自動運転制度の壁 ― 2025年11月03日
先月、日産自動車が横浜市で披露した実証走行は、まぎれもなく日本のモビリティ史に刻まれる出来事だった。運転席には人が座っているが、ハンドルは握らない。車はAIの判断で走り、信号を認識し、歩行者を避け、交差点を滑らかに抜けていく。そう、これは“運転席が無人”ではなく、“運転していない人間が座っている”実証──つまり、制度上の「完全自動運転の限界」を体現した瞬間だった。
日産の車両は、高精度地図とセンサー群、そしてAIによる行動予測を備えたハイレベルな自動運転車だ。遠隔監視体制も整い、実際の制御は全てAIが担っている。技術的にはレベル4に限りなく近い完成度で、走行中の安全性は人間ドライバーを上回る。米国のWaymoやTeslaでは、すでに有人運転より事故率が80〜90%低いという統計もある。ただ、アメリカの死亡事故率は日本の6倍なのでそのまま減少比率が反映するわけでは無いが、技術的な“できる”は、とっくに証明済みだということだ。
それでも、運転席には「保安要員」が座らされる。その姿は、日本の制度がまだ“人の存在”を手放せないことの象徴である。現行法では、万が一の際の責任主体を明確にするため、運転席に人を配置する必要がある。ゼロリスクを前提に設計された法制度が、「技術を信じる社会」へ移行することを拒んでいるのだ。結果として、省人化・効率化・高齢者の移動支援といった自動運転の社会的価値が、制度によって封じ込められている。
この構造を打破できるのは、技術者や官僚ではなく政治家である。道路交通法や自賠法の改正、運行責任の再定義、特定自動運行区域の全国展開──どれも行政裁量では限界がある。首長や大臣が「制度の正統性を更新する意思」を示さない限り、どれほど高性能な車を作っても、“人が座る無人運転”という矛盾が続く。鉄道でも同じだ。自動運転が可能な路線で運転士が座り続けるのは、国民の「安心感」を優先する制度の惰性ゆえである。だが、自家用車やタクシーなど個別輸送の領域までこの構造を持ち込むのは非合理だ。交通手段ごとに制度を分け、技術に応じたルール設計を行うべき時期に来ている。
日産の挑戦は、制度と技術の摩擦面を可視化した。次に必要なのは、走行データを公開し、政治がそれを“制度の根拠”として受け止める覚悟だ。無人運転の未来を止めているのは、技術の壁ではない。それは、ハンドルを握らない人間を“座らせておきたい”という、この国の制度的恐怖心そのものである。
日産の車両は、高精度地図とセンサー群、そしてAIによる行動予測を備えたハイレベルな自動運転車だ。遠隔監視体制も整い、実際の制御は全てAIが担っている。技術的にはレベル4に限りなく近い完成度で、走行中の安全性は人間ドライバーを上回る。米国のWaymoやTeslaでは、すでに有人運転より事故率が80〜90%低いという統計もある。ただ、アメリカの死亡事故率は日本の6倍なのでそのまま減少比率が反映するわけでは無いが、技術的な“できる”は、とっくに証明済みだということだ。
それでも、運転席には「保安要員」が座らされる。その姿は、日本の制度がまだ“人の存在”を手放せないことの象徴である。現行法では、万が一の際の責任主体を明確にするため、運転席に人を配置する必要がある。ゼロリスクを前提に設計された法制度が、「技術を信じる社会」へ移行することを拒んでいるのだ。結果として、省人化・効率化・高齢者の移動支援といった自動運転の社会的価値が、制度によって封じ込められている。
この構造を打破できるのは、技術者や官僚ではなく政治家である。道路交通法や自賠法の改正、運行責任の再定義、特定自動運行区域の全国展開──どれも行政裁量では限界がある。首長や大臣が「制度の正統性を更新する意思」を示さない限り、どれほど高性能な車を作っても、“人が座る無人運転”という矛盾が続く。鉄道でも同じだ。自動運転が可能な路線で運転士が座り続けるのは、国民の「安心感」を優先する制度の惰性ゆえである。だが、自家用車やタクシーなど個別輸送の領域までこの構造を持ち込むのは非合理だ。交通手段ごとに制度を分け、技術に応じたルール設計を行うべき時期に来ている。
日産の挑戦は、制度と技術の摩擦面を可視化した。次に必要なのは、走行データを公開し、政治がそれを“制度の根拠”として受け止める覚悟だ。無人運転の未来を止めているのは、技術の壁ではない。それは、ハンドルを握らない人間を“座らせておきたい”という、この国の制度的恐怖心そのものである。