プルデンシャル生命の不正事件 ― 2026年01月28日
外資系生命保険の至宝と目されたブランドが、足元から静かに腐り落ちていた。プルデンシャル生命の営業職員ら100人超が、顧客から約31億円もの現金を不正に受け取っていた事件である。未返還額は約23億円、被害者は500人に及ぶ。1月23日の記者会見で頭を下げた経営陣は第三者委員会の設置と全額補償を約束したが、問われるべきは金銭的解決ではない。なぜ、合理主義の権化であるはずの外資系金融機関において、これほど前代未聞の「集団的逸脱」が長期間放置されたのか。その一点である。
世に溢れるメディアの論調は、相も変わらず「成果主義の弊害」という手垢のついた物語に終始している。過酷なノルマが職員を追い詰め、不正に走らせたという筋書きだ。しかし、この解釈はあまりに短絡的で、本質を見誤っている。成果主義やインセンティブ制度は、外資系生保であれば標準的な装備であり、同様の環境下で健全に機能している組織は無数に存在する。制度そのものが原因ならば、なぜ同社においてのみ、100人規模の「不正の連鎖」が常態化したのか。答えは明白だ。真犯人は外資的な成果主義ではなく、むしろその対極にある「過剰に日本的な人間関係」だ。
プルデンシャル生命の日本支社に深く根付いていたのは、ドライな契約社会の論理ではなく、ウェットな共同体意識だった。同社の営業職員はしばしば顧客と家族ぐるみの深い親交を結び、人生の伴走者であることを標榜する。この「顧客密着」こそが同社の強みの源泉であったはずだが、同時にそれが猛毒へと転じた。 欧米の金融機関であれば、顧客と営業の間に厳格な「物理的・心理的距離」が存在する。金銭の授受はシステムを介してのみ行われ、個人の介在する余地は制度的に抹消されている。しかし日本では、信頼の証として現金を手渡す、あるいは保険の枠を超えた「儲け話」に耳を貸すといった、前近代的な密着営業が「美徳」として許容されてきた。外資系という洗練された皮をかぶりながら、その実態は「情」に依存した日本的な村社会の営業スタイルだった。
さらに組織内部を蝕んでいたのは、日本企業特有の「沈黙の同調圧力」である。100人が関与し、500人が被害に遭うほどの規模の不正が、周囲に全く気づかれずに行われるはずがない。同僚や上司、あるいはコンプライアンス部門のどこかで、必ず兆候は察知されていたはずだ。それでもブレーキがかからなかったのは、組織全体が「波風を立てない」「成功しているスタープレーヤーに異を唱えない」という、日本的組織の典型的な病理に支配されていたからに他ならない。
では、なぜ長年温存されてきた膿が「今」になって噴出したのか。それは、かつての「日本的信頼関係」という牧歌的な幻想が、デジタル化と透明性を求める現代社会の力学に耐えきれなくなったからである。SNSやネットを通じた情報の非対称性の解消は、密室内で行われていた「特別な投資話」の化けの皮を剥ぎ取った。古き良き(あるいは悪しき)日本的密着営業が、もはやシステムとしてのガバナンスと共存できない段階に達したのである。
今回の事件は、単なる一企業の不祥事ではない。外資系という最強のガバナンスを導入したはずの組織でさえ、日本市場の土着的な文化に適応する過程で、その合理性を去勢され、腐敗に飲み込まれるという事実を突きつけている。 我々が直視すべきは、成果主義という分かりやすい悪役ではない。信頼という言葉を免罪符にして、個人の逸脱を組織が黙認し続ける日本社会そのものの構造的欠陥である。プルデンシャル生命の崩壊は、日本型ビジネスモデルの限界を映し出す不都合な鏡なのである。
世に溢れるメディアの論調は、相も変わらず「成果主義の弊害」という手垢のついた物語に終始している。過酷なノルマが職員を追い詰め、不正に走らせたという筋書きだ。しかし、この解釈はあまりに短絡的で、本質を見誤っている。成果主義やインセンティブ制度は、外資系生保であれば標準的な装備であり、同様の環境下で健全に機能している組織は無数に存在する。制度そのものが原因ならば、なぜ同社においてのみ、100人規模の「不正の連鎖」が常態化したのか。答えは明白だ。真犯人は外資的な成果主義ではなく、むしろその対極にある「過剰に日本的な人間関係」だ。
プルデンシャル生命の日本支社に深く根付いていたのは、ドライな契約社会の論理ではなく、ウェットな共同体意識だった。同社の営業職員はしばしば顧客と家族ぐるみの深い親交を結び、人生の伴走者であることを標榜する。この「顧客密着」こそが同社の強みの源泉であったはずだが、同時にそれが猛毒へと転じた。 欧米の金融機関であれば、顧客と営業の間に厳格な「物理的・心理的距離」が存在する。金銭の授受はシステムを介してのみ行われ、個人の介在する余地は制度的に抹消されている。しかし日本では、信頼の証として現金を手渡す、あるいは保険の枠を超えた「儲け話」に耳を貸すといった、前近代的な密着営業が「美徳」として許容されてきた。外資系という洗練された皮をかぶりながら、その実態は「情」に依存した日本的な村社会の営業スタイルだった。
さらに組織内部を蝕んでいたのは、日本企業特有の「沈黙の同調圧力」である。100人が関与し、500人が被害に遭うほどの規模の不正が、周囲に全く気づかれずに行われるはずがない。同僚や上司、あるいはコンプライアンス部門のどこかで、必ず兆候は察知されていたはずだ。それでもブレーキがかからなかったのは、組織全体が「波風を立てない」「成功しているスタープレーヤーに異を唱えない」という、日本的組織の典型的な病理に支配されていたからに他ならない。
では、なぜ長年温存されてきた膿が「今」になって噴出したのか。それは、かつての「日本的信頼関係」という牧歌的な幻想が、デジタル化と透明性を求める現代社会の力学に耐えきれなくなったからである。SNSやネットを通じた情報の非対称性の解消は、密室内で行われていた「特別な投資話」の化けの皮を剥ぎ取った。古き良き(あるいは悪しき)日本的密着営業が、もはやシステムとしてのガバナンスと共存できない段階に達したのである。
今回の事件は、単なる一企業の不祥事ではない。外資系という最強のガバナンスを導入したはずの組織でさえ、日本市場の土着的な文化に適応する過程で、その合理性を去勢され、腐敗に飲み込まれるという事実を突きつけている。 我々が直視すべきは、成果主義という分かりやすい悪役ではない。信頼という言葉を免罪符にして、個人の逸脱を組織が黙認し続ける日本社会そのものの構造的欠陥である。プルデンシャル生命の崩壊は、日本型ビジネスモデルの限界を映し出す不都合な鏡なのである。