏むのでは」という、誰が決めたとも知れない妙な緊張感が長く漂った。その緊張感は、教室の床下に“どこに埋まっているか分からない地雷”があるようなもので、誰も確かめようとしないまま年月だけが過ぎていった。警戒心というのは便利なもので、ときとして必要なものまで物置にしまい込む。包丁が危ないからといって台所ごと封鎖するような話である。気がつけば神話そのものが遠ざけられ、「触れないのが大人」という妙な空気だけが残った。

その結果、日本の古代史はどこか窮屈になった。魏志倭人伝はもちろん重要である。だが古代日本を理解する手がかりが中国の史料だけで尽くせるなら、わざわざ日本列島に何万もの遺跡が残っている意味がない。近年になって、纏向遺跡の巨大な姿が見え、箸墓古墳の年代が絞り込まれ、藤原宮跡の都市計画が明らかになるにつれ、神話の中に描かれた政治統合や地理感覚と重なる部分も見え始めた。もちろん神話がそのまま史実だという話ではない。だが、まったくの空想話にしては妙に土地勘が良すぎるのである。

神話というものは面白い。英雄が現れ、国を造り、争い、和解し、ときにはとんでもない失敗もする。物語として読んでも十分楽しい。だから本来は国語の教材としても優秀だし、歴史への入口としても使いやすい。神話を読んだ子どもが「その場所はどこにあるの」と興味を持ち、遺跡を訪ねる。そうやって考古学へ進む子がいてもいい。神話は信仰でも教義でもなく、まず文化なのである。

今回の世界遺産勧告は、飛鳥・藤原の価値が認められたというだけの話ではないように思う。長いあいだ押し入れにしまわれていた古い地図を、ようやく広げ直す時期が来たという知らせにも見える。神話は神話、考古学は考古学である。しかし両方を机の上に並べてみると、これまで見えなかった輪郭がふっと浮かび上がることがある。古代史という風景は、どうやら片目だけでは見えないらしい。せっかく二つあるのだから、そろそろ両目を開いて眺めてみてもよい頃だろう。もっとも、古事記を読んだからといって翌日から神武東征に出発する人はいない。桃太郎を読んだから鬼ヶ島へ遠征しないのと同じである。神話は読むだけで人を変身させる魔法の書ではない。だったら怖がる必要もない。むしろ読まずに遠ざけてきたことのほうが、少しばかり不自然だったのかもしれない。

UC大生の算数能力2026年06月05日

カリフォルニア大学生の算数能力
名門カリフォルニア大学(UC)のSTEM(科学・技術・工学・数学)教員たちが、とうとう白旗ならぬ公開書簡を振り始めた。2027年からSATとACTの数学スコアを復活させてくれ、というのである。大学教授というのは普段、「研究費が足りない」とか「会議が長い」とか文句はいろいろあるが、入試制度についてここまで大勢で声を上げるのは珍しい。それだけ教室の中が大変なのだろう。

理由は単純である。新入生の数学力が、まるで坂道を転がる空き缶のように落ち続けている。UCサンディエゴでは高校レベル未満の学生がこの五年で三十倍に増え、その七割は中学数学も危ういという。バークレーでは微積分の授業なのに、学生が「先生、通分ってどうやるんでしたっけ」と尋ねる。教授は微分方程式を書こうとして黒板の前で立ち止まり、「今日はその前の前の前の話から始めるか」とチョークを持ち直す。大学というより、巨大な補習塾である。

原因の一つとされるのが、誤ったDEI指向の下で進められたSAT・ACT廃止だ。「テストは不公平だ」という考え方が広がり、数学力を測る客観的な物差しまで引き出しの奥へしまい込んでしまった。だが数学というものは、昨日の分数の上に今日の方程式が乗り、その上に微積分が乗る積み木のような学問である。土台がないまま上へ積めば、どこかでガラガラと崩れる。結果として大学は、州民の税金を使って中学数学を教えるという、なんとも不思議な施設になりつつある。微積分の教科書と中学の数学ドリルが同じ棚に並んでいる光景は、教育というより時空のねじれだ。

もっとも、この話を聞いて「アメリカも大変だなあ」と笑っている場合ではない。日本にもよく似た風景がある。少子化で学生が減り、Fランク大学は生き残りをかけて門を広げる。広げて、広げて、広げて、気がつけば入口がほぼ自動ドアになる。すると今度は大学で分数や百分率を教える話が出てくる。UCは誤ったDEI指向、日本は大学生き残りの経営圧力。理由は違うが、結果はどちらも「大学に入れさえすれば何とかなる」という古い呪文に振り回されている。

そもそも、社会に必要なのは大学生の数ではなく、能力を持った人材の数である。大学に向く人もいれば、職業教育で力を発揮する人もいる。それなのに、全員を大学へ押し込もうとするから、学生も大学も企業も息切れする。必要なのは学歴給ではなく、技能や資格が正当に評価される仕組みだろう。大学は高等教育の場に、職業教育は職業教育の場に戻る。その当たり前の線引きを思い出す時期に来ている。

UCの騒動は、単なる入試制度の話ではない。これは日米共通の「大学神話」がガタガタと音を立て始めた知らせである。「大学に行けばなんとかなる」という呪文は、長いあいだ便利に使われてきた。しかし最近どうも効き目が怪しい。そろそろその呪文は、使い古したお守りと一緒に棚へ戻しておいたほうがよさそうだ。

ゴールポストをずらすな2026年06月02日

政治的活動と一体化していないか
沖縄・辺野古の海で、抗議活動団体の船に生徒が乗り込み事故が起きた。文科省は、フィールドワークを行った同志社国際高校に対し「政治的活動と一体化」し教育基本法に違反していると発表した。すると、これに真っ先に反発したのが共産党である。「教育への介入だ」「フィールドワークの自由を守れ」と、立派な言葉を次々と繰り出す。だが、その言葉の勢いとは裏腹に、肝心の現場の話になると急に口が重くなる。料理番組で「味付けが命です」と言いながら、鍋の中身だけは絶対に見せない、あのもどかしさである。

事実はそう複雑ではない。抗議活動が続く海域に出向き、その活動に関わる団体の船に乗り、講師は「自分たちは違法なこともしている」と語った。教師もそれを聞いていた。それでも学習を続けた。ここまで並べれば、議論の半分は終わっている。残るのは「その判断は適切だったのか」という一点だけだ。ところが、この“簡単な問い”ほど、共産党はなぜか遠回りしたがる。真っすぐ歩けば五分で着くのに、わざわざ峠道に入り、尾根を三つ越えて、道に迷い、気づけば元の場所に戻って目的地には到着しない。

案の定、話は妙な方向へ曲がる。「政党支持ではないから問題ない」「教育の自由が大事だ」「平和教育を委縮させるな」。どれも耳ざわりはいい。だが、それは鍋の“味付け”の話であって、“材料”の話ではない。文科省が問うているのは「政治的活動と一体化して偏向していないか」という一点なのに、その問いに正面から答えず、別の話にすり替える。材料を見せずに「この料理は自由の味がします」と言われても、こちらは困る。自由の味とは何か。塩なのか、砂糖なのか、それともただの言い訳なのか。

さらに厄介なのは、共産党の側も理屈に逃げたくなることだ。「中立性がどうだ」「法解釈がどうだ」と積み上げれば、それらしくは見える。だが、事実を見ずに論理だけ積むのは、砂の上に城を建てるようなものだ。形は立派でも、波が来れば一瞬で崩れる。しかも、その砂の城を前にして「これは平和と自由の象徴である」と言い出す人まで現れる。そこまで来ると、もう議論ではなく、砂遊びである。

本質はもっと単純だ。違法行為を含むと自ら語る主体の現場に、生徒を置いた。その判断は適切だったのか。ここに尽きる。違法性の細部を大仰に論じるまでもなく、その時点で教育としての線を越えている、と考えるのが自然だろう。ところが、この「自然」がまた気に食わないらしい。どれだけ大雨が降っていても「俺は風邪ひかない」と言い張って傘をささない人のように、当たり前のことでも認めようとしない。

結局のところ、議論とは難しい言葉を並べることではない。まず事実を拾い、その上で判断する。それだけの話である。当たり前のことを当たり前にやる。それができないとき、人は抽象論という季節外れの厚着をしてしまう。真夏にコートを着込んで汗だくになりながら、「これで理屈は通る」と妙に安心している姿である。今回の一件は、その姿をいやに鮮明に映し出している。議論の道は本来まっすぐなのに、わざわざ曲がり角を探しに行く。その癖が、今回も見事に顔を出したのである。

「送料無料」研究は正しいか2026年06月01日

「送料無料」研究の間違い
世の中には「送料無料」という、なんとも人の心をふにゃっとさせる魔法の札がある。あれを見ると、財布の紐が勝手に伸びる。まるで“おいでおいで”してくる猫の手だ。しかし、よく考えれば送料が蒸発したわけでも、宅配業者が慈善活動を始めたわけでもない。商品価格にこっそり混ぜられているだけだ。ところが人間というのは、この簡単な算数をなぜか忘れる。「無料」と聞いた瞬間、脳のどこかがそわそわ動き出すらしい。韓国の研究チームがfMRIで調べたところ、報酬系と呼ばれるあたりの血流が増えて、「おっ、無料だぞ」と反応したように見えるというのだ。

だが、こちらとしては「本当にそんな話かね」と眉をひそめたくなる。なにしろこの手の実験、数的リテラシーや計算能力といった“個体差”が往々にして無視されている。九九が怪しい人も、暗算が趣味の人も、全部ひとまとめにして「脳がこう反応した」と言われてもそりゃあ困る。人間の脳を無理やり平均化して「ほら、無料は全人類にとっての報酬だ」と言われても、平均の波に沈められた個性がぷかぷか浮かんで抗議しているのが見えるようだ。

実際のところ、送料無料が好まれる理由はもっと地味で、もっと人間くさい。要するに「計算が面倒くさい」のである。送料200円だの400円だの、いちいち足し算して他店と総額を比べるのは、脳にとっては立派な重労働だ。脳はいつだって省エネ運転をしたい「認知のケチ」なのだ。そこへ「0円」と出されると、「ああ、今日は計算しなくていいんだ」と脳がホッとする。この“解放感”が報酬系に映り込んでいるだけで、別に無料という概念そのものが神々しいわけではない。算数嫌いの子どもが「今日は宿題なし!」と言われて跳ね回るのと同じ構造だ。

そしてここからが本題である。計算が不得手な人ほど、この“送料無料”にパッと飛びつきやすい。脳の報酬系が「おっ、計算しなくていいぞ」とばかりに、ちょっとした花火大会を始めてしまうのである。つまり、この反応の強弱そのものが、被験者の“計算したくなさ”の度合いをそのまま映し出している。

だから、この実験の被験者にあとから算数テストを受けてもらったとしても、そこで出てくる得点の散らばり方は、今回の「送料無料への反応」のばらつきとほとんど同じ形になるだろう。というのも、この実験そのものが、実質的には“計算を前にしたときに脳がどれだけイヤそうな表情を浮かべるか”を測っているようなもので、あとから算数テストを持ってきても「はいはい、これね」と言わんばかりに、同じような散らばり方を見せるに決まっているのである。

この「複雑な計算を前にすると、脳が白旗を上げて思考を止める」という性質を裏返すと、別の罠も見えてくる。たとえば、利息や総額の計算をあえて細かく刻んで「1日あたり、わずか○円!」と提示されると、数字を見るだけで肩がこるような人まで、なぜか妙に納得してしまう。脳が総額の掛け算を放棄して、目の前の小さな数字だけをつまんで「まあ、このくらいなら」と勝手に折り合いをつけてしまうのだ。脳というのは、こういうときだけ妙に楽天的で、財布の中身のことなど一切考えていない。これも結局、「送料無料」に釣られるのと同じ“脳の横着”の親戚筋である。

そして、話をさらにややこしくしているのが科学報道である。「脳科学が証明した!」とタイトルに書かれた瞬間、脳はそれだけで「はいはい、正しいんでしょ」と思考を放棄する。難しい統計を読むより、五文字を信じるほうがはるかに楽だからだ。タイトルを見た途端、脳がソファに寝転んでしまうのである。送料無料に飛びつくのも、科学報道にひれ伏すのも、ただの「認知負荷を避けたい」という人間らしい怠惰の産物。私たちがひれ伏しているのは無料の魔力でも脳科学の権威でもなく、自分の脳がこっそり仕掛けてくる、ちょっとお茶目な錯覚なのである。

合成の誤謬ナフサ問題2026年05月22日

合成の誤謬・ブルウィップ効果
ナフサ由来の商品が足りない――とニュースが言う。ナフサ? なんだか聞き覚えはあるのに、いざとなると正体がつかめない。灯油のはとこか、ガソリンの遠い親戚か。そんな曖昧な存在が、突然「不足するらしい」と言われると、こちらの心まで曖昧にざわつく。で、ざわついた心が棚に走る。ああ、また始まった。トイレットペーパー、マスク、そして今回はナフサ。日本人は“○○不足”と聞くと、反射的に棚へダッシュする民族なのか。

ところがよく聞けば、ナフサそのものは足りているという。蒸留も順調、タンカーも元気に来ている。足りないのは、その先の溶剤だの樹脂だの、用途別の“細かいところ”だけらしい。つまり、全体は満タンなのに、蛇口のネジがちょっと固い、みたいな話だ。それなのに人間は、部分の不足を見ると全体が危ないと思い込む。いわゆる「合成の誤謬」である。近所のスーパーの棚が空だと、日本全体が終わった気がする。SNSがそれを全国に拡声して、火に油を注ぐ。いや、ナフサに油を注ぐのはどうかと思うが。

で、みんなが「念のため」に買う。念のための念のため。すると本当に不足する。いわゆるブルウィップ効果というやつだ。店で5%売れ残りが減ると、卸は20%増発注、メーカーは40%増産、上流は100%。まるで伝言ゲームで「りんご」が「ドラゴンフルーツ」になるように、需要が勝手に膨れ上がる。で、過剰発注の山ができ、買い占めが終わると今度は暴落。市場は忙しい。ジェットコースターに乗せられているみたいだが、乗っているのは私たちである。

ここで政府が慌てて「買い占めはやめて」と言うと、逆に不安が増す。「やめて」と言われると「やっぱり危ないのか」と思うのが人情だ。数量制限をかければ「ほら見ろ」となる。価格を固定すれば供給が死に、統制経済の入口が開く。統制すれば裏をかく者が出る。配給すれば闇市場が生まれる。歴史は何度も見た光景である。善意で始めた統制が、気づけば同じ失敗をなぞる。ではどうするか。万能薬はない。あるのは「市場を殺さず、パニックだけ殺す」という、少々気難しい処方箋だ。価格は自由に、数量制限は最小限に、情報は用途別に細かく出す。どこが詰まり、どこは流れているのかを、全体ではなく“蛇口”の話として伝える。それでも揺れは消えないが、揺れ方は穏やかになる。

結局、必要なのは教育である。といっても、黒板いっぱいにグラフを描くような話ではない。もっと実用的で、もう少し切実なやつだ。たとえば道徳の時間に「トイレットペーパーがなくなりそうなときの心の持ち方」をやる。先生が教壇に立つ。「はい、ここにクラス1日分の3ロールがあります。さて、どうしますか」生徒A「全部買います!」生徒B「半分にします!」生徒C「家にあるけど念のため1個買います!」ここで先生、チョークを持って黒板に一行。「それ、30人全員がやるとどうなる?」教室が一瞬だけ静かになる。たぶんこの沈黙が、いちばん大事なところだ。これでいい。立派な経済教育である。下手なグラフを何枚も見せるより、よほど効く。大人になってからニュースを見て棚に走るより、ずっと安上がりで、しかも副作用がない。社会は完璧に安定しないが、少なくとも自分の足でダッシュする回数くらいは減らせる。

算数を数学に?2026年05月19日

算数を数学に?
いやはや、文部科学省の中央教育審議会というところは、ときどき「看板屋さん」みたいなことを言い出す。「小学校の算数を中学・高校と同じ“数学”にしてはどうか」。理由は「学びの連続性」だそうである。なるほど、表札を揃えれば家並みはきれいに見える。だが、家の中が迷路のままでは、来客は相変わらず廊下で右往左往するばかりではないか。しかもその迷路、ところどころに段差があって、油断するとつまずく。そんな家に「数学」と書いた表札を掲げても、訪れた人はやっぱり転ぶ。

そもそも日本のカリキュラムというのは、どこか「急げ急げ」と背中を押す癖がある。小5から中1にかけて、割合だの単位量あたりだの速さだの密度だの濃度だの、あげくに文字式まで、「はい次、はい次」と流し込んでくる。まるで、昨日まで平地を歩いていたのに、今日から急に登山口に立たされ、「さあ、あの山の頂上まで行ってきて」と言われるようなものだ。しかも地図は渡されず、コンパスもなし。頼りは自分の足と勘だけである。

ところが10歳から12歳というのは、頭の中の“抽象スイッチ”の入り方にずいぶん個人差がある。軽やかにポンポン上がる子もいれば、「あれ、次の段が見えないぞ」と足踏みする子もいる。中には、階段の前で「これは本当に階段なのか」と哲学的な疑問を抱き始める子もいる。そこへ“抽象化ラッシュ”が押し寄せるのだから、つまずく子が出るのは、まあ自然の成り行きである。実際、国際調査のTIMSSでも、日本では小4のときには「算数が得意」と胸を張っていた子どもが半分以上いたのに、中2になるとぐっと減る。これはどう考えても、「算数か数学か」という看板の問題ではない。家のつくりの問題である。階段の角度が急すぎるのだ。

ところが議論のテーブルを見ると、これがまた立派な肩書きの方々がずらりと並んではいるのだが、どうも「算数は得意でした」という人が多すぎる。しかも、子どもの認知発達を専門にする研究者は皆無である。そのせいか、「子どもがどこでつまずくか」を肌で知っている人が、あまり見当たらない。靴屋が足のサイズも測らずに「最近は26センチが流行りです」と言って靴を並べているようなもので、履くほうはたまったものではない。しかもその靴屋、流行の色やデザインにはやたら詳しいのに、「この人は外反母趾かもしれない」という視点はまるで持ち合わせていないのである。

ではどうするか。話はそう難しくない。階段の段差を少し低くしてやればいいのである。具体的なものから入り、少しずつ半分だけ抽象にし、最後にきちんと抽象へ持っていく。速さや密度といったものも、「比の仲間」としてまとめて教えれば、「ああ同じ顔をしているな」と気づける。これを小4から中1までにばらして置いておけば、いまのような“ドッと来る感じ”はずいぶん和らぐはずだ。

人間の頭というのは不思議なもので、余裕があるときにこそ、寄り道をしたり、面白いことを考えたりする。ところが、いまのカリキュラムは、どうも頭の中に荷物を詰め込みすぎて、立ち止まる場所がない。これでは創造力もへったくれもない。結局のところ、「算数」を「数学」と呼び替えるかどうかは、玄関の表札を新しくするような話である。もちろん表札が曲がっているよりは、まっすぐなほうがいい。しかし、その前にやるべきは、家の中の段差を削ることではないか。来た人が転ばない家。それが、まず先だと思うのである。