TOKYOタクシー ― 2025年12月01日
『パリタクシー』(2023)のリメイク『TOKYOタクシー』(2025)は、同じ“老婦人とタクシー運転手の旅”でありながら、作品の思想も重力もまったく異った。観客は山田監督でキムタク主演とあり久々の満席の盛況ぶりだった。原作が冒頭から運転手を“都市システムの末端”として描き、制度の冷たさと個人の孤独に光を当てたのに対し、日本版の冒頭は木村拓哉と明石家さんまの“前口上”で、映画の気圧がいきなり下がる。視聴者は最初の3分で、作品が向いている方向を悟ってしまう。
フランス版の老婦人は、DVや息子の死という個的悲劇の裏に、ベトナム戦争、女性解放運動、社会が見捨ててきた弱者の歴史が折り重なる。個人の人生が時代の裂け目に飲み込まれていく、欧州映画特有のリベラルな視線が骨格にある。しかし日本版は、この“政治性”を見事に去勢した。DVは薄まり、女性が背負った制度的暴力は空気のように蒸発し、息子の死は“良い話の燃料”として再加工される。原作が描いた「歴史に翻弄される個人」は、日本版では「優しいおばあちゃん」へと丸められ、社会の影は徹底的に脱臭される。
フランス版では、老婦人がかつて恋人だったアメリカ兵が帰国後に別の女性と結婚していたことを知る設定になっている。これに対し日本版では、その背景をわざわざ「北朝鮮帰還事業」に置き換えている。息子の容姿をハーフとして描くことを避けたかったのかどうかは不明であり、結局はバイク遊びであっけなく落命する展開に終わるため、演出意図は見えにくい。結果として、フランスにとっては救世主であるアメリカ軍を恋の相手に据えたのに対し、日本版では「同胞と東京を奪ったアメリカ兵を恋人にはしたくない」という回避の姿勢と、混迷を極める北朝鮮問題にまつわる妙な政治的配慮を意識させてしまう。全体として政治色を薄めただけに、ここだけがかえって強い違和感を残した。
さらに、匿名のまま別れた原作に対し、日本版は序盤からフルネームを提示し、普遍性を捨てて“個別の美談”に舵を切る。原作は普遍性。日本版は個別の救済劇。この一点だけでも、両者の思想は別ジャンルと言っていい。リアリズムも弱い。フランス版は遺産2,000万や運転手の生活苦といった生活の肌触りを正確に描いた。日本版も東京での運転手の生活苦を描きはするものの、1億円の遺産や「私学初年度100万円」なるフィクションを軽々出す。東京都では授業料・入学金は補助でほぼゼロ、実負担は50万円前後という現実とズレすぎていて、数字が出た瞬間、物語がファンタジー化する。人情を盛る前に“制度の下調べ”をしてほしい。
そしてキャスティング。木村拓哉、倍賞千恵子に加え、“電話の声”として明石家さんまと大竹しのぶ。ここまで揃うと、観客はどうしても映画の人物より、芸能界の人間関係図を思い浮かべてしまう。山田組の常連配置に加え、“元夫婦”という舞台裏を連想させる演出は、物語よりも制作側の事情が透けて見える。フランス版が国民的スターを使いながらも世界観を壊さなかったのとは対照的だ。
総じて『TOKYOタクシー』は、原作が投げかけた「制度と歴史の重圧」という骨太なテーマを潔く手放し、東京的人情にすべてを寄せた作品だ。リベラルな背景は去勢され、匿名性の普遍性は削ぎ落とされ、制度批判も現実感も捨て置かれた。結果として残ったのは、“リメイク”ではなく“原作の影を借りた別ジャンルの良い話”である。
もちろん、東京とパリでは文化も作法も違う。だが、それを差し引いても、原作に対しては少々申し訳が立たない。温かい話ではある。だが、深みに手が届くほどの熱さは、スクリーンに宿っていなかった。
フランス版の老婦人は、DVや息子の死という個的悲劇の裏に、ベトナム戦争、女性解放運動、社会が見捨ててきた弱者の歴史が折り重なる。個人の人生が時代の裂け目に飲み込まれていく、欧州映画特有のリベラルな視線が骨格にある。しかし日本版は、この“政治性”を見事に去勢した。DVは薄まり、女性が背負った制度的暴力は空気のように蒸発し、息子の死は“良い話の燃料”として再加工される。原作が描いた「歴史に翻弄される個人」は、日本版では「優しいおばあちゃん」へと丸められ、社会の影は徹底的に脱臭される。
フランス版では、老婦人がかつて恋人だったアメリカ兵が帰国後に別の女性と結婚していたことを知る設定になっている。これに対し日本版では、その背景をわざわざ「北朝鮮帰還事業」に置き換えている。息子の容姿をハーフとして描くことを避けたかったのかどうかは不明であり、結局はバイク遊びであっけなく落命する展開に終わるため、演出意図は見えにくい。結果として、フランスにとっては救世主であるアメリカ軍を恋の相手に据えたのに対し、日本版では「同胞と東京を奪ったアメリカ兵を恋人にはしたくない」という回避の姿勢と、混迷を極める北朝鮮問題にまつわる妙な政治的配慮を意識させてしまう。全体として政治色を薄めただけに、ここだけがかえって強い違和感を残した。
さらに、匿名のまま別れた原作に対し、日本版は序盤からフルネームを提示し、普遍性を捨てて“個別の美談”に舵を切る。原作は普遍性。日本版は個別の救済劇。この一点だけでも、両者の思想は別ジャンルと言っていい。リアリズムも弱い。フランス版は遺産2,000万や運転手の生活苦といった生活の肌触りを正確に描いた。日本版も東京での運転手の生活苦を描きはするものの、1億円の遺産や「私学初年度100万円」なるフィクションを軽々出す。東京都では授業料・入学金は補助でほぼゼロ、実負担は50万円前後という現実とズレすぎていて、数字が出た瞬間、物語がファンタジー化する。人情を盛る前に“制度の下調べ”をしてほしい。
そしてキャスティング。木村拓哉、倍賞千恵子に加え、“電話の声”として明石家さんまと大竹しのぶ。ここまで揃うと、観客はどうしても映画の人物より、芸能界の人間関係図を思い浮かべてしまう。山田組の常連配置に加え、“元夫婦”という舞台裏を連想させる演出は、物語よりも制作側の事情が透けて見える。フランス版が国民的スターを使いながらも世界観を壊さなかったのとは対照的だ。
総じて『TOKYOタクシー』は、原作が投げかけた「制度と歴史の重圧」という骨太なテーマを潔く手放し、東京的人情にすべてを寄せた作品だ。リベラルな背景は去勢され、匿名性の普遍性は削ぎ落とされ、制度批判も現実感も捨て置かれた。結果として残ったのは、“リメイク”ではなく“原作の影を借りた別ジャンルの良い話”である。
もちろん、東京とパリでは文化も作法も違う。だが、それを差し引いても、原作に対しては少々申し訳が立たない。温かい話ではある。だが、深みに手が届くほどの熱さは、スクリーンに宿っていなかった。
ウナギ交渉の行方 ― 2025年12月02日
ニホンウナギをめぐる国際交渉で、日本は“逃げ切った”ように見える。だが、この勝利は賞味期限が短い。ウズベキスタン・サマルカンドで開かれたワシントン条約第20回締約国会議(CoP20)で、EUとパナマが推したウナギ属全種の規制案は否決。日本、韓国、中国、米国が反対に回り、票決では押し切った形だ。しかし、会議場の空気は明らかに逆風だった。「今回は引くが、3年後の次回は譲らない」。各国の代表から漏れた言葉は、そのまま国際社会の総意に近い。理由は単純だ。資源が減っており、しかも減り続けている。
ニホンウナギはマリアナ諸島西方で産卵し、黒潮に乗って日本へ回遊する“海の旅人”だ。だが近年は黒潮の大蛇行が長期化し、海水温も上昇。稚魚(シラスウナギ)の来遊量は、豊漁と不漁が乱高下する“ジェットコースター状態”に陥っている。統計上の“豊漁年”がまれに現れても、それは資源回復ではなく、単なる揺らぎである。
そして、日本にとって最も厄介なのが、中国・台湾の漁獲報告の不透明さだ。国際調査では、報告量と市場に出回る数量が著しく乖離し、「捕れていないはずの稚魚」が大量に流通している事例が確認されている。高値で取引される稚魚は、密漁・横流し・無報告のインセンティブが消えない。結果、合法性の証明ができないシラスウナギがアジアの闇ルートを経て市場に流れ込み、日本は“透明性の低い供給網”に組み込まれたままだ。これこそが、国際社会が日本に規制強化を迫る最大の論拠である。
資源悪化の原因は、環境変動、河川改修、沿岸乱獲──複数の要因が積み重なった複合災害だ。“そのうち自然が回復する”という楽観論は、すでに科学的にはほぼ否定されている。必要なのは、逃げ続けてきた資源管理体制そのものの刷新である。そして、その唯一の突破口となり得るのが完全養殖だ。
2010年の世界初成功以来、技術は急速に進歩し、民間企業も本格参入。現在は2028年までに商業化を狙い、大量生産とコストダウンが進む。初期価格は1尾1000〜1500円。味も従来の養殖と遜色ないという。だが、完全養殖はまだ“夢の量産技術”ではない。孵化から稚魚期までの歩留まり、生産ラインの自動化、餌のコスト──課題は山積だ。特にシラスサイズへの到達率は、技術的な壁として依然高く、量産化への最大のネックになっている。
それでも、国際交渉の場で効力を持つのは、「代替手段を確保している国」だという厳然たる現実がある。完全養殖の商業化が近い国と、いつまでも天然稚魚に依存する国では、交渉の“発言権の重さ”がまるで違う。
CoP20の否決は、日本にとって勝利ではない。むしろ、次の大会へ向けた最後の猶予だ。このタイムリミットを使い切れなければ、次に突きつけられるのは「規制強化不可避」という冷徹な判決である。そして、その審判台に立たされるのは──ウナギではなく、日本の覚悟そのものだ。
ニホンウナギはマリアナ諸島西方で産卵し、黒潮に乗って日本へ回遊する“海の旅人”だ。だが近年は黒潮の大蛇行が長期化し、海水温も上昇。稚魚(シラスウナギ)の来遊量は、豊漁と不漁が乱高下する“ジェットコースター状態”に陥っている。統計上の“豊漁年”がまれに現れても、それは資源回復ではなく、単なる揺らぎである。
そして、日本にとって最も厄介なのが、中国・台湾の漁獲報告の不透明さだ。国際調査では、報告量と市場に出回る数量が著しく乖離し、「捕れていないはずの稚魚」が大量に流通している事例が確認されている。高値で取引される稚魚は、密漁・横流し・無報告のインセンティブが消えない。結果、合法性の証明ができないシラスウナギがアジアの闇ルートを経て市場に流れ込み、日本は“透明性の低い供給網”に組み込まれたままだ。これこそが、国際社会が日本に規制強化を迫る最大の論拠である。
資源悪化の原因は、環境変動、河川改修、沿岸乱獲──複数の要因が積み重なった複合災害だ。“そのうち自然が回復する”という楽観論は、すでに科学的にはほぼ否定されている。必要なのは、逃げ続けてきた資源管理体制そのものの刷新である。そして、その唯一の突破口となり得るのが完全養殖だ。
2010年の世界初成功以来、技術は急速に進歩し、民間企業も本格参入。現在は2028年までに商業化を狙い、大量生産とコストダウンが進む。初期価格は1尾1000〜1500円。味も従来の養殖と遜色ないという。だが、完全養殖はまだ“夢の量産技術”ではない。孵化から稚魚期までの歩留まり、生産ラインの自動化、餌のコスト──課題は山積だ。特にシラスサイズへの到達率は、技術的な壁として依然高く、量産化への最大のネックになっている。
それでも、国際交渉の場で効力を持つのは、「代替手段を確保している国」だという厳然たる現実がある。完全養殖の商業化が近い国と、いつまでも天然稚魚に依存する国では、交渉の“発言権の重さ”がまるで違う。
CoP20の否決は、日本にとって勝利ではない。むしろ、次の大会へ向けた最後の猶予だ。このタイムリミットを使い切れなければ、次に突きつけられるのは「規制強化不可避」という冷徹な判決である。そして、その審判台に立たされるのは──ウナギではなく、日本の覚悟そのものだ。
特別支援校生を進学率から除外 ― 2025年12月03日
文部科学省が大学進学率を算出する際、「18歳人口」から特別支援学校高等部卒業者を除外してきた問題で、松本洋平文科相は「必ずしも適切ではなかった」と謝罪した。産経新聞は見直し方針を報じたが、焦点となるのはもっと地味で深刻な“行政の惰性”である。事実を整理するとこうだ。2007年の学校教育法と同施行規則改正で、特別支援学校高等部修了者は大学入学資格が明確化された。それ以前は資格が明確化されておらず、統計上「18歳人口」に含めない運用は制度的には筋が通っていた。しかし改正後も、文科省は従来の算出方法を放置。特支卒業者を統計から外したまま、十数年にわたり大学進学率を公表してきたのである。ここにこそ、問題の核心がある。
本来なら制度改正に応じて統計手法を更新するのが行政の責務だ。だが文科省は「就学猶予で年齢と学年が一致しない可能性」を理由に挙げた。通常校でも留年は存在するし、就学猶予を受ける特支生徒はごく少数。言い換えれば、言い訳としてはほぼ意味をなさない。数字の正確性より慣習を優先する、典型的な“お役所言い訳”だ。ただ、「法改正を統計に反映するのを忘れていた」とは減点を嫌う役人根性からは口が裂けても言えないのだろう。
報道の扱いも論点をぼかす傾向が強い。毎日新聞は東京大学教授の「自覚なき差別意識」というコメントを大きく取り上げ、文科省に差別の構造が根付いていたかのように描いた。しかし、専門家なら2007年の法改正を熟知しているはずだ。心理的レッテルに飛びつくのは、論点を制度的矛盾から逸らす作為にすぎない。
もちろん結果として、特支卒業者は統計上「存在しない扱い」となり、進学率は実態より高めに表示されていた。差別的効果は否定できない。しかし、原因を短絡的に「差別意識」と結びつけるのは論理的に不十分だ。問題の核心は「制度改正を反映しない統計の不作為」にある。行政内部のチェック機能の欠如も明らかだ。担当者が替わっても統計手法は変わらず、上層部も気づかない。
文科省の統計チームでは、制度改正の反映が長期間行われなかった問題について、内部で認識されていた可能性がある。しかし、それが上位判断で放置されたかどうかを裏づける公的記録は確認できない。それでもなお明白なのは、制度に合わせて統計を更新すべきという最低限の職務が果たされなかったという事実である。この“地味な不作為”こそ、教育政策の根幹を静かに、しかし確実に蝕む要因である。派手な差別論よりも、むしろ統計の基盤が歪められることの方が背筋を凍らせる深刻な問題である。
教育統計の信頼性への影響も重大である。特別支援学校卒業者を正しく扱わないまま進学率を算出すれば、統計上の数字は実態よりも高く見える。その結果、特別支援教育の拡充や大学進学支援策の必要性が過小評価される危険がある。制度と統計の不整合は、教育政策の評価を狂わせ、現場の支援体制を歪める直接的なリスクである。この点こそ看過してはならない。
産経新聞の後追い報道が淡々としているのは、この問題の本質が“派手な事件性ではなく、行政慣行の固定化”だからだ。心理的レッテル貼りに飛びつかず、制度的矛盾を正確に指摘する方が筋が通る。焦点は差別意識ではなく、統計運用の不作為による制度的歪みだ。
結局、この問題は「差別」ではなく、「制度改正を反映しない行政統計の劣化」として捉えるべきである。教育政策の信頼性を支えるのは派手なスローガンや感情論ではない。地味でも正確な統計こそが、政策判断の基盤であり、教育行政の信用を保証する土台なのである。
本来なら制度改正に応じて統計手法を更新するのが行政の責務だ。だが文科省は「就学猶予で年齢と学年が一致しない可能性」を理由に挙げた。通常校でも留年は存在するし、就学猶予を受ける特支生徒はごく少数。言い換えれば、言い訳としてはほぼ意味をなさない。数字の正確性より慣習を優先する、典型的な“お役所言い訳”だ。ただ、「法改正を統計に反映するのを忘れていた」とは減点を嫌う役人根性からは口が裂けても言えないのだろう。
報道の扱いも論点をぼかす傾向が強い。毎日新聞は東京大学教授の「自覚なき差別意識」というコメントを大きく取り上げ、文科省に差別の構造が根付いていたかのように描いた。しかし、専門家なら2007年の法改正を熟知しているはずだ。心理的レッテルに飛びつくのは、論点を制度的矛盾から逸らす作為にすぎない。
もちろん結果として、特支卒業者は統計上「存在しない扱い」となり、進学率は実態より高めに表示されていた。差別的効果は否定できない。しかし、原因を短絡的に「差別意識」と結びつけるのは論理的に不十分だ。問題の核心は「制度改正を反映しない統計の不作為」にある。行政内部のチェック機能の欠如も明らかだ。担当者が替わっても統計手法は変わらず、上層部も気づかない。
文科省の統計チームでは、制度改正の反映が長期間行われなかった問題について、内部で認識されていた可能性がある。しかし、それが上位判断で放置されたかどうかを裏づける公的記録は確認できない。それでもなお明白なのは、制度に合わせて統計を更新すべきという最低限の職務が果たされなかったという事実である。この“地味な不作為”こそ、教育政策の根幹を静かに、しかし確実に蝕む要因である。派手な差別論よりも、むしろ統計の基盤が歪められることの方が背筋を凍らせる深刻な問題である。
教育統計の信頼性への影響も重大である。特別支援学校卒業者を正しく扱わないまま進学率を算出すれば、統計上の数字は実態よりも高く見える。その結果、特別支援教育の拡充や大学進学支援策の必要性が過小評価される危険がある。制度と統計の不整合は、教育政策の評価を狂わせ、現場の支援体制を歪める直接的なリスクである。この点こそ看過してはならない。
産経新聞の後追い報道が淡々としているのは、この問題の本質が“派手な事件性ではなく、行政慣行の固定化”だからだ。心理的レッテル貼りに飛びつかず、制度的矛盾を正確に指摘する方が筋が通る。焦点は差別意識ではなく、統計運用の不作為による制度的歪みだ。
結局、この問題は「差別」ではなく、「制度改正を反映しない行政統計の劣化」として捉えるべきである。教育政策の信頼性を支えるのは派手なスローガンや感情論ではない。地味でも正確な統計こそが、政策判断の基盤であり、教育行政の信用を保証する土台なのである。
国債=「未来のつけ」神話 ― 2025年12月04日
毎年のように年末になると、「国債が増えすぎて、子や孫にツケを回す!」という決まり文句が、週刊誌やワイドショーで繰り返される。2009年、財務省の啓発ポスターに「子や孫にツケを回すな!」のキャッチコピーが誇らしげに踊り、信じた人は多い。だが、立ち止まって考えてみたい。本当に“ツケ”なのか。結論を先に言えば、この論法は事実の一部だけを切り取り、国民に誤解を植え付ける典型的な政治レトリックだ。
国債の構造は単純である。政府が今お金を使うために、民間や日銀から借りる「借金」であり、利払いは税収から行われる。しかし元本は満期ごとに「借換債」で返済され、事実上ロールオーバーされ続ける。主要国の多くもこの方式を採用し、国債の借換えのタイミングを安定させるように設計して財政運営している。したがって、将来世代が確実に負うのは「利払い負担」であって、元本そのものではない。そしてその国債は、最終的に国民の金融資産として保有される。「国の借金=国民の資産」という会計構造を踏まえずに「ツケ」という言葉だけを使えば、それはもはや説明ではなく、印象操作だ。
大騒ぎしている国債金利の上昇も、先に同じく政府の負担が増える一方で国民の資産が増える構造である。ローンや投資の借入には不利だが、景気が上向けば金利が上昇するのは自然な流れだ。にもかかわらず、国債信用の下落を金利上昇の原因とする主張もあるが、その根拠は乏しく風説に近い。議論すべきは、金利を上回る成長を実現できるか、そしてその成長の果実を適切に分配できるかどうかだろう。
事実、日本の家計金融資産約2,100兆円のうち、直接・間接を含め国債や日銀当座預金に紐付く部分は半分以上に達する。国債は国民の富の裏返しであり、「借金が増えるほど国が貧しくなる」という発想はミスリーディング以外の何物でもない。本当の問題は、政府が国債で調達した資金を「何に使い」、そこで生まれた利益を「誰に配分するか」に尽きる。
高速道路を作れば物流が改善し、企業収益が増え、税収も増える。教育や科学技術への投資は、将来の労働生産性を底上げする。これらは明らかに「投資」である。一方、政治的な便宜で生まれる業界向け補助金や、使途が曖昧なバラマキは、単なる「浪費」だ。さらに、投資で生まれた成果が賃金として国民全体に還元されるのか、それとも一部企業の利益や資産家のキャピタルゲインに偏るのか──ここが本来の政治的対立軸である。ところが、議論が本質に向かう直前で「国債=悪」という単純化に引き戻されてしまう。“議論の幼稚化”が起きているのだ。
インフレ論も同じ構造にある。「国債を増やすとインフレになる!」との声は根強いが、日本はこの30年、物価がほぼ動かないデフレ経済に苦しんできた。適度なインフレ(年間2%前後)は、企業収益・設備投資・賃金を押し上げる“成長の潤滑油”だ。高度成長期の日本は、3〜6%のインフレを伴いながらも力強い経済拡大を続け、実質債務はむしろ相対的に軽くなっていった。インフレは確かに「政府への実質的な財政移転(借金軽減)」という側面があるが、過度でなければむしろ健全である。問題は“どの水準までを許容するか”のルール設計にある。
「円の信任が失われる」という脅し文句も、背景が省略されている。通貨の信任とは対外的な相対比較で決まるもので、一国のみが一方的に紙くずになるような事態は、主要通貨では想定しにくい。日本は経常収支が長期にわたり黒字で、外貨建て債務も極めて少ない。さらに最終的には日銀が国債市場を安定化させる“総合ディーラー”として機能する。こうした制度的な支えを踏まえたうえで議論しなければ、「信任が落ちるかも」という発言は、実態より恐怖を煽る“恐怖マーケティング”の色が濃くなる。
結局のところ、「未来のツケ」「ハイパーインフレ」「通貨信認の崩壊」という三点セットは、財政議論の核心 『国債を何に投じ、どのような形で国民に還元するのか』を覆い隠してしまう非常に都合の良いレトリックだ。国債は包丁と同じく、使い方次第で価値も害も生む。危険だからといって台所から包丁を追放する家庭がないように、「国債は危険だから極力使うな」という議論も、国の運営としてはあまりに稚拙だ。
恐れるべきは国債の残高ではない。無意味な支出と、果実の偏った分配である。日本に欠けているのは、財政の規模よりも、その“質”を議論する成熟した政治とメディアなのだ。
国債の構造は単純である。政府が今お金を使うために、民間や日銀から借りる「借金」であり、利払いは税収から行われる。しかし元本は満期ごとに「借換債」で返済され、事実上ロールオーバーされ続ける。主要国の多くもこの方式を採用し、国債の借換えのタイミングを安定させるように設計して財政運営している。したがって、将来世代が確実に負うのは「利払い負担」であって、元本そのものではない。そしてその国債は、最終的に国民の金融資産として保有される。「国の借金=国民の資産」という会計構造を踏まえずに「ツケ」という言葉だけを使えば、それはもはや説明ではなく、印象操作だ。
大騒ぎしている国債金利の上昇も、先に同じく政府の負担が増える一方で国民の資産が増える構造である。ローンや投資の借入には不利だが、景気が上向けば金利が上昇するのは自然な流れだ。にもかかわらず、国債信用の下落を金利上昇の原因とする主張もあるが、その根拠は乏しく風説に近い。議論すべきは、金利を上回る成長を実現できるか、そしてその成長の果実を適切に分配できるかどうかだろう。
事実、日本の家計金融資産約2,100兆円のうち、直接・間接を含め国債や日銀当座預金に紐付く部分は半分以上に達する。国債は国民の富の裏返しであり、「借金が増えるほど国が貧しくなる」という発想はミスリーディング以外の何物でもない。本当の問題は、政府が国債で調達した資金を「何に使い」、そこで生まれた利益を「誰に配分するか」に尽きる。
高速道路を作れば物流が改善し、企業収益が増え、税収も増える。教育や科学技術への投資は、将来の労働生産性を底上げする。これらは明らかに「投資」である。一方、政治的な便宜で生まれる業界向け補助金や、使途が曖昧なバラマキは、単なる「浪費」だ。さらに、投資で生まれた成果が賃金として国民全体に還元されるのか、それとも一部企業の利益や資産家のキャピタルゲインに偏るのか──ここが本来の政治的対立軸である。ところが、議論が本質に向かう直前で「国債=悪」という単純化に引き戻されてしまう。“議論の幼稚化”が起きているのだ。
インフレ論も同じ構造にある。「国債を増やすとインフレになる!」との声は根強いが、日本はこの30年、物価がほぼ動かないデフレ経済に苦しんできた。適度なインフレ(年間2%前後)は、企業収益・設備投資・賃金を押し上げる“成長の潤滑油”だ。高度成長期の日本は、3〜6%のインフレを伴いながらも力強い経済拡大を続け、実質債務はむしろ相対的に軽くなっていった。インフレは確かに「政府への実質的な財政移転(借金軽減)」という側面があるが、過度でなければむしろ健全である。問題は“どの水準までを許容するか”のルール設計にある。
「円の信任が失われる」という脅し文句も、背景が省略されている。通貨の信任とは対外的な相対比較で決まるもので、一国のみが一方的に紙くずになるような事態は、主要通貨では想定しにくい。日本は経常収支が長期にわたり黒字で、外貨建て債務も極めて少ない。さらに最終的には日銀が国債市場を安定化させる“総合ディーラー”として機能する。こうした制度的な支えを踏まえたうえで議論しなければ、「信任が落ちるかも」という発言は、実態より恐怖を煽る“恐怖マーケティング”の色が濃くなる。
結局のところ、「未来のツケ」「ハイパーインフレ」「通貨信認の崩壊」という三点セットは、財政議論の核心 『国債を何に投じ、どのような形で国民に還元するのか』を覆い隠してしまう非常に都合の良いレトリックだ。国債は包丁と同じく、使い方次第で価値も害も生む。危険だからといって台所から包丁を追放する家庭がないように、「国債は危険だから極力使うな」という議論も、国の運営としてはあまりに稚拙だ。
恐れるべきは国債の残高ではない。無意味な支出と、果実の偏った分配である。日本に欠けているのは、財政の規模よりも、その“質”を議論する成熟した政治とメディアなのだ。
子どもを奪う国 ― 2025年12月05日
戦争の残虐さを最も如実に物語るのは、いつも子どもたちの姿だ。先週、国連総会は異例の明確さでロシアを糾弾した。ウクライナから数万人の子どもたちが「保護」という名目でロシア国内へ強制移送されている問題で、「即時・無条件での帰還」を求める決議を採択したのである。賛成は91、反対はわずか12。表向きには「これは許されない」と圧倒的多数が意思表示した形だ。だが裏を返せば、棄権を含めて69か国が賛成に回らなかったことになる。つまり国際社会の足並みは完全には揃っておらず、ロシアに対する圧力の限界と、なお権威主義国家に迎合する勢力の存在を浮き彫りにした。ロシア側はいつものように「人道的な避難措置だ」「虚偽のプロパガンダだ」と鼻で笑う。しかし、国際刑事裁判所(ICC)はすでにプーチン大統領とロシア子どもの権利委員マリア・リョヴォワ=ベロワに逮捕状を出している。罪状は「戦争犯罪としての子どもの強制移送」。もはや「人道的」と言い張る余地は、国際法上、どこにもない。
現地で子どもたちを救出しているNGO「Save Ukraine」の報告は目を覆うばかりだ。連れ去られた子どもたちはロシア国内の施設で「あなたたちはこれからロシア人になるのよ」と告げられ、ウクライナ語を話すと罰せられ、ロシア国歌を歌わされ、軍事訓練まで強いられているという。養子縁組も急ピッチで進められ、戸籍上も「ロシア人」にされてしまう。まさに民族の根こそぎ同化政策である。
歴史を紐解けば、こういう手口は権威主義のお家芸だ。ナチス・ドイツは占領地から「アーリア血統に見える」子どもを連れ去り、ドイツ人家庭に養子に出した。ソ連は戦後の東欧で孤児を「共産主義教育」を施した。どちらも「未来の敵」を育たないようにするための、冷徹な人口戦略だった。ロシアが今やっていることは、その現代版に他ならない。
そしてこれは、決して遠いヨーロッパの話ではない。北朝鮮による日本人拉致被害者のなかには、13歳だった横田めぐみさんをはじめ、未成年も含まれていた。中国は新疆ウイグルやチベットで親元から子どもを引き離し、全寮制学校にぶち込む政策を大々的に展開している。内モンゴルではモンゴル語教育が事実上禁止され、子どもたちは漢語だけで育つことを強いられている。
つまり日本を囲む三つの権威主義国家は、揃いも揃って「子どもの連れ去り」を国家戦略に据えているのだ。親の気持ちなど、想像するまでもない。わが子を奪われた母親の絶望は、どれほどのものか。獣でさえ必死に子を守るというのに、人間はわざと子を奪い、親の心を抉り、民族の未来を根こそぎにする。それを「政策」と呼んで憚らない冷血さ。これが人間の所業と言えるのか。
国連決議に法的拘束力はない。しかし「世界の常識」を示す力はある。ロシアがどれだけ「でっち上げだ」と喚こうが、救出された子どもたちの証言は積み重なり、国際世論は動く。動けば制裁は強まり、ロシアの孤立は深まる。子どもを奪うことは、未来を奪うことだ。この蛮行を「戦争犯罪」として明確に認定し、国際法で縛ることは、今後の紛争抑止にも直結する。日本にできることは多い。拉致被害者奪還への執念を決して手放さず、ウクライナの子どもたちの声に耳を傾け、周辺国の同化政策を決して看過しないことだ。
戦争は大人のエゴで始まる。しかし一番苦しむのは、いつも子どもたちである。権威主義が十八番とする「子どもの未来を奪う手法」に対し、文明社会がどこまで毅然と立ち向かえるか。今回の国連決議は、まさにその試金石だ。反対や棄権に回った国には権威主義国3兄弟が顔をそろえている。子供を奪う国は必ず亡びるという歴史を学ぶ気はないらしい。
現地で子どもたちを救出しているNGO「Save Ukraine」の報告は目を覆うばかりだ。連れ去られた子どもたちはロシア国内の施設で「あなたたちはこれからロシア人になるのよ」と告げられ、ウクライナ語を話すと罰せられ、ロシア国歌を歌わされ、軍事訓練まで強いられているという。養子縁組も急ピッチで進められ、戸籍上も「ロシア人」にされてしまう。まさに民族の根こそぎ同化政策である。
歴史を紐解けば、こういう手口は権威主義のお家芸だ。ナチス・ドイツは占領地から「アーリア血統に見える」子どもを連れ去り、ドイツ人家庭に養子に出した。ソ連は戦後の東欧で孤児を「共産主義教育」を施した。どちらも「未来の敵」を育たないようにするための、冷徹な人口戦略だった。ロシアが今やっていることは、その現代版に他ならない。
そしてこれは、決して遠いヨーロッパの話ではない。北朝鮮による日本人拉致被害者のなかには、13歳だった横田めぐみさんをはじめ、未成年も含まれていた。中国は新疆ウイグルやチベットで親元から子どもを引き離し、全寮制学校にぶち込む政策を大々的に展開している。内モンゴルではモンゴル語教育が事実上禁止され、子どもたちは漢語だけで育つことを強いられている。
つまり日本を囲む三つの権威主義国家は、揃いも揃って「子どもの連れ去り」を国家戦略に据えているのだ。親の気持ちなど、想像するまでもない。わが子を奪われた母親の絶望は、どれほどのものか。獣でさえ必死に子を守るというのに、人間はわざと子を奪い、親の心を抉り、民族の未来を根こそぎにする。それを「政策」と呼んで憚らない冷血さ。これが人間の所業と言えるのか。
国連決議に法的拘束力はない。しかし「世界の常識」を示す力はある。ロシアがどれだけ「でっち上げだ」と喚こうが、救出された子どもたちの証言は積み重なり、国際世論は動く。動けば制裁は強まり、ロシアの孤立は深まる。子どもを奪うことは、未来を奪うことだ。この蛮行を「戦争犯罪」として明確に認定し、国際法で縛ることは、今後の紛争抑止にも直結する。日本にできることは多い。拉致被害者奪還への執念を決して手放さず、ウクライナの子どもたちの声に耳を傾け、周辺国の同化政策を決して看過しないことだ。
戦争は大人のエゴで始まる。しかし一番苦しむのは、いつも子どもたちである。権威主義が十八番とする「子どもの未来を奪う手法」に対し、文明社会がどこまで毅然と立ち向かえるか。今回の国連決議は、まさにその試金石だ。反対や棄権に回った国には権威主義国3兄弟が顔をそろえている。子供を奪う国は必ず亡びるという歴史を学ぶ気はないらしい。
愛子さまの報道 ― 2025年12月06日
愛子さまの外遊報道が出るたび、皇室の振る舞いや役割をめぐる議論が沸騰する。だが、ワイドショー的な視線で眺めていると、肝心な一点を見誤る。「天皇とは何か」という根本の問題だ。天皇は元首でも外交官でもアイドルでもない。古代以来の本務はただひとつ、「祭祀の最高者」であるという事実である。
そもそも「父系血統の継続」という原則は歴史的事実であるが、これを「一系」として直系限定のように硬直化させたのは、明治以降の制度的産物にすぎない。歴史をひもとけば、皇位継承は常に柔軟だった。直系に男子がなく皇統が細れば傍系から迎えるのが当たり前で、継体天皇も光格天皇も、血縁の遠近より「祭祀の継続」を優先した結果として即位している。皇族女子が天皇になった例はあるが、皇統自体は男系のまま維持された。つまり、近年の“男系か女系か”という消耗戦そのものが、近代的ルールに縛られた議論にすぎず、本来の天皇制とはズレている。
問題の核心は別にある。敗戦後、現行憲法は天皇の祭祀を「私的行為」と扱った。だが、大嘗祭や新嘗祭は国の安寧と五穀豊穣を祈る国家的儀礼であり、「私事」扱いは歴史感覚を欠いている。政教分離の建前が、皇室の本務そのものを見えにくくしてしまった。その結果、外交日程やメディア対応ばかりがクローズアップされ、「祈り」という本質が隅に追いやられたのである。
そして、継承問題を解決する“現実的で、歴史にも沿う一手”が、いま軽視されている。それが「旧宮家の復帰」だ。戦後、GHQの政策によって十一宮家が皇籍離脱を余儀なくされた。だが、彼らは歴史的に皇統を支えてきた男系傍系であり、皇室の継承構造を安定させる安全弁だった。もし彼らが存続していれば、男系継承の途切れをめぐる現在の緊張感は生じていなかったはずだ。女系容認か否かという二項対立で国論を割るより、伝統的な継承パターンの回復として宮家の復帰を検討する方が、政治的コストも歴史的整合性もはるかに高い。
靖国問題でも同じ誤解がある。天皇の祈りは八百万の神々に捧げられ、皇祖神に連なる体系の中で営まれる。靖国神社は古代の神宮ではなく、明治国家がつくった招魂社である。昭和天皇の参拝中止には政治的背景があったが、令和天皇にとって靖国は「祈りの系譜」に位置しない。伊勢神宮が天皇の本務であり、靖国は政治問題だ。この区別を欠くから、靖国論争はいつまでも空回りする。
いま必要なのは、制度の細目ではなく「天皇制のコンセプト」を立て直すことだ。天皇とは、国の安寧を祈り続ける存在であり、外遊も外交もその付属的な役割にすぎない。その本質に立ち返れば、継承問題は「形式」ではなく「祭祀を誰が継げるか」という一点に収斂する。旧宮家の復帰は、まさにその要件を満たす現実的選択肢である。
愛子さまの外遊報道は、一見すれば軽い話題のようで、実は天皇制の根幹を映す鏡だ。象徴論やジェンダーで消耗するより、千年以上続いた「祈りの継承」という本筋に戻ること。そこに、皇統の安定と日本社会の成熟の道がある。
そもそも「父系血統の継続」という原則は歴史的事実であるが、これを「一系」として直系限定のように硬直化させたのは、明治以降の制度的産物にすぎない。歴史をひもとけば、皇位継承は常に柔軟だった。直系に男子がなく皇統が細れば傍系から迎えるのが当たり前で、継体天皇も光格天皇も、血縁の遠近より「祭祀の継続」を優先した結果として即位している。皇族女子が天皇になった例はあるが、皇統自体は男系のまま維持された。つまり、近年の“男系か女系か”という消耗戦そのものが、近代的ルールに縛られた議論にすぎず、本来の天皇制とはズレている。
問題の核心は別にある。敗戦後、現行憲法は天皇の祭祀を「私的行為」と扱った。だが、大嘗祭や新嘗祭は国の安寧と五穀豊穣を祈る国家的儀礼であり、「私事」扱いは歴史感覚を欠いている。政教分離の建前が、皇室の本務そのものを見えにくくしてしまった。その結果、外交日程やメディア対応ばかりがクローズアップされ、「祈り」という本質が隅に追いやられたのである。
そして、継承問題を解決する“現実的で、歴史にも沿う一手”が、いま軽視されている。それが「旧宮家の復帰」だ。戦後、GHQの政策によって十一宮家が皇籍離脱を余儀なくされた。だが、彼らは歴史的に皇統を支えてきた男系傍系であり、皇室の継承構造を安定させる安全弁だった。もし彼らが存続していれば、男系継承の途切れをめぐる現在の緊張感は生じていなかったはずだ。女系容認か否かという二項対立で国論を割るより、伝統的な継承パターンの回復として宮家の復帰を検討する方が、政治的コストも歴史的整合性もはるかに高い。
靖国問題でも同じ誤解がある。天皇の祈りは八百万の神々に捧げられ、皇祖神に連なる体系の中で営まれる。靖国神社は古代の神宮ではなく、明治国家がつくった招魂社である。昭和天皇の参拝中止には政治的背景があったが、令和天皇にとって靖国は「祈りの系譜」に位置しない。伊勢神宮が天皇の本務であり、靖国は政治問題だ。この区別を欠くから、靖国論争はいつまでも空回りする。
いま必要なのは、制度の細目ではなく「天皇制のコンセプト」を立て直すことだ。天皇とは、国の安寧を祈り続ける存在であり、外遊も外交もその付属的な役割にすぎない。その本質に立ち返れば、継承問題は「形式」ではなく「祭祀を誰が継げるか」という一点に収斂する。旧宮家の復帰は、まさにその要件を満たす現実的選択肢である。
愛子さまの外遊報道は、一見すれば軽い話題のようで、実は天皇制の根幹を映す鏡だ。象徴論やジェンダーで消耗するより、千年以上続いた「祈りの継承」という本筋に戻ること。そこに、皇統の安定と日本社会の成熟の道がある。
中国の情報工作 ― 2025年12月07日
中国の傅聡(ふ・そう)国連大使が山崎和之国連大使に対し、高市早苗首相の国会答弁の撤回を迫る書簡を立て続けに送り、日本側も反論書簡で応じる——いま国連では、異例の応酬が続いている。だが、これは単なる意見の食い違いではない。北京が長期的に展開してきた「日本=危険国家」キャンペーンの最前線であり、日本を地域の不安定要因と印象づけるための計画的な情報作戦にほかならない。
その一端はすでに露骨に表れている。薛剣・駐大阪総領事はSNS上で、当時の高市早苗首相を暗に指して「その汚い首はためらわず斬るしかない」と書き込み、世界から強い非難を浴びた。しかし中国側は謝罪するどころか「日本の挑発が原因だ」と逆ギレのような責任転嫁に終始した。この一連の振る舞いは、国際社会に「あの危険な国・日本が中国を刺激している」という物語を植え付けるための、“作り物の危機”の演出にほかならない。
そして驚くべきことに、この危険な物語の“種火”となったのは、日本国内メディアの報道だった。発端は国会で、立憲民主党の岡田克也議員らが台湾有事を巡り「存立危機事態の認定はあり得るか」と問うた場面。高市首相は従来の政府答弁を繰り返しただけで、政策変更でも断定的発言でもない。しかし朝日新聞は、このやり取りをあたかも「日本政府が台湾有事への軍事関与を決めた」かのように報じ、中国語圏SNSで瞬く間に拡散した。結果として日本の国内メディアの“誤射”が、そのまま北京にとっての絶好の外交カードとなったのである。
その後の国連での書簡応酬は、冷戦期のプロパガンダ戦を思わせる激しさを帯びている。12月1日、傅聡大使はグテーレス国連事務総長に2度目の書簡を提出し、高市氏の答弁を「誤った発言」と断定。さらに「中国への武力行使を示唆しており、専守防衛を逸脱している」と決めつけ、「撤回しなければあらゆる結果の責任を負う」と威嚇した。一方、日本側も即応し、山崎大使が反論書簡で「日本の防衛政策は受動的な専守防衛であり、中国側の主張は事実に反する」と明確に否定した。
――そしてここからがより深刻だ。近年、中国政府・国営メディアは旧敵国条項の“復活”や、サンフランシスコ平和条約そのものの否定論まで持ち出し始めている。「日本は旧敵国であり、安保理決議なしに武力行使できる」「サンフランシスコ条約は無効で、日本の戦後地位も台湾の地位も根拠を失う」。これらは国際法の基礎を覆す暴論であり、戦後秩序への正面からの挑発である。半世紀を超えて認知されてきた国際協定の否定は、まさに“ルールを書き換える覇権国家の論理”であり、これがまかり通ればどんな講和条約も気まぐれに無効化されてしまう。
今回の騒動で露わになったのは、日本の国会質疑 → 国内メディア報道 → 中国の情報戦という経路が、あまりに脆弱で、あまりに無防備だという冷徹な現実である。一つの誤解が国境を越え、プロパガンダと結びついた瞬間、それは外交の“火種”どころか、国際的な対立の燃料として一気に拡散していく。
国際政治の主戦場が、会議室からSNS・メディア空間へ完全に移ったいま、報道の精度は国家安全保障の一部になった。誤情報は“武器”となり、拡散速度はミサイルより速い。大国の恣意的な歴史改ざんに対抗する上でも、事実に基づく言論の堅牢さこそ、最も重要な防衛装置である。
もっとも、中国の荒唐無稽な論理に真顔で向き合う国は、結局、同じ体制の“独裁三兄弟”くらいだろう。ここまでくると、過剰な反応より、むしろ乾いた笑いで受け流すくらいの余裕が、国際世論を味方にする最も効果的な術なのかもしれない。
その一端はすでに露骨に表れている。薛剣・駐大阪総領事はSNS上で、当時の高市早苗首相を暗に指して「その汚い首はためらわず斬るしかない」と書き込み、世界から強い非難を浴びた。しかし中国側は謝罪するどころか「日本の挑発が原因だ」と逆ギレのような責任転嫁に終始した。この一連の振る舞いは、国際社会に「あの危険な国・日本が中国を刺激している」という物語を植え付けるための、“作り物の危機”の演出にほかならない。
そして驚くべきことに、この危険な物語の“種火”となったのは、日本国内メディアの報道だった。発端は国会で、立憲民主党の岡田克也議員らが台湾有事を巡り「存立危機事態の認定はあり得るか」と問うた場面。高市首相は従来の政府答弁を繰り返しただけで、政策変更でも断定的発言でもない。しかし朝日新聞は、このやり取りをあたかも「日本政府が台湾有事への軍事関与を決めた」かのように報じ、中国語圏SNSで瞬く間に拡散した。結果として日本の国内メディアの“誤射”が、そのまま北京にとっての絶好の外交カードとなったのである。
その後の国連での書簡応酬は、冷戦期のプロパガンダ戦を思わせる激しさを帯びている。12月1日、傅聡大使はグテーレス国連事務総長に2度目の書簡を提出し、高市氏の答弁を「誤った発言」と断定。さらに「中国への武力行使を示唆しており、専守防衛を逸脱している」と決めつけ、「撤回しなければあらゆる結果の責任を負う」と威嚇した。一方、日本側も即応し、山崎大使が反論書簡で「日本の防衛政策は受動的な専守防衛であり、中国側の主張は事実に反する」と明確に否定した。
――そしてここからがより深刻だ。近年、中国政府・国営メディアは旧敵国条項の“復活”や、サンフランシスコ平和条約そのものの否定論まで持ち出し始めている。「日本は旧敵国であり、安保理決議なしに武力行使できる」「サンフランシスコ条約は無効で、日本の戦後地位も台湾の地位も根拠を失う」。これらは国際法の基礎を覆す暴論であり、戦後秩序への正面からの挑発である。半世紀を超えて認知されてきた国際協定の否定は、まさに“ルールを書き換える覇権国家の論理”であり、これがまかり通ればどんな講和条約も気まぐれに無効化されてしまう。
今回の騒動で露わになったのは、日本の国会質疑 → 国内メディア報道 → 中国の情報戦という経路が、あまりに脆弱で、あまりに無防備だという冷徹な現実である。一つの誤解が国境を越え、プロパガンダと結びついた瞬間、それは外交の“火種”どころか、国際的な対立の燃料として一気に拡散していく。
国際政治の主戦場が、会議室からSNS・メディア空間へ完全に移ったいま、報道の精度は国家安全保障の一部になった。誤情報は“武器”となり、拡散速度はミサイルより速い。大国の恣意的な歴史改ざんに対抗する上でも、事実に基づく言論の堅牢さこそ、最も重要な防衛装置である。
もっとも、中国の荒唐無稽な論理に真顔で向き合う国は、結局、同じ体制の“独裁三兄弟”くらいだろう。ここまでくると、過剰な反応より、むしろ乾いた笑いで受け流すくらいの余裕が、国際世論を味方にする最も効果的な術なのかもしれない。
中国軍が自衛隊機にロックオン ― 2025年12月08日
沖縄本島南東の公海上空でまたやられた。12月6日、中国空母「遼寧」から発進したJ-15戦闘機が、領空侵犯対処に当たっていた航空自衛隊F-15に対し、断続的に火器管制レーダーを照射した。火器管制レーダーと聞けば日本語的には曖昧だが、要は銃の安全装置を外して相手に向けたわけで、引き金を引けば銃撃される。戦闘機は相手からレーダー波を感知して自機が攻撃されるという警告灯が点灯し警告音が鳴る。防衛省が照射事案を公式に公表した以上、発生そのものは疑いようのない事実である。日本政府は即座に北京へ厳重抗議を叩きつけた。これに対し中国海軍は「自衛隊機が安全を脅かした」と一方的に主張し、肝心のレーダー照射そのものには触れなかった。否定も弁明もなく、事実への言及を避ける態度こそが最も雄弁な答えだ。
同じ手口は米軍に対しても繰り返されている。南シナ海、東シナ海、西太平洋のどこを飛ぼうが、中国軍機は米軍偵察機に数十メートルまで異常接近し、時には機体を逆さにして威嚇する。米国防総省が「unsafe and unprofessional」と名指しで非難しても、中国外務省の返事はいつも決まっている。「米側が先に挑発した」という責任転嫁の常套句だけだ。危険行為そのものを否定する材料は、いつまで経っても出てこない。否定できないから、黙るか、あるいは今回のように論点をすり替えるしかない。この「やっておいて黙る/すり替える」戦法が積み重なるたびに、国際社会に残るのは「中国軍がやった」という事実だけになる。否定できない事実は、やがて「常習犯」という評価に変わる。
ここで最も不気味なのは、中国共産党の中央統制が明らかに機能不全に陥っていることだ。習近平体制に入ってから、軍の高級幹部は次々と失脚し、更迭されている。ロケット軍はほぼ全幹部が入れ替わり、海軍・空軍でも「腐敗摘発」の名の下に粛清が続いている。中央が必死に締め付けている証左である。それなのに現場は止まらない。むしろエスカレートしている。独裁体制の鉄則は、中央の意思が絶対に末端まで貫徹されることだ。それが崩れるとどうなるか。現場の軍人が中央の意向を超えて行動し始めたとき、偶発的衝突は一気に全面戦争へと突き進む。歴史が証明している。1931年の満州事変も、関東軍の独走が引き金だった。
さらに見逃せない動きがある。中国は先日、国連憲章に残る「敵国条項」を外交の場でちらつかせ始めた。第二次大戦の旧枢軸国に対する特別措置で、国際社会ではすでに死文化したと見なされている規定だ。それをわざわざ持ち出すこと自体、現場の軍人に「日本に対しては特別に強硬で構わない」という暗黙のメッセージを送っているようにも読める。そう考えると、今回のレーダー照射は単なる偶発的な現場の暴走ではなく、中央の覇権主義的な言及の間隙を突いた軍事行動の一環だった可能性がある。もしそうなら、これは危険なエスカレーションの兆候だ。外交的な沈黙や論点すり替えの裏で、軍が独自に行動を拡大しているとすれば、独裁体制の統制不全を示すだけでなく、国際社会にとって予測不能なリスクを孕む。
結局、残されたファクトはこれだけだ。防衛省が発表したこと、日本政府が抗議したこと、そして中国側が照射事実に触れず責任転嫁を繰り返していること。これに米軍への度重なる危険接近、軍内部の異常な人事異動、敵国条項の再提起が重なると、見えてくる構図は一つしかない。独裁国家の軍が、中央のコントロールを失いつつある、という現実だ。軍の統制が利かない独裁ほど怖いものはない。挑発は単なる威嚇ではなく、体制そのものの綻びをさらけ出す警告灯である。そしてそのロックオン警告灯は、今、赤く点滅し続けている。
同じ手口は米軍に対しても繰り返されている。南シナ海、東シナ海、西太平洋のどこを飛ぼうが、中国軍機は米軍偵察機に数十メートルまで異常接近し、時には機体を逆さにして威嚇する。米国防総省が「unsafe and unprofessional」と名指しで非難しても、中国外務省の返事はいつも決まっている。「米側が先に挑発した」という責任転嫁の常套句だけだ。危険行為そのものを否定する材料は、いつまで経っても出てこない。否定できないから、黙るか、あるいは今回のように論点をすり替えるしかない。この「やっておいて黙る/すり替える」戦法が積み重なるたびに、国際社会に残るのは「中国軍がやった」という事実だけになる。否定できない事実は、やがて「常習犯」という評価に変わる。
ここで最も不気味なのは、中国共産党の中央統制が明らかに機能不全に陥っていることだ。習近平体制に入ってから、軍の高級幹部は次々と失脚し、更迭されている。ロケット軍はほぼ全幹部が入れ替わり、海軍・空軍でも「腐敗摘発」の名の下に粛清が続いている。中央が必死に締め付けている証左である。それなのに現場は止まらない。むしろエスカレートしている。独裁体制の鉄則は、中央の意思が絶対に末端まで貫徹されることだ。それが崩れるとどうなるか。現場の軍人が中央の意向を超えて行動し始めたとき、偶発的衝突は一気に全面戦争へと突き進む。歴史が証明している。1931年の満州事変も、関東軍の独走が引き金だった。
さらに見逃せない動きがある。中国は先日、国連憲章に残る「敵国条項」を外交の場でちらつかせ始めた。第二次大戦の旧枢軸国に対する特別措置で、国際社会ではすでに死文化したと見なされている規定だ。それをわざわざ持ち出すこと自体、現場の軍人に「日本に対しては特別に強硬で構わない」という暗黙のメッセージを送っているようにも読める。そう考えると、今回のレーダー照射は単なる偶発的な現場の暴走ではなく、中央の覇権主義的な言及の間隙を突いた軍事行動の一環だった可能性がある。もしそうなら、これは危険なエスカレーションの兆候だ。外交的な沈黙や論点すり替えの裏で、軍が独自に行動を拡大しているとすれば、独裁体制の統制不全を示すだけでなく、国際社会にとって予測不能なリスクを孕む。
結局、残されたファクトはこれだけだ。防衛省が発表したこと、日本政府が抗議したこと、そして中国側が照射事実に触れず責任転嫁を繰り返していること。これに米軍への度重なる危険接近、軍内部の異常な人事異動、敵国条項の再提起が重なると、見えてくる構図は一つしかない。独裁国家の軍が、中央のコントロールを失いつつある、という現実だ。軍の統制が利かない独裁ほど怖いものはない。挑発は単なる威嚇ではなく、体制そのものの綻びをさらけ出す警告灯である。そしてそのロックオン警告灯は、今、赤く点滅し続けている。
農政とメディアの罪 ― 2025年12月09日
日本のコメ価格がまた暴騰している。5キロ4500円を超える地域も出た。スーパーに行けば「新米」の値札を見て「えっ?」と二度見する主婦の姿が日常だ。でも不思議なことに、テレビや新聞は「農家が可哀想」「天候不作」「輸入米が高くなった」といった表層的な話ばかり。誰もが知っているはずの、あの超基本的な経済学の法則を誰も口にしない。「需要と供給のギャップが価格を決める」これだけだ。高校の公民の教科書に載ってるレベルの話である。供給が足りなければ値段は上がる。 供給が余れば値段は下がる。たったこれだけのことが、日本のコメ農政では50年間、徹底的に無視され続けてきた。
石破政権のとき、コメ価格が高止まりすると、メディアは一斉に「減反政策が諸悪の根源!」と大合唱した。確かに減反はバカげている。安全保障上、食料はできるだけ国内で作るべきなのに、わざわざ作るなと補助金まで出していたのだから。だが、「じゃあ増産したら価格が暴落したとき、農家の生活はどうなるんですか?」 この超当たり前の質問を、誰も真正面からしなかった。
増産が政府の方針であるなら、価格下落時のリスクは政府が全面的に負担するのが筋だろう。財源について?減反のために毎年数千億円も投じていた補助金をそのまま振り向ければ済む話だ。価格の暴落は毎年起こるわけではなく、春の予算確定時には変動を予測できない。だから、暴落時には補正予算で対応し、足りなければ「コメ国債」を発行すればよい。それなのに政府は「市場原理に任せろ!」と叫ぶばかりだ。市場原理とは、農家が潰れることまで含めての話なのか。
政権が変わって鈴木農林水産大臣の時代になると、今度は真逆のコントが始まった。主食米がまだ20万トンも足りないというのに、なぜか備蓄米を慌てて買い上げる。そして来年はまた「生産調整」(=減反復活)だと言う。はあ?不足してるって言ってるのに、なんでまた作るなって言うんですか?鈴木大臣が言うには、需要に応じた生産をするというが、その需要量の予測がはずれたからコメが一斉に店頭から無くなりべらぼうな米価となった。そもそも予測ができない需給ギャップに手を付けて失敗してきたのがコメ政策の歴史だ。市場に価格を任せるなら「調整」するのは矛盾しているのだ。
この明らかな矛盾を、メディアはスルーした。 「お米券がまた復活!」とか「農協が喜んでる!」とか、まるでグルメコラムみたいな小ネタばかり取り上げて、肝心の本丸には誰も踏み込まない。石破時代は「減反批判しすぎ」 鈴木時代は「矛盾だらけなのに批判なさすぎ」まるでプロレスだ。政権が替わると、前の政権への批判は全部チャラ。新しい政権にはまたハネムーン期間。その繰り返しで、政策の根本的な欠陥は50年経っても放置されたまま。
これのどこがジャーナリズムだ。本来やるべきことは簡単だ。
1. 減反を全廃して、できるだけたくさん作らせる
2. 価格が下がりすぎたら、政府が差額を農家に補填する
3. その財源は減反補助金をそのまま転用
これで食糧安全保障も向上するし、価格も暴騰しない。農家も安心して種をまける。なのに、なぜか誰もこの「当たり前の解」を大声で言わない。「市場競争に任せろ」とか「農家も経営努力を」とか、責任逃れの綺麗事ばかり。
コメ5キロが4500円もする国で、「市場競争」なんて言ってる場合じゃないだろう。高校生でもわかる需給の話を、大人たちが50年間、頑なに無視し続けている。そしてそれをちゃんと突っ込まないメディアも、共犯だ。
もういい加減にしてほしい。せめて週刊誌の一コラムくらいは、「高校公民レベルの経済学」をちゃんと書いてもいいんじゃないか。だって、それすらできないんじゃ、 コメの値段について語る資格なんて、どこにもないから。
石破政権のとき、コメ価格が高止まりすると、メディアは一斉に「減反政策が諸悪の根源!」と大合唱した。確かに減反はバカげている。安全保障上、食料はできるだけ国内で作るべきなのに、わざわざ作るなと補助金まで出していたのだから。だが、「じゃあ増産したら価格が暴落したとき、農家の生活はどうなるんですか?」 この超当たり前の質問を、誰も真正面からしなかった。
増産が政府の方針であるなら、価格下落時のリスクは政府が全面的に負担するのが筋だろう。財源について?減反のために毎年数千億円も投じていた補助金をそのまま振り向ければ済む話だ。価格の暴落は毎年起こるわけではなく、春の予算確定時には変動を予測できない。だから、暴落時には補正予算で対応し、足りなければ「コメ国債」を発行すればよい。それなのに政府は「市場原理に任せろ!」と叫ぶばかりだ。市場原理とは、農家が潰れることまで含めての話なのか。
政権が変わって鈴木農林水産大臣の時代になると、今度は真逆のコントが始まった。主食米がまだ20万トンも足りないというのに、なぜか備蓄米を慌てて買い上げる。そして来年はまた「生産調整」(=減反復活)だと言う。はあ?不足してるって言ってるのに、なんでまた作るなって言うんですか?鈴木大臣が言うには、需要に応じた生産をするというが、その需要量の予測がはずれたからコメが一斉に店頭から無くなりべらぼうな米価となった。そもそも予測ができない需給ギャップに手を付けて失敗してきたのがコメ政策の歴史だ。市場に価格を任せるなら「調整」するのは矛盾しているのだ。
この明らかな矛盾を、メディアはスルーした。 「お米券がまた復活!」とか「農協が喜んでる!」とか、まるでグルメコラムみたいな小ネタばかり取り上げて、肝心の本丸には誰も踏み込まない。石破時代は「減反批判しすぎ」 鈴木時代は「矛盾だらけなのに批判なさすぎ」まるでプロレスだ。政権が替わると、前の政権への批判は全部チャラ。新しい政権にはまたハネムーン期間。その繰り返しで、政策の根本的な欠陥は50年経っても放置されたまま。
これのどこがジャーナリズムだ。本来やるべきことは簡単だ。
1. 減反を全廃して、できるだけたくさん作らせる
2. 価格が下がりすぎたら、政府が差額を農家に補填する
3. その財源は減反補助金をそのまま転用
これで食糧安全保障も向上するし、価格も暴騰しない。農家も安心して種をまける。なのに、なぜか誰もこの「当たり前の解」を大声で言わない。「市場競争に任せろ」とか「農家も経営努力を」とか、責任逃れの綺麗事ばかり。
コメ5キロが4500円もする国で、「市場競争」なんて言ってる場合じゃないだろう。高校生でもわかる需給の話を、大人たちが50年間、頑なに無視し続けている。そしてそれをちゃんと突っ込まないメディアも、共犯だ。
もういい加減にしてほしい。せめて週刊誌の一コラムくらいは、「高校公民レベルの経済学」をちゃんと書いてもいいんじゃないか。だって、それすらできないんじゃ、 コメの値段について語る資格なんて、どこにもないから。
旧姓通称使用の法制化 ― 2025年12月10日
政府が夫婦同姓の原則を死守しつつ、旧姓の通称使用をようやく法制化する方向で動き出した。これに真っ向から噛みついたのが共産党の田村智子委員長だ。「選択的夫婦別姓を潰すための方便にすぎない」「高市政権は最悪」と、いつもの調子で火炎瓶を投げ込んだ。立憲民主党なども国会に選択的別姓法案をぶち上げており、与野党の対立はもはや修復不能の領域に突入している。だが、この騒ぎの本質は、単なる「姓のルール」ではない。日本政治が抱える「理念の暴走」と「現実の重み」のせめぎ合いが、ここに凝縮されている。
旧姓通称使用の法制化――聞こえはいい。しかし蓋を開ければ、運転免許証や住民票では旧姓を併記できても、銀行口座やパスポート、国際契約、さらには学会発表の場面では依然として戸籍名しか通用しない。民間には「努力義務」や「配慮」を求めると記されるだけで、強制力はない。現場の女性たちは「また二重生活か」とため息をつき、野党は「これで解決したつもりか」と激怒する。
しかし、仮に選択的夫婦別姓制度が実現したとしても、国際的な本人確認や金融契約の場面では「戸籍名=パスポート名」が基準であることに変わりはない。別姓導入後も制約は続き、根本的な解決には至らない。結局、通称使用か別姓導入かという議論は、戸籍制度そのものの限界に突き当たるのである。国際的な本人確認や金融契約の制約を本当に解き放つには、戸籍制度そのものを廃止するしか方法はない。だからこそ、現在の議論は「団栗の背比べ」に等しいと冷ややかに見る人もいる。
そして、世論調査を見れば、未だに「家族は同じ姓がいい」と答える人が6~7割。いくら「人権」「ジェンダー平等」と叫ぼうと、国民の多くは「別に困ってない」「伝統でいいじゃん」と感じているのが現実である。民主主義とは、つまるところ多数決だ。いくら正論を振りかざしても、多数派の「肌感覚」に逆らえば、それはただの「エリートの強弁」にしか聞こえない。
ここに野党のジレンマがある。少数者の不便を救うのは確かに正義だ。しかし、それを「絶対正義」として多数派に押し付ければ、たちまち「国民の常識を無視する選民意識」と見なされる。いくら「人権」を旗印にしても、生活実感から遊離すればするほど、有権者は冷たく背を向ける。皮肉なことに、理念の純度を高めすぎると、かつて批判してきた「上の人たちが決めたルールを下々に押し付ける」権威主義と、同じ穴のムジナに見えてくる。
しかも今、日本が直面しているのは円安による生活苦、少子化による社会保障の崩壊、中国の軍事圧力、エネルギー危機である。そんな中で「姓の選択自由」を最優先課題に掲げる姿は、国民から見れば「優先順位が狂っている」としか映らない。いくら「象徴的な人権問題」だと言い張っても、生活が火の車の人にとっては「そんな暇があったら電気代を何とかしろ」と言いたくなるのも当然だ。
結局のところ、旧姓通称使用の法制化は、
・与党にとっては「現実的な一歩」「国民感覚に寄り添った妥協」
・野党にとっては「本質的解決を先送りする逃げ」
――と、180度解釈が分かれる政治的シンボルに仕立て上げられた。
ただし野党は戸籍制度の廃止には触れない。制度の根幹に踏み込まない以上、「本質的解決」とは言い難いどころか、結局は解決しないのであるから政権批判のポーズが透けて見えてしまう。
野党は「少数者の権利を守れ」と叫び、与党は「大多数の家族観を尊重しろ」と返す。どちらも正論ではある。しかし政治は正論のぶつかり合いではなく、どちらが国民の「今の気分」に寄り添えるかの勝負だ。
このまま理念の純粋さを振りかざし続ければ、野党は「生活が分からないエリート集団」のレッテルを貼られ、ますます有権者から遠ざかる。逆に与党が「これで十分」と居直れば、アイデンティティ問題は永遠に解消されず、静かな不満が溜まり続ける。
姓を巡る議論は、結局のところ「どれだけ正しくても、国民が『今、それどころじゃない』と思えば政治的には負け」という、日本政治の冷酷な現実が透けて見える鏡なのだ。永田町の皆さん、もう少し国民の空気を読んだらどうですか。支持者の気持ちしか読む気がないのかもしれないが。
旧姓通称使用の法制化――聞こえはいい。しかし蓋を開ければ、運転免許証や住民票では旧姓を併記できても、銀行口座やパスポート、国際契約、さらには学会発表の場面では依然として戸籍名しか通用しない。民間には「努力義務」や「配慮」を求めると記されるだけで、強制力はない。現場の女性たちは「また二重生活か」とため息をつき、野党は「これで解決したつもりか」と激怒する。
しかし、仮に選択的夫婦別姓制度が実現したとしても、国際的な本人確認や金融契約の場面では「戸籍名=パスポート名」が基準であることに変わりはない。別姓導入後も制約は続き、根本的な解決には至らない。結局、通称使用か別姓導入かという議論は、戸籍制度そのものの限界に突き当たるのである。国際的な本人確認や金融契約の制約を本当に解き放つには、戸籍制度そのものを廃止するしか方法はない。だからこそ、現在の議論は「団栗の背比べ」に等しいと冷ややかに見る人もいる。
そして、世論調査を見れば、未だに「家族は同じ姓がいい」と答える人が6~7割。いくら「人権」「ジェンダー平等」と叫ぼうと、国民の多くは「別に困ってない」「伝統でいいじゃん」と感じているのが現実である。民主主義とは、つまるところ多数決だ。いくら正論を振りかざしても、多数派の「肌感覚」に逆らえば、それはただの「エリートの強弁」にしか聞こえない。
ここに野党のジレンマがある。少数者の不便を救うのは確かに正義だ。しかし、それを「絶対正義」として多数派に押し付ければ、たちまち「国民の常識を無視する選民意識」と見なされる。いくら「人権」を旗印にしても、生活実感から遊離すればするほど、有権者は冷たく背を向ける。皮肉なことに、理念の純度を高めすぎると、かつて批判してきた「上の人たちが決めたルールを下々に押し付ける」権威主義と、同じ穴のムジナに見えてくる。
しかも今、日本が直面しているのは円安による生活苦、少子化による社会保障の崩壊、中国の軍事圧力、エネルギー危機である。そんな中で「姓の選択自由」を最優先課題に掲げる姿は、国民から見れば「優先順位が狂っている」としか映らない。いくら「象徴的な人権問題」だと言い張っても、生活が火の車の人にとっては「そんな暇があったら電気代を何とかしろ」と言いたくなるのも当然だ。
結局のところ、旧姓通称使用の法制化は、
・与党にとっては「現実的な一歩」「国民感覚に寄り添った妥協」
・野党にとっては「本質的解決を先送りする逃げ」
――と、180度解釈が分かれる政治的シンボルに仕立て上げられた。
ただし野党は戸籍制度の廃止には触れない。制度の根幹に踏み込まない以上、「本質的解決」とは言い難いどころか、結局は解決しないのであるから政権批判のポーズが透けて見えてしまう。
野党は「少数者の権利を守れ」と叫び、与党は「大多数の家族観を尊重しろ」と返す。どちらも正論ではある。しかし政治は正論のぶつかり合いではなく、どちらが国民の「今の気分」に寄り添えるかの勝負だ。
このまま理念の純粋さを振りかざし続ければ、野党は「生活が分からないエリート集団」のレッテルを貼られ、ますます有権者から遠ざかる。逆に与党が「これで十分」と居直れば、アイデンティティ問題は永遠に解消されず、静かな不満が溜まり続ける。
姓を巡る議論は、結局のところ「どれだけ正しくても、国民が『今、それどころじゃない』と思えば政治的には負け」という、日本政治の冷酷な現実が透けて見える鏡なのだ。永田町の皆さん、もう少し国民の空気を読んだらどうですか。支持者の気持ちしか読む気がないのかもしれないが。