高関税発動を延期 ― 2025年04月11日

トランプ政権がわずか半日で一部関税の発動を延期した背景には、表向きには「消費者への影響を避けるため」と説明されたが、実際には米国債市場の動揺、いわゆる“国債暴落”への懸念が大きく影を落としていた可能性が高い。これまで「リスクフリー資産」とされてきた米国債は、関税政策や中国との対立激化を受け、株・債券・ドルが同時に売られるという異常な状況に見舞われた。これは、米国経済や財政に対する投資家の信頼が揺らぎ始めている兆候に他ならず、米国債がもはや安全な避難先として機能しなくなりつつあることを示していた。加えて、米国債の主要保有国である中国や日本の動きも見逃せない。もし外国人投資家が米国債を本格的に売却すれば、長期金利が急騰し、ドルも下落する。その結果、政府の借入コストが上昇し、財政運営は一層厳しさを増すことになる。株価を政権の成果と位置付けてきたトランプ政権にとって、こうした市場の混乱は単なる経済問題ではなく、政治的な打撃ともなりうる。したがって今回の関税延期は、単なる政策の微調整ではなく、国債市場や金融システム全体の安定を守るための“退却”だったとも言える。
株価の乱高下に一喜一憂する向きもあるが、株式市場は経済活動が続く限り、いずれ回復する可能性がある。しかし、国債価格の下落は国の信用そのものを揺るがし、民間の借入コストや企業の経営、ひいては雇用や実体経済に深刻な影響を与える。とりわけ、株式市場から距離のある下層労働者層の生活が直撃されれば、トランプ支持層の離反にもつながりかねない。この間、日本が米国債を売ったという噂もあるが、より現実味があるのは、中国が戦略的に売り浴びせを行ったという見方だ。米国債を売れば中国自身の資産も減るが、それでも100%超の関税を科された状況下では「背に腹は代えられない」との判断だったのだろう。だが、こうなると高関税と米国債売却の応酬となり、基軸通貨ドルの信用が損なわれれば、その影響は世界全体に波及する。日本としては静観を保ちつつ、中国産太陽光パネルに依存しない電力資源の開発に投資し、国内の産業と農業を早急に立て直すことが肝要だ。だが、それを迅速に実行できる政府が今の日本にあるかというと、残念ながら心もとない。
株価の乱高下に一喜一憂する向きもあるが、株式市場は経済活動が続く限り、いずれ回復する可能性がある。しかし、国債価格の下落は国の信用そのものを揺るがし、民間の借入コストや企業の経営、ひいては雇用や実体経済に深刻な影響を与える。とりわけ、株式市場から距離のある下層労働者層の生活が直撃されれば、トランプ支持層の離反にもつながりかねない。この間、日本が米国債を売ったという噂もあるが、より現実味があるのは、中国が戦略的に売り浴びせを行ったという見方だ。米国債を売れば中国自身の資産も減るが、それでも100%超の関税を科された状況下では「背に腹は代えられない」との判断だったのだろう。だが、こうなると高関税と米国債売却の応酬となり、基軸通貨ドルの信用が損なわれれば、その影響は世界全体に波及する。日本としては静観を保ちつつ、中国産太陽光パネルに依存しない電力資源の開発に投資し、国内の産業と農業を早急に立て直すことが肝要だ。だが、それを迅速に実行できる政府が今の日本にあるかというと、残念ながら心もとない。
特別支援の「調整額」 ― 2025年04月12日

文部科学省は、障害のある児童・生徒を担当する教員に支給されている特別支援の「調整額」を、2027年から段階的に引き下げる方針を明らかにした。現在は月給の3%相当が支給されているが、2027年と2028年の2年にわたりそれぞれ0.75%ずつ削減し、最終的に1.5%とする予定だ。背景には、「通常学級で学ぶ障害児が増え、特別支援教員の“特殊性”が薄れた」との認識と、教員全体の給与引き上げに向けた財源の確保がある。一方、特別支援調整額とは別に、教員全体を対象とした「教職調整額」の引き上げも国会で審議中だ。これは2026年から段階的に10%まで引き上げる法案が検討されており、この分で特別支援教員の減額分は相殺される。とはいえ、他の教員に比べて増額幅は相対的に小さくなる。文科省は「結果的に手取りは増える」と説明する。
加えて、義務教育教員特別手当も2026年から、従来の1.5%から1.0%に引き下げられる予定だ。教員の給与を上げなければ人材確保が難しいという議論が進んでいたが、財務省の意向もあり、文科省は“痛み分け”のように少数派である特別支援教員の手当てを削ることで帳尻を合わせようとしている。すでに小中学校と特別支援学校の教員手当も、しれっと0.5%減らされようとしている。つまり、これまで特別支援学校や特別支援学級、通級指導教室の教員には、基本給に最大14%近い手当がついていたが、3年後には12%に下がる。一方で教職調整額が6%引き上げられて18%になるから、「差し引き4%増えてるでしょ、文句は言えないよね」という論理だ。そして、一般教員との差額、つまり「ご苦労さん料」は最終的に1.5%で我慢しろ、という話である。
だがその根拠とされた「通常学級で学ぶ障害児が増え、特別支援の特殊性が薄れた」という説明には大きな疑問が残る。およそ20年前まで、特別支援学級の対象は主に身体・知的障害のある子どもだった。だが次第に、知的な遅れのない発達障害のある子どもたち、特に行動面・対人関係・学習面で困難を抱える子どもたちが支援学級に受け入れられてきた。文科省は本来、こうした子どもへの対応は通常学級で行うべきだとしていたが、現実には都市部を中心に支援学級は増加の一途をたどっている。つまり支援学級の教員には、発達障害への対応スキルが新たに求められるようになってきたのだ。通常学級の担任や管理職が、学級運営が難しい子どもの保護者に「支援学級」を勧めてきた経緯もある。背景には、働き方改革の中でこれ以上担任の業務を増やせないという事情もあるだろう。文科省が「インクルーシブ教育」を唱えても、実際の現場ではむしろ逆行する「エクスクルーシブ化」が進んでいるのが実情だ。
数字を見ても明らかだ。過去10年で都市部の通常学級は少子化の影響で約1万4千学級(約18%)減少したが、特別支援学級は1000学級増え、約10%の増加となっている。このデータのどこを見て、「通常学級で学ぶ障害児が増えた」と言えるのか。通常学級にすでに在籍していた発達障害の子どもを、今になって「増えた」とカウントするのであれば、それは“統計マジック”によるごまかしでしかない。もちろん、担任する子どもの人数だけで見れば、通常学級の教員の方が4倍近い子どもを受け持っている分、業務負担が大きいのは確かだ。中には、通常学級でうまく対応できなかった教員が、特別支援に異動してきたケースもある。だが、大多数の特別支援教育担当者は、多様な学力・学習スタイルに対応し、子ども一人ひとりに合わせた教材と指導を提供している。子どもだけでなく保護者への対応も多く、精神的な負荷は計り知れない。これが1.5%、約5000円の「ご苦労さん料」で済む話だろうか。「通常学級で学ぶ障害児が増えた」なら全教職員に3%の手当てをするのが筋ではないか。
加えて、義務教育教員特別手当も2026年から、従来の1.5%から1.0%に引き下げられる予定だ。教員の給与を上げなければ人材確保が難しいという議論が進んでいたが、財務省の意向もあり、文科省は“痛み分け”のように少数派である特別支援教員の手当てを削ることで帳尻を合わせようとしている。すでに小中学校と特別支援学校の教員手当も、しれっと0.5%減らされようとしている。つまり、これまで特別支援学校や特別支援学級、通級指導教室の教員には、基本給に最大14%近い手当がついていたが、3年後には12%に下がる。一方で教職調整額が6%引き上げられて18%になるから、「差し引き4%増えてるでしょ、文句は言えないよね」という論理だ。そして、一般教員との差額、つまり「ご苦労さん料」は最終的に1.5%で我慢しろ、という話である。
だがその根拠とされた「通常学級で学ぶ障害児が増え、特別支援の特殊性が薄れた」という説明には大きな疑問が残る。およそ20年前まで、特別支援学級の対象は主に身体・知的障害のある子どもだった。だが次第に、知的な遅れのない発達障害のある子どもたち、特に行動面・対人関係・学習面で困難を抱える子どもたちが支援学級に受け入れられてきた。文科省は本来、こうした子どもへの対応は通常学級で行うべきだとしていたが、現実には都市部を中心に支援学級は増加の一途をたどっている。つまり支援学級の教員には、発達障害への対応スキルが新たに求められるようになってきたのだ。通常学級の担任や管理職が、学級運営が難しい子どもの保護者に「支援学級」を勧めてきた経緯もある。背景には、働き方改革の中でこれ以上担任の業務を増やせないという事情もあるだろう。文科省が「インクルーシブ教育」を唱えても、実際の現場ではむしろ逆行する「エクスクルーシブ化」が進んでいるのが実情だ。
数字を見ても明らかだ。過去10年で都市部の通常学級は少子化の影響で約1万4千学級(約18%)減少したが、特別支援学級は1000学級増え、約10%の増加となっている。このデータのどこを見て、「通常学級で学ぶ障害児が増えた」と言えるのか。通常学級にすでに在籍していた発達障害の子どもを、今になって「増えた」とカウントするのであれば、それは“統計マジック”によるごまかしでしかない。もちろん、担任する子どもの人数だけで見れば、通常学級の教員の方が4倍近い子どもを受け持っている分、業務負担が大きいのは確かだ。中には、通常学級でうまく対応できなかった教員が、特別支援に異動してきたケースもある。だが、大多数の特別支援教育担当者は、多様な学力・学習スタイルに対応し、子ども一人ひとりに合わせた教材と指導を提供している。子どもだけでなく保護者への対応も多く、精神的な負荷は計り知れない。これが1.5%、約5000円の「ご苦労さん料」で済む話だろうか。「通常学級で学ぶ障害児が増えた」なら全教職員に3%の手当てをするのが筋ではないか。
人気パビリオン予約落選 ― 2025年04月13日

大阪・関西万博がついに開幕した。会場は大阪市此花区の人工島・夢洲(ゆめしま)。テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」であり、世界158か国・地域が参加。10月13日までの半年間にわたり、未来社会を体験できる一大イベントである。開幕初日、東ゲート前の広場ではテープカットセレモニーが行われ、日本国際博覧会協会(万博協会)の十倉雅和会長が「大阪・関西万博、ただいま開幕します」と高らかに宣言。博覧会国際事務局(BIE)のディミトリ・ケルケンツェス事務局長、伊東信久万博担当相、大阪府の吉村洋文知事、大阪市の横山英幸市長らも参加し、華やかに開幕を祝った。東ゲートには朝から多くの来場者が列をなし、「世界旅行気分で楽しみたい」「一生の思い出を作りに来た」などの声が飛び交った。午前9時の開門と同時に続々と人々が会場に足を踏み入れ、その様子は予想を超える盛り上がりであった。会場内は家族連れや観光客でにぎわい、晴れやかなスタートを切った。
しかし、開幕前には否定的な報道が目立っていたことも事実である。「チケットが売れていない」「パビリオンが間に合わない」「見るところがない」「メタンガスの危険性」「学校行事では使えない」「食事が高すぎる」「赤字は確実」など、あたかも万博が失敗するかのような論調が多かった。世論調査でも「行く予定がない」が半数を超えていた。だが、実際に始まってみると、会場は大混雑で入場すら困難で、人気パビリオンはほとんど予約が取れない状況が続いている。パビリオンは第5希望まで抽選予約が可能であるが、全て落選したという声は少なくない。筆者も5件すべて外れたひとりであり、現在は入場日を変更して7日前抽選に再チャレンジしているが、当選の気配はない。
「並ばない万博」と謳われていたが、現実は人気パビリオンには「入れない万博」である。当日抽選も存在するが、ディズニーやUSJを体験している者であれば、人気アトラクションは「ほとんど当選できない」という厳しさを知っている。あえて夜間や梅雨時、酷暑のタイミングを狙う方が、まだマシかもしれない。本日は雨天であるにもかかわらず、会場は大混雑しているという。まもなく、ブルーインパルスが会場上空を飛行する時間である。曇り空の中でも、この万博の熱気は確実に空まで届いているようだ。ジェット音は自宅まで届くだろうか。
しかし、開幕前には否定的な報道が目立っていたことも事実である。「チケットが売れていない」「パビリオンが間に合わない」「見るところがない」「メタンガスの危険性」「学校行事では使えない」「食事が高すぎる」「赤字は確実」など、あたかも万博が失敗するかのような論調が多かった。世論調査でも「行く予定がない」が半数を超えていた。だが、実際に始まってみると、会場は大混雑で入場すら困難で、人気パビリオンはほとんど予約が取れない状況が続いている。パビリオンは第5希望まで抽選予約が可能であるが、全て落選したという声は少なくない。筆者も5件すべて外れたひとりであり、現在は入場日を変更して7日前抽選に再チャレンジしているが、当選の気配はない。
「並ばない万博」と謳われていたが、現実は人気パビリオンには「入れない万博」である。当日抽選も存在するが、ディズニーやUSJを体験している者であれば、人気アトラクションは「ほとんど当選できない」という厳しさを知っている。あえて夜間や梅雨時、酷暑のタイミングを狙う方が、まだマシかもしれない。本日は雨天であるにもかかわらず、会場は大混雑しているという。まもなく、ブルーインパルスが会場上空を飛行する時間である。曇り空の中でも、この万博の熱気は確実に空まで届いているようだ。ジェット音は自宅まで届くだろうか。
Nスペ「国債発行チーム」 ― 2025年04月14日

『未完のバトン 第1回 密着 “国債発行チーム”』というNHKのドキュメンタリーは、財務省の「国債発行チーム」に密着し、国債発行の舞台裏を描いた作品である。日銀の金利引き上げや国債買入縮小をテーマに、国内外の投資家とのやり取りが描かれている。特に中東など海外市場へのアプローチが注目されるが、冒頭で政府が国民に借りた負債である国債残高を「国の借金」と表現した点に嫌な予感を抱いた。視聴を続けるうちに、その予感は怒りを超え、あきれ果てるに至った。
番組内では、日銀による国債購入縮小と連動して財務省が行う国債売りの「営業活動」が強調されている。これでは、視聴者が国債発行の実態を誤解する恐れがある。特に、日銀の保有率低下とそれに伴う海外投資家の登場が、まるで国債発行に対する不安を煽るかのように描かれており、印象操作にしか見えない。なお、特別会計による180兆円分の国債購入額を示して多額に見せているが、実際にはほとんどが借り換えであり、新規の資金調達を意味するものではない。確かに海外資本がある程度の国債を保有することはリスクヘッジとして一定の意味を持つが、多額になれば国債安定の信用低下のリスクも増す。日銀や民間銀行が積極的に国債を買い入れないという印象と、財務省の海外への「積極的な国債販売」との結び付けは、悪質な印象操作であると言わざるを得ない。
さらに、日銀が国債を買わないかのように見える描写も目立つ。中央銀行は市場の安定を図るために国債売買で市場の通貨量を調整することが金融政策の原則である。それにもかかわらず、日銀の国債買い入れと政府国債発行との連携が欠如しているかのように描くのは、制作者の悪意を感じざるを得ない。また、金融緩和政策がデフレ脱却に寄与した面に触れず、異次元の緩和が市場を歪めたという一面的な見解のみを取り上げるのも偏った印象を与える。これでは日銀の調整は不要で金利は市場に任せておけば良いという理屈になる。視聴者の中央銀行への知識不足を良いことに言いたい放題である。もっとも、デフレが長く続いたのはバブル崩壊以降の日銀の引き締めが長期化したことが一因であるため、必ずしも日銀政策が正しいわけではないが、金融緩和だけを切り取って批判するのはフェアではない。
結局のところ、NHKという公共放送機関が特定の視点に偏った報道を行っている現状は、ガバナンスの不備を露呈している。多角的な視点と正確な統計に基づく報道が求められる中、今回のドキュメンタリーはその点で多くの疑問を残すものであった。果たして、この放送は一体誰のために制作されたのか。国債残高は国民の富とも言えるのに、何も知らない一般視聴者にとっては、国債発行がただの「悪」として映ってしまう。責任は国民にはなく、30年もの間、国民負担を増やし可処分所得を減らした結果、消費も投資も増えずGDPを伸ばせなかった政府にある。
番組内では、日銀による国債購入縮小と連動して財務省が行う国債売りの「営業活動」が強調されている。これでは、視聴者が国債発行の実態を誤解する恐れがある。特に、日銀の保有率低下とそれに伴う海外投資家の登場が、まるで国債発行に対する不安を煽るかのように描かれており、印象操作にしか見えない。なお、特別会計による180兆円分の国債購入額を示して多額に見せているが、実際にはほとんどが借り換えであり、新規の資金調達を意味するものではない。確かに海外資本がある程度の国債を保有することはリスクヘッジとして一定の意味を持つが、多額になれば国債安定の信用低下のリスクも増す。日銀や民間銀行が積極的に国債を買い入れないという印象と、財務省の海外への「積極的な国債販売」との結び付けは、悪質な印象操作であると言わざるを得ない。
さらに、日銀が国債を買わないかのように見える描写も目立つ。中央銀行は市場の安定を図るために国債売買で市場の通貨量を調整することが金融政策の原則である。それにもかかわらず、日銀の国債買い入れと政府国債発行との連携が欠如しているかのように描くのは、制作者の悪意を感じざるを得ない。また、金融緩和政策がデフレ脱却に寄与した面に触れず、異次元の緩和が市場を歪めたという一面的な見解のみを取り上げるのも偏った印象を与える。これでは日銀の調整は不要で金利は市場に任せておけば良いという理屈になる。視聴者の中央銀行への知識不足を良いことに言いたい放題である。もっとも、デフレが長く続いたのはバブル崩壊以降の日銀の引き締めが長期化したことが一因であるため、必ずしも日銀政策が正しいわけではないが、金融緩和だけを切り取って批判するのはフェアではない。
結局のところ、NHKという公共放送機関が特定の視点に偏った報道を行っている現状は、ガバナンスの不備を露呈している。多角的な視点と正確な統計に基づく報道が求められる中、今回のドキュメンタリーはその点で多くの疑問を残すものであった。果たして、この放送は一体誰のために制作されたのか。国債残高は国民の富とも言えるのに、何も知らない一般視聴者にとっては、国債発行がただの「悪」として映ってしまう。責任は国民にはなく、30年もの間、国民負担を増やし可処分所得を減らした結果、消費も投資も増えずGDPを伸ばせなかった政府にある。
「月」やまゆり園事件 ― 2025年04月15日

石井裕也監督が宮沢りえを主演に迎え、辺見庸の同名小説を映画化した作品。物語は、元有名作家の堂島洋子が、森の奥深くにある重度障がい者施設で働き始めるところから展開していく。洋子は、作家志望の陽子や絵を描くのが好きな青年さとくん、そして身体が動かせない入所者きーちゃんと出会い、次第にきーちゃんに親身になっていく。一方で、施設内では職員による暴力やひどい扱いが見え隠れし、それに対して憤りを募らせるさとくんの正義感が、どんどん加速していく。洋子の夫・昌平をオダギリジョー、さとくんを磯村勇斗、陽子を二階堂ふみが演じており、キャストは豪華だ。
社会の理不尽さや人間関係の葛藤を描くヒューマンドラマ──と聞けば響きはいいけれど、正直なところ、この映画はかなり重たくて暗い。観る者に深い問いかけを投げかける、と評価されているが、観終わったあとに残るのは、疑問とモヤモヤだった。原作は、相模原障害者施設殺傷事件、いわゆる「やまゆり園事件」をモチーフにしている。さとくんは、犯人・植松聖をモデルにしたキャラクターだ。しかし、彼がなぜ優性思想に至ったのかという部分について、監督の石井裕也は「生産性のないものを排除する」という考え方は今の社会全体が帯びているものであり、個人としての植松を掘り下げることには意味がない、としている。
生命を肯定するというのは本能的な欲求に根ざしており、他者の生命も自己と同様に尊重されるべきものだし、それを前提に社会生活が成り立っている。人の命を奪うという行為は、平等性や秩序の維持といった社会の基本原則に反しており、「殺してはいけない」という命題は、功利主義的にも論理的に成立する。そして、映画の中で描かれる思想──社会価値のない存在は「心のない者」であり、自己表現ができない障害者は人間ではない、そんな存在を社会が支える必要はなく、むしろ強制排除すべきだという考え方──これはあまりにも幼稚で、議論の土台にも乗らない話だ。
もし監督が言うように「今の社会そのものが排除の論理を帯びている」のだとすれば、それに対してもっと強く、正面から跳ね返すようなメッセージが欲しかった。そうでなければ、単に不快な現実をなぞっただけの作品になってしまう。また、重症の入所者が排せつ物を部屋で塗りたくるような描写が、「施設の日常」として淡々と描かれているのも疑問だ。そもそも、閉じ込められているという社会的・人的な環境こそが問題なのに、それを問うこともなく、あたかも「これがリアル」だと言わんばかりに見せるのは、方向を誤っている。そしてなぜか、「誰もが年を取り、生産性を失っていく存在になる」という当たり前の視点が、すっぽり抜け落ちているのも不自然だ。率直に言えば、これは駄作というより、悪質な映画だと感じた。俳優陣の演技は力強かっただけに、そんな作品に出演させられた彼らがかわいそうだと思ってしまった。
社会の理不尽さや人間関係の葛藤を描くヒューマンドラマ──と聞けば響きはいいけれど、正直なところ、この映画はかなり重たくて暗い。観る者に深い問いかけを投げかける、と評価されているが、観終わったあとに残るのは、疑問とモヤモヤだった。原作は、相模原障害者施設殺傷事件、いわゆる「やまゆり園事件」をモチーフにしている。さとくんは、犯人・植松聖をモデルにしたキャラクターだ。しかし、彼がなぜ優性思想に至ったのかという部分について、監督の石井裕也は「生産性のないものを排除する」という考え方は今の社会全体が帯びているものであり、個人としての植松を掘り下げることには意味がない、としている。
生命を肯定するというのは本能的な欲求に根ざしており、他者の生命も自己と同様に尊重されるべきものだし、それを前提に社会生活が成り立っている。人の命を奪うという行為は、平等性や秩序の維持といった社会の基本原則に反しており、「殺してはいけない」という命題は、功利主義的にも論理的に成立する。そして、映画の中で描かれる思想──社会価値のない存在は「心のない者」であり、自己表現ができない障害者は人間ではない、そんな存在を社会が支える必要はなく、むしろ強制排除すべきだという考え方──これはあまりにも幼稚で、議論の土台にも乗らない話だ。
もし監督が言うように「今の社会そのものが排除の論理を帯びている」のだとすれば、それに対してもっと強く、正面から跳ね返すようなメッセージが欲しかった。そうでなければ、単に不快な現実をなぞっただけの作品になってしまう。また、重症の入所者が排せつ物を部屋で塗りたくるような描写が、「施設の日常」として淡々と描かれているのも疑問だ。そもそも、閉じ込められているという社会的・人的な環境こそが問題なのに、それを問うこともなく、あたかも「これがリアル」だと言わんばかりに見せるのは、方向を誤っている。そしてなぜか、「誰もが年を取り、生産性を失っていく存在になる」という当たり前の視点が、すっぽり抜け落ちているのも不自然だ。率直に言えば、これは駄作というより、悪質な映画だと感じた。俳優陣の演技は力強かっただけに、そんな作品に出演させられた彼らがかわいそうだと思ってしまった。
「万博幼児用」トイレ ― 2025年04月16日

国民生活を揺るがす物価高、止まらぬ景気後退——未曽有の国難に立ち向かうべきこのタイミングで、国会で飛び出したのはまさかの“トイレ論争”だった。問題提起をしたのは立憲民主党の石垣のり子参院議員。彼女が槍玉に挙げたのは、2025年関西万博会場に設置される「迷子/ベビーセンター」内の子供用トイレだ。関係者によると、このトイレには大便器が3つ、小便器が2つ設置されており、大便器の間には低めの仕切り。利用対象は0〜2歳の乳幼児で、保護者と共に使うことを前提とした設計。経済産業省も「スタッフが入口で監視することで無断利用を防ぎ、プライバシーは確保されている」という。だが、石垣氏は「一組ごとの利用が基本とはいえ、他の家族が同時に使える運用方針はおかしい」と異を唱え、設計ミスがあるなら速やかに見直すべきだと主張。ネット上では「そんなことに時間を使うな」「育児トイレを知らないのか」といった批判の声が相次いでいる。
というのも、このトイレ構造自体、日本中の保育施設で広く採用されている“お馴染み”のスタイル。保育園や商業施設で子供を育てた経験のある親なら、一度は目にしているはずだ。しかも、会場内には親子トイレも各所に設置済み。乳児トイレに親やスタッフが立ち入るのはむしろ常識で、それを問題視する感覚自体がズレているというのが大方の見方だ。さらに突っ込む声もある。「本当にトイレを問題視するなら、むしろ議論すべきは万博会場に設置されるジェンダーフリートイレでは?」。女性スペースへの男性の立ち入り可能性が指摘されているこの構造には、何故かノータッチの石垣議員。これには「批判のための批判」「野党の存在意義が“難癖”になっている」との指摘も。子供の安全とプライバシーの配慮は確かに重要。だが、野党議員としての貴重な質疑時間を“トイレの仕切り”に費やす姿に、国民が感じたのは“違和感”ではなかったか。
というのも、このトイレ構造自体、日本中の保育施設で広く採用されている“お馴染み”のスタイル。保育園や商業施設で子供を育てた経験のある親なら、一度は目にしているはずだ。しかも、会場内には親子トイレも各所に設置済み。乳児トイレに親やスタッフが立ち入るのはむしろ常識で、それを問題視する感覚自体がズレているというのが大方の見方だ。さらに突っ込む声もある。「本当にトイレを問題視するなら、むしろ議論すべきは万博会場に設置されるジェンダーフリートイレでは?」。女性スペースへの男性の立ち入り可能性が指摘されているこの構造には、何故かノータッチの石垣議員。これには「批判のための批判」「野党の存在意義が“難癖”になっている」との指摘も。子供の安全とプライバシーの配慮は確かに重要。だが、野党議員としての貴重な質疑時間を“トイレの仕切り”に費やす姿に、国民が感じたのは“違和感”ではなかったか。
小学校 それは小さな社会 ― 2025年04月17日

日本の公立小学校に通う1年生と6年生の学校生活を、春夏秋冬の四季を通して追ったドキュメンタリー映画。新入生が4月に挙手の仕方、廊下の歩き方、給食当番のやり方などを学ぶ姿が映し出される一方で、6年生はその補助役として行動しながら、自覚と責任を育んでいく。教師たちはコロナ禍の中、行事の実施を巡って悩み、議論を重ねる。そのすべてが丁寧に記録され、3学期には1年生が新入生のために音楽演奏に挑む場面までが描かれている。監督は、イギリス人の父と日本人の母を持つ山崎エマ氏。150日間、のべ4000時間にわたる長期取材を行い、「特活(TOKKATSU=特別活動)」を通じて、日本の子どもたちが協調性を身につけていく様子をカメラに収めた。フィンランドでは4カ月にわたるロングラン上映を記録するなど、海外でも大きな反響を呼んだ。
だが、なぜ今、日本の教育に国際的な注目が集まるのだろうか。おそらく礼儀や協調性の育成、裏返せば管理教育の弊害である没個性や同調圧力の構造への興味なのだろうか。個人的には、自分が教員をしていた時代から、教育現場が一歩も前に進んでいないという印象を受けた。印象的だったのは、合奏練習でシンバルが叩けなかった1年生の女子を、教師が全体の前で厳しく「指導」する場面。現代ではパワハラだと批判されてもおかしくない。誰よりも早く出勤し、教室の机を並べていた6年生担任には、ワーカホリックという言葉が投げかけられるかもしれない。縄跳びダンスがうまくできない子に、ペアの子が「ここが下手」と指摘する姿や、徒競走で3着だった子に「来年は1等賞が取れたらいいね」と励ます母親にも、「跳べなくてもいい」「3着でも十分」という声が上がるのだろう。そして、多くの人がこう言うはずだ――「先進国ではもっと個性が尊重されている」と。その延長線上で、「だから不登校が増え、教職が敬遠されるのだ」と、日本の教育の課題を説明しようとするかもしれない。
だが、子どもが映る映像というのは、どんなテーマであれ、その純真さゆえに無批判に受け入れられやすい。40年前に教壇に立っていた私にとっては、こうした学校の光景は当たり前のものだ。教師は子どもを鍛え、子どもはその期待に応えようと努力する。それのどこが悪いのかと、つい思ってしまう。もし教師が子どもに期待をかけず、「サボるのも個性」と許容し始めたら、学校は何を教える場所なのかと疑問にすらなる。日本人の心を持ちながら外国人の視点を理解する山崎エマ監督は、こうした問いを私たちに投げかけたかったのかもしれない。つまり、この作品の目的は確かに達成されたのだ。ただ、卒業式後の教員反省会で、6年生担任が「もういっぱいいっぱいで、ダメかと思った時もあった。でも皆の支えで乗り切れた」と涙ながらに語ったとき、私はふと、自分がかつてどれだけ教職の過酷さに無自覚だったかを振り返った。教育とは、そして学校とは何なのか――この映画はその本質を、静かに、しかし鋭く問いかけてくる。
だが、なぜ今、日本の教育に国際的な注目が集まるのだろうか。おそらく礼儀や協調性の育成、裏返せば管理教育の弊害である没個性や同調圧力の構造への興味なのだろうか。個人的には、自分が教員をしていた時代から、教育現場が一歩も前に進んでいないという印象を受けた。印象的だったのは、合奏練習でシンバルが叩けなかった1年生の女子を、教師が全体の前で厳しく「指導」する場面。現代ではパワハラだと批判されてもおかしくない。誰よりも早く出勤し、教室の机を並べていた6年生担任には、ワーカホリックという言葉が投げかけられるかもしれない。縄跳びダンスがうまくできない子に、ペアの子が「ここが下手」と指摘する姿や、徒競走で3着だった子に「来年は1等賞が取れたらいいね」と励ます母親にも、「跳べなくてもいい」「3着でも十分」という声が上がるのだろう。そして、多くの人がこう言うはずだ――「先進国ではもっと個性が尊重されている」と。その延長線上で、「だから不登校が増え、教職が敬遠されるのだ」と、日本の教育の課題を説明しようとするかもしれない。
だが、子どもが映る映像というのは、どんなテーマであれ、その純真さゆえに無批判に受け入れられやすい。40年前に教壇に立っていた私にとっては、こうした学校の光景は当たり前のものだ。教師は子どもを鍛え、子どもはその期待に応えようと努力する。それのどこが悪いのかと、つい思ってしまう。もし教師が子どもに期待をかけず、「サボるのも個性」と許容し始めたら、学校は何を教える場所なのかと疑問にすらなる。日本人の心を持ちながら外国人の視点を理解する山崎エマ監督は、こうした問いを私たちに投げかけたかったのかもしれない。つまり、この作品の目的は確かに達成されたのだ。ただ、卒業式後の教員反省会で、6年生担任が「もういっぱいいっぱいで、ダメかと思った時もあった。でも皆の支えで乗り切れた」と涙ながらに語ったとき、私はふと、自分がかつてどれだけ教職の過酷さに無自覚だったかを振り返った。教育とは、そして学校とは何なのか――この映画はその本質を、静かに、しかし鋭く問いかけてくる。
学テ中3理科CBT実施 ― 2025年04月18日

全国学力テストの中学3年理科で、初めてオンライン方式「CBT(Computer Based Testing)」が導入された。ネットワークの負荷を避けるため、4日間に分散して実施されたこの試みは、政府のGIGAスクール構想で児童生徒に1人1台の端末が配備されたことにより、ようやく可能となったものだ。文部科学省は国際的なCBT普及の流れを意識し、導入に向けて入念に準備を進めてきた。CBTの特徴は、紙のテストでは実現が難しかった出題形式を可能にする点にある。今回の理科テストでは、水道水を電熱線で加熱して蒸留する過程をアニメーションで示したり、ドライアイス中でのマグネシウム燃焼実験を動画で見せたうえで思考を促す設問が出された。国立教育政策研究所の八田和嗣・教育課程研究センター長は「燃焼時の色の変化など、紙の調査ではできなかった出題や解答が可能になった」と話す。
また、CBT化により「項目反応理論(IRT)」を活用できる点も大きい。IRTでは単なる正答数ではなく、正解した問題の難易度に基づいて学力スコアを算出できる。これにより、これまで困難だった「その誤答は児童の学力不足か、それとも問題の難易度のせいか」といった分析が可能になる。さらに、問題の一部を非公開にして継続的に使用すれば、学力の経年変化の分析も行える。CBT導入のメリットはそれだけではない。試験日の分散実施や場所を選ばない受験が可能になり、不登校や病気療養中の児童生徒にも対応しやすくなる。また、問題用紙の保管や解答用紙の回収といった事務負担が軽減され、教員の業務負担も軽くなる。
一方、最近では教育のDX化に対する批判的な見方も増えている。デジタル教材の普及による読解力や集中力の低下、情報検索の容易さが思考の浅さを招くといった懸念、対面交流の減少がコミュニケーション能力に影響するとの指摘がある。北欧やユネスコも教育DXに懐疑的な報告を出しており、スウェーデンでは学力低下や学習格差を背景に紙教材への回帰が進んでいる。ただし、PISAの成績低下の背景には、詰め込みから自由化への教育方針転換や移民の増加といった要素もあり、DX化をすべての原因とするのは無理がある。学力は学習時間に比例して育まれ、その成果は小1から中3までの9年間でようやく表れる。CBTは、学力把握や教材改善のための有効なツールであり、読み書きに困難を抱える子どもたちにとっては、眼鏡や補聴器に匹敵する支援となりうる。学力テストだけでなく、日々の授業の中でも積極的に活用していきたいものである。
また、CBT化により「項目反応理論(IRT)」を活用できる点も大きい。IRTでは単なる正答数ではなく、正解した問題の難易度に基づいて学力スコアを算出できる。これにより、これまで困難だった「その誤答は児童の学力不足か、それとも問題の難易度のせいか」といった分析が可能になる。さらに、問題の一部を非公開にして継続的に使用すれば、学力の経年変化の分析も行える。CBT導入のメリットはそれだけではない。試験日の分散実施や場所を選ばない受験が可能になり、不登校や病気療養中の児童生徒にも対応しやすくなる。また、問題用紙の保管や解答用紙の回収といった事務負担が軽減され、教員の業務負担も軽くなる。
一方、最近では教育のDX化に対する批判的な見方も増えている。デジタル教材の普及による読解力や集中力の低下、情報検索の容易さが思考の浅さを招くといった懸念、対面交流の減少がコミュニケーション能力に影響するとの指摘がある。北欧やユネスコも教育DXに懐疑的な報告を出しており、スウェーデンでは学力低下や学習格差を背景に紙教材への回帰が進んでいる。ただし、PISAの成績低下の背景には、詰め込みから自由化への教育方針転換や移民の増加といった要素もあり、DX化をすべての原因とするのは無理がある。学力は学習時間に比例して育まれ、その成果は小1から中3までの9年間でようやく表れる。CBTは、学力把握や教材改善のための有効なツールであり、読み書きに困難を抱える子どもたちにとっては、眼鏡や補聴器に匹敵する支援となりうる。学力テストだけでなく、日々の授業の中でも積極的に活用していきたいものである。
発達検査報告「簡素化」 ― 2025年04月19日

「新版K式発達検査」は、戦後、京都市児童院によって開発され、全国の福祉・医療機関などで広く用いられてきた発達度測定の手法である。この検査は、子どもの遊びの様子を通して発達年齢や発達指数を算出するだけでなく、数値にとらわれず子どもの全体的な様子を丁寧に観察し、支援に活かすという理念を持つ点に特徴がある。現在では、京都市児童福祉センターがその役割を引き継ぎ、療育施設の通所判定や療育手帳の交付要否の判断材料としても活用されている。2021年度からは報告書の簡素化が進められ、これにより検査待機期間の短縮には一定の効果が見られた。一方で、以前の報告書には子どもの具体的な反応や有効な支援方法が詳細に記載されていたのに対し、簡素化後は箇条書き程度の記述にとどまることが多く、保護者の不満の声も上がっている。背景には、心理職の負担軽減という目的があるものの、「これでは子どもの理解が深まらない」といった批判も出ており、理念と実務のバランスを取る工夫が求められている。
一見すると、検査のできる心理士を増やせば解決するようにも思えるが、この問題はそれほど単純ではない。報道の多くが現場の一側面だけを取り上げており、K式検査の実際の限界については十分に言及されていない。K式検査は、乳児期の発達を細かく把握できる利点がある一方で、4歳を超える幼児期以降の発達特性を把握するには不向きな側面がある。「数値にとらわれない」とされる一方で、K式における数値は「運動」「認知・適応」「言語・社会」の3領域にしか分かれておらず、それらのスコアから個別の発達特性を導き出すのは難しい。つまり、これらの数値はあくまで一般的な発達水準と比較しての相対的位置を示すにすぎない。子どもの知的発達の特性を把握し、就学までにどのような支援が必要かを判断するためには、他にもより適切な検査手法が存在する。現状では、科学的な根拠に基づくというよりも、心理職の経験則をもとにK式の結果が解釈されている例も少なくない。
K式検査は、もともと昭和期に乳幼児に適した発達検査が乏しかった時代において、京都を中心に心理職・教育職を通じて広まり、当時は重宝された。しかし、検査構造自体は半世紀以上にわたり大きな改訂がなされておらず、今日的な認知発達モデルに即したものではない。ベテラン心理士の中には、「数値にこだわらず、課題への取り組み方そのものに注目すべきだ」とする立場もあるが、そのような高い観察力と判断力を身につけるまでに至るには、長い年月と経験を要する。近年開発されている発達検査では、各項目間のプロフィールを数量的に可視化し、より精密な判断が可能となっている。つまり、現代の主流はむしろ「数値を重視する検査」であり、それによってビギナーの心理士でも一定水準の判断を行うことが可能になっている。レアケースには熟練者の介入が必要であるものの、一般的なケースについては、数量的なプロフィールに基づいた支援策がマニュアル化されており、実践しやすい。心理職の現場が少人数であることもあり、こうした旧来の手法から抜け出せずにいる現状もある。確かに、検査可能な心理士の増員は急務であるが、そもそも、時間と手腕を要する古い検査手法をいつまでも使い続けていること自体が、見直されるべき時期である。
一見すると、検査のできる心理士を増やせば解決するようにも思えるが、この問題はそれほど単純ではない。報道の多くが現場の一側面だけを取り上げており、K式検査の実際の限界については十分に言及されていない。K式検査は、乳児期の発達を細かく把握できる利点がある一方で、4歳を超える幼児期以降の発達特性を把握するには不向きな側面がある。「数値にとらわれない」とされる一方で、K式における数値は「運動」「認知・適応」「言語・社会」の3領域にしか分かれておらず、それらのスコアから個別の発達特性を導き出すのは難しい。つまり、これらの数値はあくまで一般的な発達水準と比較しての相対的位置を示すにすぎない。子どもの知的発達の特性を把握し、就学までにどのような支援が必要かを判断するためには、他にもより適切な検査手法が存在する。現状では、科学的な根拠に基づくというよりも、心理職の経験則をもとにK式の結果が解釈されている例も少なくない。
K式検査は、もともと昭和期に乳幼児に適した発達検査が乏しかった時代において、京都を中心に心理職・教育職を通じて広まり、当時は重宝された。しかし、検査構造自体は半世紀以上にわたり大きな改訂がなされておらず、今日的な認知発達モデルに即したものではない。ベテラン心理士の中には、「数値にこだわらず、課題への取り組み方そのものに注目すべきだ」とする立場もあるが、そのような高い観察力と判断力を身につけるまでに至るには、長い年月と経験を要する。近年開発されている発達検査では、各項目間のプロフィールを数量的に可視化し、より精密な判断が可能となっている。つまり、現代の主流はむしろ「数値を重視する検査」であり、それによってビギナーの心理士でも一定水準の判断を行うことが可能になっている。レアケースには熟練者の介入が必要であるものの、一般的なケースについては、数量的なプロフィールに基づいた支援策がマニュアル化されており、実践しやすい。心理職の現場が少人数であることもあり、こうした旧来の手法から抜け出せずにいる現状もある。確かに、検査可能な心理士の増員は急務であるが、そもそも、時間と手腕を要する古い検査手法をいつまでも使い続けていること自体が、見直されるべき時期である。
パーキンソン病iPS細胞治療 ― 2025年04月20日

パーキンソン病は、脳内のドーパミン神経細胞が減少することで運動障害を引き起こす難病であり、根本的な治療法は存在しない。京都大学は、健康なドナー由来のiPS細胞から作製したドーパミン神経前駆細胞を、患者の脳内に移植する臨床試験(治験)を実施した。対象は50~69歳の患者7名で、1人あたり500万~1000万個の細胞を被殻に移植した。主要評価項目は安全性であり、24カ月間の観察期間中、重篤な副作用や腫瘍化、異常増殖は認められなかった。移植後は1年間免疫抑制剤を使用し、その後も大きな拒絶反応は確認されていない。運動症状の評価では、6名中4名に改善が見られ、PET検査でもドーパミン神経の活動増加が確認された。特に若年で重症度の低い患者において、効果が高い傾向が示されている。今後は、細胞製造企業が厚生労働省への承認申請を予定している。他人由来の細胞を使用するため、免疫抑制剤の継続使用が課題ではあるものの、安全性と有効性が確認され、新たな治療選択肢となる可能性がある。この治療は、失われた神経細胞を補う再生医療の最前線を示すものである。
脳内移植治療が現実となった今、「神経伝達物質が不足しているなら健康な脳細胞を移植すればよい。他人の脳細胞を移植するのが困難なら、他人の健康な細胞から脳細胞を培養すればよい」という理屈通りの治療が実現した。今後、脳細胞の障害部位が特定されれば、他の疾患への応用も可能になるかもしれない。今回は、運動障害とドーパミン不足の関連が明確なパーキンソン病が対象であったが、同じくドーパミン関連とされる統合失調症、ADHD、うつ病、強迫性障害などへの応用も期待される。さらには、薬物やギャンブル依存もドーパミンが関与していると言われこうした社会的問題に対しても、効果があれば、当事者やその家族を救う手段となるだろう。
ただし、運動障害と行動障害では根本的な性質が異なる。行動は人格と不可分な側面があり、人格を人為的に変容させてよいのかという倫理的問題が生じる。仮に治療が可能であったとしても、誰がその適応を判断するのかといった点で大きな議論を呼ぶことになるだろう。脳内移植による再生医療は、今後どこまで認められていくのだろうか。脳も臓器の一部である以上、再生が可能と認めてよいのか。あるいは、生まれつきの性質まで変えることを再生と言えるのか。考え出すと堂々巡りになる。とはいえ、まずはパーキンソン病など運動障害に対する治療の成功を心から祝福したい。
脳内移植治療が現実となった今、「神経伝達物質が不足しているなら健康な脳細胞を移植すればよい。他人の脳細胞を移植するのが困難なら、他人の健康な細胞から脳細胞を培養すればよい」という理屈通りの治療が実現した。今後、脳細胞の障害部位が特定されれば、他の疾患への応用も可能になるかもしれない。今回は、運動障害とドーパミン不足の関連が明確なパーキンソン病が対象であったが、同じくドーパミン関連とされる統合失調症、ADHD、うつ病、強迫性障害などへの応用も期待される。さらには、薬物やギャンブル依存もドーパミンが関与していると言われこうした社会的問題に対しても、効果があれば、当事者やその家族を救う手段となるだろう。
ただし、運動障害と行動障害では根本的な性質が異なる。行動は人格と不可分な側面があり、人格を人為的に変容させてよいのかという倫理的問題が生じる。仮に治療が可能であったとしても、誰がその適応を判断するのかといった点で大きな議論を呼ぶことになるだろう。脳内移植による再生医療は、今後どこまで認められていくのだろうか。脳も臓器の一部である以上、再生が可能と認めてよいのか。あるいは、生まれつきの性質まで変えることを再生と言えるのか。考え出すと堂々巡りになる。とはいえ、まずはパーキンソン病など運動障害に対する治療の成功を心から祝福したい。