移民子息の義務教育問題 ― 2025年10月03日
先日のニュースが伝えた数字に、胸がざわついた。記事によれば、令和6年の文科省調査で、義務教育年齢の外国籍の子どもたちのうち1097人が学校に通っていないと判明したという。さらに連絡が取れず就学状況が確認できない子どもが7322人、学齢簿に記載がなく教育委員会の把握対象外だった子が13人。合計すると8432人が「不就学の可能性あり」と分類されている――その冷たい合計の背後には、確かに生きた子どもたちの顔があるのだ。
数字だけ見ると遠い話のようだが、想像してみてほしい。朝の校門、黄ばんだランドセルの列に混じらない一人。放課後の公園で、言葉が通じず輪に入れない子。親は働き詰めで、日本語の手続きや学校との連絡が後回しになっているかもしれない。義務教育の網の目からこぼれ落ちたその瞬間が、長い孤立の始まりになる。
この状況は「教育行政の不手際」だけでは説明しきれない。外国籍の子どもには現行の日本法上、就学義務がない。教育支援は自治体任せで、制度としての保障が弱い。その空白を埋めているのは、多くの場合、現場の教師や保護者、地域のボランティアの善意だ。だが善意は持続可能な制度ではない。支えが届かない子は、言葉や学びの機会を失い、社会から取り残されていく。
すでに日本には約300万人の外国人が暮らし、都市部では外国人の比率が高い地域もある。にもかかわらず「日本は移民国家ではない」という立場が政策の根底にあり、受け入れの枠組みや責任の所在はぼやけたままだ。結果として、外国人子弟の教育は制度に組み込まれず、場当たり的な対応が常態化している。
海外の例を参照すれば遅れは明白だ。ドイツやフランスでは、国籍にかかわらず就学が義務づけられ、言語支援や多文化教育が制度化されている。移民が一定比率に達した段階で、教育・福祉・労働の仕組みを整備してきた。OECDや国連が指摘するように、日本は対応が数十年遅れていると言わざるを得ない。
予測では2035年ごろに外国人比率が5%を超えるという。今、この「教室の空席」が放置されれば、やがて成人する子どもたちの就労や暮らしに深刻な影響が出るだろう。非正規雇用に追いやられ、生活困窮に陥り、社会的孤立を深める。治安も当然悪くなる。そうした個々の不幸が積み重なれば、地域社会の絆も損なわれる。
では、どう手を打つか。まず必要なのは理念だけで終わらない実務的な制度設計だ。就学義務の法制化、日本語教育と母語支援の仕組み、教育委員会と住民台帳の情報連携、多文化教育の全国的な導入——これらはどれも「やったらいいね」で済む話ではない。受け入れ数を管理する枠組み(移民基本法に相当するもの)と、教育権を実務的に保障する立法が同時に進まなければ、責任の所在は曖昧なままだ。
いくつかの党が示すような理念先行の「多文化共生法」は、かえって国論を二分しかねない。また、近隣の外国人問題を契機にした感情的な移民拒否も問題の解決にはならない。もちろん、違法外国人問題は速やかに解決するのが行政の責任だ。しかし、移民政策も法制度もない中では根本問題は解決はしない。まずは誰が何をするのかが明確になる実務法から着手すべきだ。教育は、社会統合の出発点である。教室で交わされた挨拶や隣り合って覚えた言葉が、人と人を結び、将来の仕事や地域活動へとつながる。教室の椅子に座れない子が一人でもいることが、日本全体の持続力を削いでいるのだと肝に銘じたい。
国と地方は「見えない子ども」を見えるようにする責任を問われている。制度を整えるのは面倒で、時に政治的に難しい作業だ。しかし、その先にあるのは、誰も取り残さない社会だ。子どもたちが教室で笑い、学ぶ日常を取り戻すことこそ、私たちの未来への最良の投資である。
数字だけ見ると遠い話のようだが、想像してみてほしい。朝の校門、黄ばんだランドセルの列に混じらない一人。放課後の公園で、言葉が通じず輪に入れない子。親は働き詰めで、日本語の手続きや学校との連絡が後回しになっているかもしれない。義務教育の網の目からこぼれ落ちたその瞬間が、長い孤立の始まりになる。
この状況は「教育行政の不手際」だけでは説明しきれない。外国籍の子どもには現行の日本法上、就学義務がない。教育支援は自治体任せで、制度としての保障が弱い。その空白を埋めているのは、多くの場合、現場の教師や保護者、地域のボランティアの善意だ。だが善意は持続可能な制度ではない。支えが届かない子は、言葉や学びの機会を失い、社会から取り残されていく。
すでに日本には約300万人の外国人が暮らし、都市部では外国人の比率が高い地域もある。にもかかわらず「日本は移民国家ではない」という立場が政策の根底にあり、受け入れの枠組みや責任の所在はぼやけたままだ。結果として、外国人子弟の教育は制度に組み込まれず、場当たり的な対応が常態化している。
海外の例を参照すれば遅れは明白だ。ドイツやフランスでは、国籍にかかわらず就学が義務づけられ、言語支援や多文化教育が制度化されている。移民が一定比率に達した段階で、教育・福祉・労働の仕組みを整備してきた。OECDや国連が指摘するように、日本は対応が数十年遅れていると言わざるを得ない。
予測では2035年ごろに外国人比率が5%を超えるという。今、この「教室の空席」が放置されれば、やがて成人する子どもたちの就労や暮らしに深刻な影響が出るだろう。非正規雇用に追いやられ、生活困窮に陥り、社会的孤立を深める。治安も当然悪くなる。そうした個々の不幸が積み重なれば、地域社会の絆も損なわれる。
では、どう手を打つか。まず必要なのは理念だけで終わらない実務的な制度設計だ。就学義務の法制化、日本語教育と母語支援の仕組み、教育委員会と住民台帳の情報連携、多文化教育の全国的な導入——これらはどれも「やったらいいね」で済む話ではない。受け入れ数を管理する枠組み(移民基本法に相当するもの)と、教育権を実務的に保障する立法が同時に進まなければ、責任の所在は曖昧なままだ。
いくつかの党が示すような理念先行の「多文化共生法」は、かえって国論を二分しかねない。また、近隣の外国人問題を契機にした感情的な移民拒否も問題の解決にはならない。もちろん、違法外国人問題は速やかに解決するのが行政の責任だ。しかし、移民政策も法制度もない中では根本問題は解決はしない。まずは誰が何をするのかが明確になる実務法から着手すべきだ。教育は、社会統合の出発点である。教室で交わされた挨拶や隣り合って覚えた言葉が、人と人を結び、将来の仕事や地域活動へとつながる。教室の椅子に座れない子が一人でもいることが、日本全体の持続力を削いでいるのだと肝に銘じたい。
国と地方は「見えない子ども」を見えるようにする責任を問われている。制度を整えるのは面倒で、時に政治的に難しい作業だ。しかし、その先にあるのは、誰も取り残さない社会だ。子どもたちが教室で笑い、学ぶ日常を取り戻すことこそ、私たちの未来への最良の投資である。