旧姓通称使用の法制化 ― 2025年12月10日
政府が夫婦同姓の原則を死守しつつ、旧姓の通称使用をようやく法制化する方向で動き出した。これに真っ向から噛みついたのが共産党の田村智子委員長だ。「選択的夫婦別姓を潰すための方便にすぎない」「高市政権は最悪」と、いつもの調子で火炎瓶を投げ込んだ。立憲民主党なども国会に選択的別姓法案をぶち上げており、与野党の対立はもはや修復不能の領域に突入している。だが、この騒ぎの本質は、単なる「姓のルール」ではない。日本政治が抱える「理念の暴走」と「現実の重み」のせめぎ合いが、ここに凝縮されている。
旧姓通称使用の法制化――聞こえはいい。しかし蓋を開ければ、運転免許証や住民票では旧姓を併記できても、銀行口座やパスポート、国際契約、さらには学会発表の場面では依然として戸籍名しか通用しない。民間には「努力義務」や「配慮」を求めると記されるだけで、強制力はない。現場の女性たちは「また二重生活か」とため息をつき、野党は「これで解決したつもりか」と激怒する。
しかし、仮に選択的夫婦別姓制度が実現したとしても、国際的な本人確認や金融契約の場面では「戸籍名=パスポート名」が基準であることに変わりはない。別姓導入後も制約は続き、根本的な解決には至らない。結局、通称使用か別姓導入かという議論は、戸籍制度そのものの限界に突き当たるのである。国際的な本人確認や金融契約の制約を本当に解き放つには、戸籍制度そのものを廃止するしか方法はない。だからこそ、現在の議論は「団栗の背比べ」に等しいと冷ややかに見る人もいる。
そして、世論調査を見れば、未だに「家族は同じ姓がいい」と答える人が6~7割。いくら「人権」「ジェンダー平等」と叫ぼうと、国民の多くは「別に困ってない」「伝統でいいじゃん」と感じているのが現実である。民主主義とは、つまるところ多数決だ。いくら正論を振りかざしても、多数派の「肌感覚」に逆らえば、それはただの「エリートの強弁」にしか聞こえない。
ここに野党のジレンマがある。少数者の不便を救うのは確かに正義だ。しかし、それを「絶対正義」として多数派に押し付ければ、たちまち「国民の常識を無視する選民意識」と見なされる。いくら「人権」を旗印にしても、生活実感から遊離すればするほど、有権者は冷たく背を向ける。皮肉なことに、理念の純度を高めすぎると、かつて批判してきた「上の人たちが決めたルールを下々に押し付ける」権威主義と、同じ穴のムジナに見えてくる。
しかも今、日本が直面しているのは円安による生活苦、少子化による社会保障の崩壊、中国の軍事圧力、エネルギー危機である。そんな中で「姓の選択自由」を最優先課題に掲げる姿は、国民から見れば「優先順位が狂っている」としか映らない。いくら「象徴的な人権問題」だと言い張っても、生活が火の車の人にとっては「そんな暇があったら電気代を何とかしろ」と言いたくなるのも当然だ。
結局のところ、旧姓通称使用の法制化は、
・与党にとっては「現実的な一歩」「国民感覚に寄り添った妥協」
・野党にとっては「本質的解決を先送りする逃げ」
――と、180度解釈が分かれる政治的シンボルに仕立て上げられた。
ただし野党は戸籍制度の廃止には触れない。制度の根幹に踏み込まない以上、「本質的解決」とは言い難いどころか、結局は解決しないのであるから政権批判のポーズが透けて見えてしまう。
野党は「少数者の権利を守れ」と叫び、与党は「大多数の家族観を尊重しろ」と返す。どちらも正論ではある。しかし政治は正論のぶつかり合いではなく、どちらが国民の「今の気分」に寄り添えるかの勝負だ。
このまま理念の純粋さを振りかざし続ければ、野党は「生活が分からないエリート集団」のレッテルを貼られ、ますます有権者から遠ざかる。逆に与党が「これで十分」と居直れば、アイデンティティ問題は永遠に解消されず、静かな不満が溜まり続ける。
姓を巡る議論は、結局のところ「どれだけ正しくても、国民が『今、それどころじゃない』と思えば政治的には負け」という、日本政治の冷酷な現実が透けて見える鏡なのだ。永田町の皆さん、もう少し国民の空気を読んだらどうですか。支持者の気持ちしか読む気がないのかもしれないが。
旧姓通称使用の法制化――聞こえはいい。しかし蓋を開ければ、運転免許証や住民票では旧姓を併記できても、銀行口座やパスポート、国際契約、さらには学会発表の場面では依然として戸籍名しか通用しない。民間には「努力義務」や「配慮」を求めると記されるだけで、強制力はない。現場の女性たちは「また二重生活か」とため息をつき、野党は「これで解決したつもりか」と激怒する。
しかし、仮に選択的夫婦別姓制度が実現したとしても、国際的な本人確認や金融契約の場面では「戸籍名=パスポート名」が基準であることに変わりはない。別姓導入後も制約は続き、根本的な解決には至らない。結局、通称使用か別姓導入かという議論は、戸籍制度そのものの限界に突き当たるのである。国際的な本人確認や金融契約の制約を本当に解き放つには、戸籍制度そのものを廃止するしか方法はない。だからこそ、現在の議論は「団栗の背比べ」に等しいと冷ややかに見る人もいる。
そして、世論調査を見れば、未だに「家族は同じ姓がいい」と答える人が6~7割。いくら「人権」「ジェンダー平等」と叫ぼうと、国民の多くは「別に困ってない」「伝統でいいじゃん」と感じているのが現実である。民主主義とは、つまるところ多数決だ。いくら正論を振りかざしても、多数派の「肌感覚」に逆らえば、それはただの「エリートの強弁」にしか聞こえない。
ここに野党のジレンマがある。少数者の不便を救うのは確かに正義だ。しかし、それを「絶対正義」として多数派に押し付ければ、たちまち「国民の常識を無視する選民意識」と見なされる。いくら「人権」を旗印にしても、生活実感から遊離すればするほど、有権者は冷たく背を向ける。皮肉なことに、理念の純度を高めすぎると、かつて批判してきた「上の人たちが決めたルールを下々に押し付ける」権威主義と、同じ穴のムジナに見えてくる。
しかも今、日本が直面しているのは円安による生活苦、少子化による社会保障の崩壊、中国の軍事圧力、エネルギー危機である。そんな中で「姓の選択自由」を最優先課題に掲げる姿は、国民から見れば「優先順位が狂っている」としか映らない。いくら「象徴的な人権問題」だと言い張っても、生活が火の車の人にとっては「そんな暇があったら電気代を何とかしろ」と言いたくなるのも当然だ。
結局のところ、旧姓通称使用の法制化は、
・与党にとっては「現実的な一歩」「国民感覚に寄り添った妥協」
・野党にとっては「本質的解決を先送りする逃げ」
――と、180度解釈が分かれる政治的シンボルに仕立て上げられた。
ただし野党は戸籍制度の廃止には触れない。制度の根幹に踏み込まない以上、「本質的解決」とは言い難いどころか、結局は解決しないのであるから政権批判のポーズが透けて見えてしまう。
野党は「少数者の権利を守れ」と叫び、与党は「大多数の家族観を尊重しろ」と返す。どちらも正論ではある。しかし政治は正論のぶつかり合いではなく、どちらが国民の「今の気分」に寄り添えるかの勝負だ。
このまま理念の純粋さを振りかざし続ければ、野党は「生活が分からないエリート集団」のレッテルを貼られ、ますます有権者から遠ざかる。逆に与党が「これで十分」と居直れば、アイデンティティ問題は永遠に解消されず、静かな不満が溜まり続ける。
姓を巡る議論は、結局のところ「どれだけ正しくても、国民が『今、それどころじゃない』と思えば政治的には負け」という、日本政治の冷酷な現実が透けて見える鏡なのだ。永田町の皆さん、もう少し国民の空気を読んだらどうですか。支持者の気持ちしか読む気がないのかもしれないが。