旧PCでwindows11起動 ― 2025年10月01日
知人から「13年前のPCをWindows 11にアップグレードできないか」と頼まれ、つい軽く「できますよ」なんて言ってしまったのが運の尽き。あれから2週間。やっとの思いで、あの青い花みたいな「Bloom」デザインのデスクトップにたどり着いた。いやぁ、長かった。
最初の難関は、まさかのUSBブート非対応。え、今どきそんな仕様ある? Rufusで作ったUSBインストーラーが使えないから、泣く泣くブルーレイドライブを頼るしかなかった。しかも、標準のWindows 11ディスクは「GPT方式」で、この古いBIOSでは起動すらできないときた。開始5分でいきなり詰みそうになる。
ここで思いついたのが、Rufusの「MBR方式変換機能」。これをブルーレイに応用すればいけるんじゃない?と期待して、BD-REに何度も書き込むも、肝心のブートマネージャーが作成されない。時間を無駄に消費するだけの地獄タイム。
そこでAIに相談。すると「SSDをMBR仕様にして起動してみれば?」と提案。なるほど!と飛びつくも、Rufusの「Windows To Go」モードではブートマネージャーが作られない。さらにAIがボソッと、「最新の24H2はMBRで動かないかも」なんて言い出す。おい、それを最初に言え!
方針転換。ネットの片隅から古い「21H2」のISOを拾ってきて、RufusでMBR仕様にしたら……なんと一発成功!あの2週間は何だったんだろう。ちなみにインストール後も「更新が必要」マークが消えないけど、まあこれは愛嬌ってことで。
AIは「完璧です!」なんて調子よく褒めてきたけど、冷静に考えれば「古いバージョン試してみたら?」と提案したのは自分。AIはあくまでこっちの指示に従っただけ。結局、最適解を導けるかは人間のひらめき次第なのだ。
そうして胸をなでおろしたのも束の間。「21H2のサポート、いつまでだっけ?」とAIに聞いたら、しれっと「2023年10月までです」と返してくる。は? もう終わってるじゃん! さらに「MBRで安定する23H2も、今年11月で終了です」とトドメ。……おいおい、ダメじゃん。
結論。2週間の格闘で学んだのは「AIは便利だけど人間の思惑までは読んでくれない」ってこと。そして、古いPCにWindows 11を入れるのは“できる”けど、“使える”とは限らないってこと。いやはや、笑うしかない。
お疲れ、自分。そして、お前もな、コパイロット君。
最初の難関は、まさかのUSBブート非対応。え、今どきそんな仕様ある? Rufusで作ったUSBインストーラーが使えないから、泣く泣くブルーレイドライブを頼るしかなかった。しかも、標準のWindows 11ディスクは「GPT方式」で、この古いBIOSでは起動すらできないときた。開始5分でいきなり詰みそうになる。
ここで思いついたのが、Rufusの「MBR方式変換機能」。これをブルーレイに応用すればいけるんじゃない?と期待して、BD-REに何度も書き込むも、肝心のブートマネージャーが作成されない。時間を無駄に消費するだけの地獄タイム。
そこでAIに相談。すると「SSDをMBR仕様にして起動してみれば?」と提案。なるほど!と飛びつくも、Rufusの「Windows To Go」モードではブートマネージャーが作られない。さらにAIがボソッと、「最新の24H2はMBRで動かないかも」なんて言い出す。おい、それを最初に言え!
方針転換。ネットの片隅から古い「21H2」のISOを拾ってきて、RufusでMBR仕様にしたら……なんと一発成功!あの2週間は何だったんだろう。ちなみにインストール後も「更新が必要」マークが消えないけど、まあこれは愛嬌ってことで。
AIは「完璧です!」なんて調子よく褒めてきたけど、冷静に考えれば「古いバージョン試してみたら?」と提案したのは自分。AIはあくまでこっちの指示に従っただけ。結局、最適解を導けるかは人間のひらめき次第なのだ。
そうして胸をなでおろしたのも束の間。「21H2のサポート、いつまでだっけ?」とAIに聞いたら、しれっと「2023年10月までです」と返してくる。は? もう終わってるじゃん! さらに「MBRで安定する23H2も、今年11月で終了です」とトドメ。……おいおい、ダメじゃん。
結論。2週間の格闘で学んだのは「AIは便利だけど人間の思惑までは読んでくれない」ってこと。そして、古いPCにWindows 11を入れるのは“できる”けど、“使える”とは限らないってこと。いやはや、笑うしかない。
お疲れ、自分。そして、お前もな、コパイロット君。
日本保守党の行方 ― 2025年10月02日
先日、地域政党「減税日本」と日本保守党が“特別友党関係”を解消した。発表のきっかけは、衆院議員・河村たかし氏に対する「共同代表解任通告」。これに河村氏は猛反発し、「信頼関係の再構築は不可能」と突き放した。もはや、政界のドタバタ劇というより「河村劇場の幕引き」と呼ぶべきかもしれない。ただの「ケンカ別れ」ではない。浮き彫りになったのは、保守党の組織運営力の脆弱さと、人材選定の稚拙さだ。
河村氏といえば、衆院議員時代から常に話題を振りまいてきた“トラブルメーカー”である。民主党離党、維新との蜜月と破局、リコール署名不正問題……常に波乱の渦中にいた。個性と庶民感覚を武器にする一方、全国規模で安定した信用を得るには限界がある。にもかかわらず保守党は、愛知の減税日本票を比例区東海ブロックで拾い、選挙で組織戦力を持つ彼を共同代表に据えるという“算段”をした。有本香氏も河村氏の減税論や対中姿勢には共鳴し、河村流への懸念を承知の上で“政略結婚”に踏み切った。
結果は予想通りだ。河村氏は結党間もない補選への参戦や比例候補者に自分の息のかかった人物を当選させようと口を出し、飯山あかり氏、竹上ゆうこ氏らの人事でゴタゴタを引き起こした。資金管理や人事を巡る問題は離党や裁判沙汰まで発展し、支持者を失望させた。要するに、党の信頼性は“河村フィルター”で濁ったのである。保守党執行部はどうだったか。有本氏は理念も発信力も立派だが、組織運営では「自分と同じ熱量と正義」を他人に期待しすぎる癖がある。百田尚樹氏は文句を言いつつ追認するだけで、結果的に責任は曖昧。党の迷走に拍車をかけた形だ。
今回の“離縁”を党全体の挫折と見る向きは少ない。党内には河村氏との共同が党運営をかき乱すと考える声も少なくなかった。有本氏もその反発を承知しつつ、自身の信念を曲げられなかった。つまり、痛みを感じたのは有本・百田両氏であり、党としてはむしろ正常化の一歩を踏み出したと言える。短期的には個人のツケ、長期的には組織の安定――この二重構造こそ、今回の決裂の本質だ。
新興政党にゴタゴタはつきもの。参政党も離脱者や独裁批判、地方議員の不祥事などを経験しながら、理念と再編で一定の支持を維持してきた。保守党も今まさにその途上である。河村氏の退場は“災厄”か、それとも“浄化作用”か。いずれにせよ、日本保守党の真価が問われるのはここからだ。理念だけで突っ走るのではなく、現実の組織運営に耐えうる知恵と協調性――要は“政界サバイバル力”が求められている。皮肉に聞こえるかもしれないが、政治家の器量は、こうした混乱の中でこそ試されるのだ。
河村氏といえば、衆院議員時代から常に話題を振りまいてきた“トラブルメーカー”である。民主党離党、維新との蜜月と破局、リコール署名不正問題……常に波乱の渦中にいた。個性と庶民感覚を武器にする一方、全国規模で安定した信用を得るには限界がある。にもかかわらず保守党は、愛知の減税日本票を比例区東海ブロックで拾い、選挙で組織戦力を持つ彼を共同代表に据えるという“算段”をした。有本香氏も河村氏の減税論や対中姿勢には共鳴し、河村流への懸念を承知の上で“政略結婚”に踏み切った。
結果は予想通りだ。河村氏は結党間もない補選への参戦や比例候補者に自分の息のかかった人物を当選させようと口を出し、飯山あかり氏、竹上ゆうこ氏らの人事でゴタゴタを引き起こした。資金管理や人事を巡る問題は離党や裁判沙汰まで発展し、支持者を失望させた。要するに、党の信頼性は“河村フィルター”で濁ったのである。保守党執行部はどうだったか。有本氏は理念も発信力も立派だが、組織運営では「自分と同じ熱量と正義」を他人に期待しすぎる癖がある。百田尚樹氏は文句を言いつつ追認するだけで、結果的に責任は曖昧。党の迷走に拍車をかけた形だ。
今回の“離縁”を党全体の挫折と見る向きは少ない。党内には河村氏との共同が党運営をかき乱すと考える声も少なくなかった。有本氏もその反発を承知しつつ、自身の信念を曲げられなかった。つまり、痛みを感じたのは有本・百田両氏であり、党としてはむしろ正常化の一歩を踏み出したと言える。短期的には個人のツケ、長期的には組織の安定――この二重構造こそ、今回の決裂の本質だ。
新興政党にゴタゴタはつきもの。参政党も離脱者や独裁批判、地方議員の不祥事などを経験しながら、理念と再編で一定の支持を維持してきた。保守党も今まさにその途上である。河村氏の退場は“災厄”か、それとも“浄化作用”か。いずれにせよ、日本保守党の真価が問われるのはここからだ。理念だけで突っ走るのではなく、現実の組織運営に耐えうる知恵と協調性――要は“政界サバイバル力”が求められている。皮肉に聞こえるかもしれないが、政治家の器量は、こうした混乱の中でこそ試されるのだ。
移民子息の義務教育問題 ― 2025年10月03日
先日のニュースが伝えた数字に、胸がざわついた。記事によれば、令和6年の文科省調査で、義務教育年齢の外国籍の子どもたちのうち1097人が学校に通っていないと判明したという。さらに連絡が取れず就学状況が確認できない子どもが7322人、学齢簿に記載がなく教育委員会の把握対象外だった子が13人。合計すると8432人が「不就学の可能性あり」と分類されている――その冷たい合計の背後には、確かに生きた子どもたちの顔があるのだ。
数字だけ見ると遠い話のようだが、想像してみてほしい。朝の校門、黄ばんだランドセルの列に混じらない一人。放課後の公園で、言葉が通じず輪に入れない子。親は働き詰めで、日本語の手続きや学校との連絡が後回しになっているかもしれない。義務教育の網の目からこぼれ落ちたその瞬間が、長い孤立の始まりになる。
この状況は「教育行政の不手際」だけでは説明しきれない。外国籍の子どもには現行の日本法上、就学義務がない。教育支援は自治体任せで、制度としての保障が弱い。その空白を埋めているのは、多くの場合、現場の教師や保護者、地域のボランティアの善意だ。だが善意は持続可能な制度ではない。支えが届かない子は、言葉や学びの機会を失い、社会から取り残されていく。
すでに日本には約300万人の外国人が暮らし、都市部では外国人の比率が高い地域もある。にもかかわらず「日本は移民国家ではない」という立場が政策の根底にあり、受け入れの枠組みや責任の所在はぼやけたままだ。結果として、外国人子弟の教育は制度に組み込まれず、場当たり的な対応が常態化している。
海外の例を参照すれば遅れは明白だ。ドイツやフランスでは、国籍にかかわらず就学が義務づけられ、言語支援や多文化教育が制度化されている。移民が一定比率に達した段階で、教育・福祉・労働の仕組みを整備してきた。OECDや国連が指摘するように、日本は対応が数十年遅れていると言わざるを得ない。
予測では2035年ごろに外国人比率が5%を超えるという。今、この「教室の空席」が放置されれば、やがて成人する子どもたちの就労や暮らしに深刻な影響が出るだろう。非正規雇用に追いやられ、生活困窮に陥り、社会的孤立を深める。治安も当然悪くなる。そうした個々の不幸が積み重なれば、地域社会の絆も損なわれる。
では、どう手を打つか。まず必要なのは理念だけで終わらない実務的な制度設計だ。就学義務の法制化、日本語教育と母語支援の仕組み、教育委員会と住民台帳の情報連携、多文化教育の全国的な導入——これらはどれも「やったらいいね」で済む話ではない。受け入れ数を管理する枠組み(移民基本法に相当するもの)と、教育権を実務的に保障する立法が同時に進まなければ、責任の所在は曖昧なままだ。
いくつかの党が示すような理念先行の「多文化共生法」は、かえって国論を二分しかねない。また、近隣の外国人問題を契機にした感情的な移民拒否も問題の解決にはならない。もちろん、違法外国人問題は速やかに解決するのが行政の責任だ。しかし、移民政策も法制度もない中では根本問題は解決はしない。まずは誰が何をするのかが明確になる実務法から着手すべきだ。教育は、社会統合の出発点である。教室で交わされた挨拶や隣り合って覚えた言葉が、人と人を結び、将来の仕事や地域活動へとつながる。教室の椅子に座れない子が一人でもいることが、日本全体の持続力を削いでいるのだと肝に銘じたい。
国と地方は「見えない子ども」を見えるようにする責任を問われている。制度を整えるのは面倒で、時に政治的に難しい作業だ。しかし、その先にあるのは、誰も取り残さない社会だ。子どもたちが教室で笑い、学ぶ日常を取り戻すことこそ、私たちの未来への最良の投資である。
数字だけ見ると遠い話のようだが、想像してみてほしい。朝の校門、黄ばんだランドセルの列に混じらない一人。放課後の公園で、言葉が通じず輪に入れない子。親は働き詰めで、日本語の手続きや学校との連絡が後回しになっているかもしれない。義務教育の網の目からこぼれ落ちたその瞬間が、長い孤立の始まりになる。
この状況は「教育行政の不手際」だけでは説明しきれない。外国籍の子どもには現行の日本法上、就学義務がない。教育支援は自治体任せで、制度としての保障が弱い。その空白を埋めているのは、多くの場合、現場の教師や保護者、地域のボランティアの善意だ。だが善意は持続可能な制度ではない。支えが届かない子は、言葉や学びの機会を失い、社会から取り残されていく。
すでに日本には約300万人の外国人が暮らし、都市部では外国人の比率が高い地域もある。にもかかわらず「日本は移民国家ではない」という立場が政策の根底にあり、受け入れの枠組みや責任の所在はぼやけたままだ。結果として、外国人子弟の教育は制度に組み込まれず、場当たり的な対応が常態化している。
海外の例を参照すれば遅れは明白だ。ドイツやフランスでは、国籍にかかわらず就学が義務づけられ、言語支援や多文化教育が制度化されている。移民が一定比率に達した段階で、教育・福祉・労働の仕組みを整備してきた。OECDや国連が指摘するように、日本は対応が数十年遅れていると言わざるを得ない。
予測では2035年ごろに外国人比率が5%を超えるという。今、この「教室の空席」が放置されれば、やがて成人する子どもたちの就労や暮らしに深刻な影響が出るだろう。非正規雇用に追いやられ、生活困窮に陥り、社会的孤立を深める。治安も当然悪くなる。そうした個々の不幸が積み重なれば、地域社会の絆も損なわれる。
では、どう手を打つか。まず必要なのは理念だけで終わらない実務的な制度設計だ。就学義務の法制化、日本語教育と母語支援の仕組み、教育委員会と住民台帳の情報連携、多文化教育の全国的な導入——これらはどれも「やったらいいね」で済む話ではない。受け入れ数を管理する枠組み(移民基本法に相当するもの)と、教育権を実務的に保障する立法が同時に進まなければ、責任の所在は曖昧なままだ。
いくつかの党が示すような理念先行の「多文化共生法」は、かえって国論を二分しかねない。また、近隣の外国人問題を契機にした感情的な移民拒否も問題の解決にはならない。もちろん、違法外国人問題は速やかに解決するのが行政の責任だ。しかし、移民政策も法制度もない中では根本問題は解決はしない。まずは誰が何をするのかが明確になる実務法から着手すべきだ。教育は、社会統合の出発点である。教室で交わされた挨拶や隣り合って覚えた言葉が、人と人を結び、将来の仕事や地域活動へとつながる。教室の椅子に座れない子が一人でもいることが、日本全体の持続力を削いでいるのだと肝に銘じたい。
国と地方は「見えない子ども」を見えるようにする責任を問われている。制度を整えるのは面倒で、時に政治的に難しい作業だ。しかし、その先にあるのは、誰も取り残さない社会だ。子どもたちが教室で笑い、学ぶ日常を取り戻すことこそ、私たちの未来への最良の投資である。
晩酌を直撃したランサムウェア ― 2025年10月04日
Windows11のアップデートを、あーでもないこーでもないと格闘してようやくインストールしたのに、ふと調べたらMBR仕様が起動するアップデート版は保守期間がすでに終了。2週間の努力が華麗に「無駄遣い」認定された。PCと私、どっちが旧式なんだろうとしばし考え込む。そんな矢先に発表されたのがWindows11の25H2アップデート版。試しに古いVAIOに入れてみたら、これが意外と通ってしまった。ただしタッチパッドは死んだまま、Bluetoothも冬眠中。まるで「動くけど走らない中古車」を押し付けられた気分だ。それでも一応はアップデートが届くので、まあ良しとする。
一方で、旧BIOSでMBR起動しかできない骨董級マシンは門前払い。そこで救世主として登場したのがLinuxMint。調べてみるとLinuxは世界で1億台、そのうちMintは900万台も動いているという。これなら旧BIOSでもスイスイ動き、しかも最新バージョンは2029年まで保守される。Windowsの短命サイクルに振り回されるより、むしろこっちの方が安心かもしれない。そんなわけでMintをインストールしながら「ふぅ、やっと平和が訪れた」と思ったら、ニュースサイトから飛び込んできたのは「アサヒグループ、ランサムウェア感染」の見出し。私のパソコン1台の騒ぎどころではない。システムが止まったせいで、コンビニからビールやチューハイが消える事態に発展したという。これ、下手したら私の晩酌ライフに直撃する大事件じゃないか。
考えてみれば、企業の情報システムって今や冷蔵庫や電気と同じくらい社会インフラだ。DDoS攻撃みたいに防ぎきれないものもあるけれど、ランサムウェアなんて内部設計や運用でかなり対策できるはず。多層防御とかゼロトラストとか横文字が並ぶけど、要するに「ちゃんと備えとけ」って話だ。それなのに全国規模でシステムが止まる──これは怠慢と呼ばれても仕方がない。ここ5年だけでもKADOKAWA、名古屋港、HOYAといった大企業が同じ目に遭っている。サイバー攻撃はもはや夏の蚊みたいなもので、毎年必ず出るのに「まあ大丈夫だろう」で刺されるパターン。
結局セキュリティは「何も起きないこと」が成果だから地味に扱われる。でも、その地味さを軽視した結果、社会全体に迷惑をかけるなら、それは経済合理性じゃなくてただのズボラだ。池井戸潤の『空飛ぶタイヤ』を思い出す。大企業の見えないリスクが下請けや消費者にしわ寄せされる構図は、サイバー攻撃にもぴったり重なる。責任をあいまいにして、公共性を軽んじて、最後に信頼を失う──お決まりの三段落ちだ。
結局のところ、企業は「儲けるため」にあるだけじゃない。「迷惑をかけない」存在でないと社会が困る。パソコンのドライバー探しに右往左往する私でさえ、ちょっとはその自覚がある。大企業がそれを忘れていたら笑えない。
というわけで今日の教訓。
「古いPCはLinuxで延命、企業はセキュリティで延命」
どちらもサボると、酒の一杯さえ失うことになるのだ。
一方で、旧BIOSでMBR起動しかできない骨董級マシンは門前払い。そこで救世主として登場したのがLinuxMint。調べてみるとLinuxは世界で1億台、そのうちMintは900万台も動いているという。これなら旧BIOSでもスイスイ動き、しかも最新バージョンは2029年まで保守される。Windowsの短命サイクルに振り回されるより、むしろこっちの方が安心かもしれない。そんなわけでMintをインストールしながら「ふぅ、やっと平和が訪れた」と思ったら、ニュースサイトから飛び込んできたのは「アサヒグループ、ランサムウェア感染」の見出し。私のパソコン1台の騒ぎどころではない。システムが止まったせいで、コンビニからビールやチューハイが消える事態に発展したという。これ、下手したら私の晩酌ライフに直撃する大事件じゃないか。
考えてみれば、企業の情報システムって今や冷蔵庫や電気と同じくらい社会インフラだ。DDoS攻撃みたいに防ぎきれないものもあるけれど、ランサムウェアなんて内部設計や運用でかなり対策できるはず。多層防御とかゼロトラストとか横文字が並ぶけど、要するに「ちゃんと備えとけ」って話だ。それなのに全国規模でシステムが止まる──これは怠慢と呼ばれても仕方がない。ここ5年だけでもKADOKAWA、名古屋港、HOYAといった大企業が同じ目に遭っている。サイバー攻撃はもはや夏の蚊みたいなもので、毎年必ず出るのに「まあ大丈夫だろう」で刺されるパターン。
結局セキュリティは「何も起きないこと」が成果だから地味に扱われる。でも、その地味さを軽視した結果、社会全体に迷惑をかけるなら、それは経済合理性じゃなくてただのズボラだ。池井戸潤の『空飛ぶタイヤ』を思い出す。大企業の見えないリスクが下請けや消費者にしわ寄せされる構図は、サイバー攻撃にもぴったり重なる。責任をあいまいにして、公共性を軽んじて、最後に信頼を失う──お決まりの三段落ちだ。
結局のところ、企業は「儲けるため」にあるだけじゃない。「迷惑をかけない」存在でないと社会が困る。パソコンのドライバー探しに右往左往する私でさえ、ちょっとはその自覚がある。大企業がそれを忘れていたら笑えない。
というわけで今日の教訓。
「古いPCはLinuxで延命、企業はセキュリティで延命」
どちらもサボると、酒の一杯さえ失うことになるのだ。
高市新総裁と公明党 ― 2025年10月05日
自民党の新総裁に高市早苗氏が就任した。日本で初めて女性総裁が誕生し、首相就任の可能性も現実味を帯びる歴史的瞬間だ。しかし政党関係者もメディアも、その事実を正面から歓迎する声はほとんどない。女性リーダーの誕生が進歩と捉えられず、右派色や靖国参拝など古色蒼然としたレッテルで片付けられるのは、政治とメディアの停滞を象徴している。
表向きは政策懸念を理由に高市氏を牽制する公明党。しかし、本当に恐れているのは国土交通省大臣ポストと、そこから派生する公共事業利権だ。大阪では自公協力でも候補が落選する事態が続き、かつての「票読みの魔術師」としての力も陰りを見せている。にもかかわらず、居丈高に牽制を続ける姿は、焦りの裏返しにすぎない。こうして自公連立は、理念や政策よりも議員が当選するための単なる選挙互助会に成り下がっているのだ。
政党は理念と政策で国民に信を問うべきである。だが自公連立は選挙協力を常態化させ、候補者調整という密室の取引を優先してきた。その結果、有権者は自分の一票がどこに届くのか分からず、政治不信や棄権が広がる。公共事業やインフラ投資が硬直化し、地方経済が停滞するのも、ポスト配分優先の政治構造の産物である。
さらに、公明党は憲法改正や安全保障、スパイ防止法の分野でもブレーキ役を演じ続けた。「人権配慮」や「平和主義」という建前の裏には、支持母体や中国への配慮が透ける。結果として国家の制度整備は停滞し、国民の安全や利益が後回しにされてきた。理念なき野合が、政治と国民の距離を広げているのである。
政治は理念と政策に基づき、国民に選ばれる覚悟を示すべきだ。議席の融通とポストの取引に依存する現状は、民主主義の形骸化を招く。初の女性総裁誕生の冷遇に象徴されるように、政治が信念を失えば国民も政治を見限る。政党連携が当選互助会に成り下がる限り、信頼の回復は望めない。政党は理念に基づく厳格な姿勢を取り戻す覚悟を迫られている。
「理念なき野合」は政治を腐らせる毒であり、それを断ち切る勇気こそが、政治の信頼を再生する唯一の道である。内外に敵の多い高市氏にそれができるのかどうか。見ごたえのある政治をしてほしい。
表向きは政策懸念を理由に高市氏を牽制する公明党。しかし、本当に恐れているのは国土交通省大臣ポストと、そこから派生する公共事業利権だ。大阪では自公協力でも候補が落選する事態が続き、かつての「票読みの魔術師」としての力も陰りを見せている。にもかかわらず、居丈高に牽制を続ける姿は、焦りの裏返しにすぎない。こうして自公連立は、理念や政策よりも議員が当選するための単なる選挙互助会に成り下がっているのだ。
政党は理念と政策で国民に信を問うべきである。だが自公連立は選挙協力を常態化させ、候補者調整という密室の取引を優先してきた。その結果、有権者は自分の一票がどこに届くのか分からず、政治不信や棄権が広がる。公共事業やインフラ投資が硬直化し、地方経済が停滞するのも、ポスト配分優先の政治構造の産物である。
さらに、公明党は憲法改正や安全保障、スパイ防止法の分野でもブレーキ役を演じ続けた。「人権配慮」や「平和主義」という建前の裏には、支持母体や中国への配慮が透ける。結果として国家の制度整備は停滞し、国民の安全や利益が後回しにされてきた。理念なき野合が、政治と国民の距離を広げているのである。
政治は理念と政策に基づき、国民に選ばれる覚悟を示すべきだ。議席の融通とポストの取引に依存する現状は、民主主義の形骸化を招く。初の女性総裁誕生の冷遇に象徴されるように、政治が信念を失えば国民も政治を見限る。政党連携が当選互助会に成り下がる限り、信頼の回復は望めない。政党は理念に基づく厳格な姿勢を取り戻す覚悟を迫られている。
「理念なき野合」は政治を腐らせる毒であり、それを断ち切る勇気こそが、政治の信頼を再生する唯一の道である。内外に敵の多い高市氏にそれができるのかどうか。見ごたえのある政治をしてほしい。
雪冤 袴田事件・新プロジェクトX ― 2025年10月06日
『新プロジェクトX~挑戦者たち~ 雪冤 袴田事件』が先日放送された。放送直後から大きな反響を呼んだのは、この番組が「戦後最大の冤罪」と言われる事件を、司法制度そのものの病理として描いたからだ。1966年に起きた一家4人殺害・放火事件で逮捕された袴田巌氏は、死刑判決を受け、2014年まで48年間死刑囚として拘束され続けた。決め手となったのは血痕付きの「味噌漬けの衣類」だったが、物理的条件から不自然であり、後に「捏造の疑いが極めて濃厚」と指摘された。それでも裁判所は追認し、半世紀にわたって一人の人間の自由と尊厳を奪ったのだ。
袴田事件は氷山の一角にすぎない。足利事件では杜撰なDNA鑑定で無期懲役が言い渡され、志布志事件では村人が集団で「でっち上げ」られた。東住吉事件では火災原因が科学的に否定され、大川原化工機事件では公安部が専門家供述を「作文」した事実まで露呈した。いずれも警察・検察の証拠捏造や違法捜査が司法の場で認定されたが、関係者が刑事責任を問われた例はほとんどない。ここに日本の刑事司法の最大の欠陥がある。
なぜ捜査機関は罰せられないのか。まず、違法収集証拠に対して裁判所が甘い。米国なら「ブレイディ・ルール」により検察は有利証拠を必ず開示し、違反すれば有罪は覆る。証拠捏造は司法妨害罪に直結する。イギリスでは警察の不正を監視する独立機関があり、ドイツでは違法証拠は即時排除される。日本のように「違法でも証拠能力は認める」という運用は、先進国では極めて特異だ。
次に再審制度の壁である。日本の再審請求は検察が証拠開示を拒める仕組みを残し、裁判所も「新証拠の明白性」を厳しく求める。欧州には再審請求を支援する独立委員会があるが、日本にはその仕組みすら存在しない。つまり、日本の刑事司法は「誤りがあっても修正されない」「不正を働いても罰せられない」二重の免責構造を抱えている。これは偶発的なミスではなく、制度的必然として冤罪を生み出す仕組みだ。まるで審判のいない試合で、反則が見逃され続けるのと同じである。しかもそれを運用するのは国家権力だ。冤罪は「過去の悲劇」ではなく、現在進行形の制度的暴力と呼ぶべきだろう。
国会も動き始めてはいる。2024年には超党派の議員連盟が再審法改正に向けて発足し、証拠開示の義務化や検察の不服申立禁止が議論されている。しかし制度改革だけでは足りない。過去の冤罪における証拠捏造や加害構造の検証、被害者への名誉回復と国家の公式謝罪が不可欠だ。警察と検察が不正を働いても誰も責任を取らない――この現実を「無法地帯」と言わずして何と言うのか。法の支配とは権力を制限するための原理である。国家権力がその外にいるなら、それはもはや法治国家ではない。NHKが描いた袴田事件は、司法の失敗を語るドキュメンタリーであると同時に、「この国は本当に法治国家なのか」という私たちへの問いそのものだ。
袴田事件は氷山の一角にすぎない。足利事件では杜撰なDNA鑑定で無期懲役が言い渡され、志布志事件では村人が集団で「でっち上げ」られた。東住吉事件では火災原因が科学的に否定され、大川原化工機事件では公安部が専門家供述を「作文」した事実まで露呈した。いずれも警察・検察の証拠捏造や違法捜査が司法の場で認定されたが、関係者が刑事責任を問われた例はほとんどない。ここに日本の刑事司法の最大の欠陥がある。
なぜ捜査機関は罰せられないのか。まず、違法収集証拠に対して裁判所が甘い。米国なら「ブレイディ・ルール」により検察は有利証拠を必ず開示し、違反すれば有罪は覆る。証拠捏造は司法妨害罪に直結する。イギリスでは警察の不正を監視する独立機関があり、ドイツでは違法証拠は即時排除される。日本のように「違法でも証拠能力は認める」という運用は、先進国では極めて特異だ。
次に再審制度の壁である。日本の再審請求は検察が証拠開示を拒める仕組みを残し、裁判所も「新証拠の明白性」を厳しく求める。欧州には再審請求を支援する独立委員会があるが、日本にはその仕組みすら存在しない。つまり、日本の刑事司法は「誤りがあっても修正されない」「不正を働いても罰せられない」二重の免責構造を抱えている。これは偶発的なミスではなく、制度的必然として冤罪を生み出す仕組みだ。まるで審判のいない試合で、反則が見逃され続けるのと同じである。しかもそれを運用するのは国家権力だ。冤罪は「過去の悲劇」ではなく、現在進行形の制度的暴力と呼ぶべきだろう。
国会も動き始めてはいる。2024年には超党派の議員連盟が再審法改正に向けて発足し、証拠開示の義務化や検察の不服申立禁止が議論されている。しかし制度改革だけでは足りない。過去の冤罪における証拠捏造や加害構造の検証、被害者への名誉回復と国家の公式謝罪が不可欠だ。警察と検察が不正を働いても誰も責任を取らない――この現実を「無法地帯」と言わずして何と言うのか。法の支配とは権力を制限するための原理である。国家権力がその外にいるなら、それはもはや法治国家ではない。NHKが描いた袴田事件は、司法の失敗を語るドキュメンタリーであると同時に、「この国は本当に法治国家なのか」という私たちへの問いそのものだ。
Nスぺ・亡命中国人のアメリカ ― 2025年10月07日
NHKスペシャルと聞くと、「今夜こそ社会の裏側に切り込むぞ」と期待する向きも多いだろう。しかし、開けてみれば当たり外れが激しい。過日の袴田事件を描いたプロジェクトXは日本の司法制度の脆さを鋭く抉った力作だったが、不法移民や亡命問題になると、NHKはなぜか片目だけで見る癖が出る。
最新作「自由への走線・亡命中国人のアメリカ」もその典型だ。南米経由で米国に渡る中国人を追い、涙と数字を散りばめた構成。エンディングに出てくる「却下率73.5%」「強制送還34万人超」という数字が、誰の話なのかは説明なし。中国人だけの件数なのか、全体の統計なのか不明で、視聴者に誤解を与えかねない。
実際の制度はもっと複雑だ。アメリカの亡命申請には、合法的に入国して行う「肯定的亡命」と、国境で拘束された際に行う「防御的亡命」の二系統がある。統計に出てくる「処理件数」には、書類不備や本人不在で自動的に終了したケースも含まれ、必ずしも「じっくり審査された件数」ではない。複雑な案件の本格的審査は、全体の半分にも満たない。こうした前提を説明せず、数字だけを並べれば、視聴者は「米国は非情だ」と短絡的に受け取ってしまう。
中国人の場合、申請は約2万件、却下は1万件ほど。数字の切り取り方次第で「大半が落ちている」印象にも、「半分は通っている」印象にもなる。NHKはこの背景を説明せず、「非人道的政策に泣く中国人」を強調するばかり。なぜEUやカナダではなく米国に集中するのか?理由は単純で、米国が制度上、亡命申請が比較的しやすい国だからだ。トランプ政権下で規制は他国並みに強化されたが、それを「非人道」と批判する映像ばかりを流す。視聴者は「なぜ米国なのか」を知る機会を奪われるわけである。
さらに米国当局は「裁判官740人で年間70万件処理可能」と胸を張るが、現場ではそんな単純処理は一部案件に限られる。複雑な審理を高速でこなすのは現実的に不可能で、数字はあくまで制度上の理屈でしかない。NHKはこの前提を説明せず、統計を印象的に切り取って見せる。まるで「食べ放題2980円」を大々的に宣伝して、デザートは一人一皿まで、ドリンクは別料金、という但し書きを隠す居酒屋のようだ。
公共放送なら、数字の裏に潜む現実や制度の限界まで丁寧に伝えるべきだろう。ところが近年のNHKは、アメリカや移民問題に関して、CNN顔負けのリベラル演出に向かう傾向がある。こうした構図では、「誰かの意向でシナリオを書いているのでは?」と勘ぐられても仕方ない。
それでもNHKドキュメンタリーには玉も石もある。問題は、数字や制度を軽く扱うと、視聴者が大切な背景を見逃し、思い込みで「非人道だ」と判断してしまう点だ。皮肉たっぷりに見せつつも、そこを公平な資料で補うだけで、ドキュメンタリーの説得力は格段に上がるのに…残念だ。
最新作「自由への走線・亡命中国人のアメリカ」もその典型だ。南米経由で米国に渡る中国人を追い、涙と数字を散りばめた構成。エンディングに出てくる「却下率73.5%」「強制送還34万人超」という数字が、誰の話なのかは説明なし。中国人だけの件数なのか、全体の統計なのか不明で、視聴者に誤解を与えかねない。
実際の制度はもっと複雑だ。アメリカの亡命申請には、合法的に入国して行う「肯定的亡命」と、国境で拘束された際に行う「防御的亡命」の二系統がある。統計に出てくる「処理件数」には、書類不備や本人不在で自動的に終了したケースも含まれ、必ずしも「じっくり審査された件数」ではない。複雑な案件の本格的審査は、全体の半分にも満たない。こうした前提を説明せず、数字だけを並べれば、視聴者は「米国は非情だ」と短絡的に受け取ってしまう。
中国人の場合、申請は約2万件、却下は1万件ほど。数字の切り取り方次第で「大半が落ちている」印象にも、「半分は通っている」印象にもなる。NHKはこの背景を説明せず、「非人道的政策に泣く中国人」を強調するばかり。なぜEUやカナダではなく米国に集中するのか?理由は単純で、米国が制度上、亡命申請が比較的しやすい国だからだ。トランプ政権下で規制は他国並みに強化されたが、それを「非人道」と批判する映像ばかりを流す。視聴者は「なぜ米国なのか」を知る機会を奪われるわけである。
さらに米国当局は「裁判官740人で年間70万件処理可能」と胸を張るが、現場ではそんな単純処理は一部案件に限られる。複雑な審理を高速でこなすのは現実的に不可能で、数字はあくまで制度上の理屈でしかない。NHKはこの前提を説明せず、統計を印象的に切り取って見せる。まるで「食べ放題2980円」を大々的に宣伝して、デザートは一人一皿まで、ドリンクは別料金、という但し書きを隠す居酒屋のようだ。
公共放送なら、数字の裏に潜む現実や制度の限界まで丁寧に伝えるべきだろう。ところが近年のNHKは、アメリカや移民問題に関して、CNN顔負けのリベラル演出に向かう傾向がある。こうした構図では、「誰かの意向でシナリオを書いているのでは?」と勘ぐられても仕方ない。
それでもNHKドキュメンタリーには玉も石もある。問題は、数字や制度を軽く扱うと、視聴者が大切な背景を見逃し、思い込みで「非人道だ」と判断してしまう点だ。皮肉たっぷりに見せつつも、そこを公平な資料で補うだけで、ドキュメンタリーの説得力は格段に上がるのに…残念だ。
ノーベル賞・京大出身坂口氏 ― 2025年10月08日
2025年のノーベル生理学・医学賞を手にしたのは、京都大学出身の免疫学者・坂口志文氏。受賞理由は、免疫の暴走を抑える「制御性T細胞(Treg)」の発見と、その制御機構の解明だ。免疫を攻めの武器と見ていた時代に、「守るためのブレーキ」が存在すると唱えた発想は、まさに常識への反逆だった。自己免疫疾患やがん免疫治療の概念を覆した功績に、世界の研究者が頭を垂れたのも当然だろう。
坂口氏は1976年に京都大学医学部を卒業。当初は精神科医を志していたが、免疫学における「自己と非自己の境界」という哲学的テーマに惹かれ、研究の世界に足を踏み入れたと語っている。結果として彼は、人間社会よりもずっと素直な「細胞社会」の理屈を見抜いてしまった。免疫学とは結局、人間の政治学のミクロ版なのかもしれない。
今回の受賞で、学界の永遠の話題「東大と京大の違い」がまたぞろ蒸し返された。東京大学は巨額の研究費と官僚ネットワークを誇り、政策の中枢と直結する“国家の頭脳”。だが、教授会は派閥と序列の温床で、学閥の影が消えない。研究テーマも「踏襲」「継承」が好まれ、若手が異端の発想を持ち込もうものなら、空気が一気に冷える。いわば“自由の管理された大学”だ。
対して京都大学は、建物は古く、設備も貧しいが、「好きな研究をやれ」という放任主義が伝統だ。行政との距離は遠く、空気はゆるい。だがその「ゆるさ」こそが、坂口氏のような型破りな研究者を生む。東京がシステムで人を選ぶなら、京都は人がシステムを壊す。研究の本質が、体制順応ではなく知的反逆にあることを、今回の受賞は静かに証明してみせた。
結局、研究の豊かさを決めるのは予算でも施設でもない。制度の外に出る勇気と、常識に「なぜ?」を突きつける好奇心だ。坂口氏の栄誉は、見た目の質素さの裏にある知的豊かさの象徴である。豪華な研究棟で同調を競うより、狭い実験室で孤独に考える方が、世界を変えることもある。日本の学術界に漂う“官僚的知性”への痛烈なカウンターとして、京都の風はまだ自由だ。
坂口氏は1976年に京都大学医学部を卒業。当初は精神科医を志していたが、免疫学における「自己と非自己の境界」という哲学的テーマに惹かれ、研究の世界に足を踏み入れたと語っている。結果として彼は、人間社会よりもずっと素直な「細胞社会」の理屈を見抜いてしまった。免疫学とは結局、人間の政治学のミクロ版なのかもしれない。
今回の受賞で、学界の永遠の話題「東大と京大の違い」がまたぞろ蒸し返された。東京大学は巨額の研究費と官僚ネットワークを誇り、政策の中枢と直結する“国家の頭脳”。だが、教授会は派閥と序列の温床で、学閥の影が消えない。研究テーマも「踏襲」「継承」が好まれ、若手が異端の発想を持ち込もうものなら、空気が一気に冷える。いわば“自由の管理された大学”だ。
対して京都大学は、建物は古く、設備も貧しいが、「好きな研究をやれ」という放任主義が伝統だ。行政との距離は遠く、空気はゆるい。だがその「ゆるさ」こそが、坂口氏のような型破りな研究者を生む。東京がシステムで人を選ぶなら、京都は人がシステムを壊す。研究の本質が、体制順応ではなく知的反逆にあることを、今回の受賞は静かに証明してみせた。
結局、研究の豊かさを決めるのは予算でも施設でもない。制度の外に出る勇気と、常識に「なぜ?」を突きつける好奇心だ。坂口氏の栄誉は、見た目の質素さの裏にある知的豊かさの象徴である。豪華な研究棟で同調を競うより、狭い実験室で孤独に考える方が、世界を変えることもある。日本の学術界に漂う“官僚的知性”への痛烈なカウンターとして、京都の風はまだ自由だ。
熱狂の裏で進行「亡国円安」 ― 2025年10月09日
高市新総裁の誕生に沸く日本。メディアは「女性初の宰相誕生」とはしゃぎ、株式市場は祝賀ムードで急騰した。だが、その裏で為替市場は静かに悲鳴を上げている。円がじりじりと値を失うこの現象は、単なる金利差の問題ではない。構造的な「亡国円安」が進行しているのだ。政府・日銀は「FRB(米連邦準備制度理事会)の利下げが始まれば円高方向に戻る」と説明するが、それは信仰に近い楽観論にすぎない。確かに、米国のインフレは沈静化しつつあり、金利差が縮まる可能性はある。だが、為替を動かすのは経済理屈より“政治の力”である。いま円を追い詰めているのは、まさにこの政治リスクだ。
注目すべきは、今月予定されるトランプ前大統領の来日である。市場関係者の一部は「単なる表敬訪問ではない」と見ている。彼の目的は、赤沢大臣との交渉で日本側に約束させたとされる「80兆円規模の対米投資」の履行を迫ることだろう。これが実現すれば、巨額の円売り・ドル買いが一気に発生し、FRBの利下げ効果など吹き飛ぶ規模の円安圧力になる。
この80兆円は、名目上「経済協力」だが、実態は米国市場への“政治献金”に近い。トランプ氏は高関税をちらつかせながら、日本企業に米国内での投資と生産移転を促すだろう。産業は空洞化し、雇用と技術が流出。しかも、その資金がドル建てで流れる以上、為替市場には新たな円売りが生まれる。つまり、日本は“カネも技術も差し出す”二重の国益損失を強いられる構図だ。
石破政権が「関税回避」を優先したあまり、安全保障で使える外交カードを切り捨てたツケでもある。本来なら、防衛装備の共同開発や同盟強化など“戦略的支出”として再定義する余地があった。だが実際には、トランプ氏の機嫌取りのための“即金外交”に終わり、今その代償が為替市場に噴き出している。
一方、日経平均の爆上げは、冷静に見れば“嵐の前の打ち上げ花火”だ。株高を演出しても、裏ではドル買い圧力が進み、円はさらに沈む。政府が「静観」を決め込む間に、80兆円の資金移動が現実化すれば、円は160円台に突入しても不思議ではない。
笑うのは投資家だけ。輸入物価の高騰で苦しむ庶民にとって、円安はすでに生活破壊のレベルだ。それでも政権は「市場が落ち着くまで見守る」と繰り返すだろう。だが、市場を狂わせているのは外部要因ではなく、石破政権が交わした“売国的取引”そのものだ。
「FRBが利下げすれば円高になる」という希望は、80兆円のドル買いという現実の前では紙屑に等しい。高市政権が掲げる「経済自立」は砂上の楼閣になりかねない。株価がいくら上がっても、それが“亡国通貨”の上に築かれた砂上の繁栄である限り、日本は再び取り戻せない代償を払うことになる。今からでも前政権は思慮が足りなかったと・・・言えるわけないか。
注目すべきは、今月予定されるトランプ前大統領の来日である。市場関係者の一部は「単なる表敬訪問ではない」と見ている。彼の目的は、赤沢大臣との交渉で日本側に約束させたとされる「80兆円規模の対米投資」の履行を迫ることだろう。これが実現すれば、巨額の円売り・ドル買いが一気に発生し、FRBの利下げ効果など吹き飛ぶ規模の円安圧力になる。
この80兆円は、名目上「経済協力」だが、実態は米国市場への“政治献金”に近い。トランプ氏は高関税をちらつかせながら、日本企業に米国内での投資と生産移転を促すだろう。産業は空洞化し、雇用と技術が流出。しかも、その資金がドル建てで流れる以上、為替市場には新たな円売りが生まれる。つまり、日本は“カネも技術も差し出す”二重の国益損失を強いられる構図だ。
石破政権が「関税回避」を優先したあまり、安全保障で使える外交カードを切り捨てたツケでもある。本来なら、防衛装備の共同開発や同盟強化など“戦略的支出”として再定義する余地があった。だが実際には、トランプ氏の機嫌取りのための“即金外交”に終わり、今その代償が為替市場に噴き出している。
一方、日経平均の爆上げは、冷静に見れば“嵐の前の打ち上げ花火”だ。株高を演出しても、裏ではドル買い圧力が進み、円はさらに沈む。政府が「静観」を決め込む間に、80兆円の資金移動が現実化すれば、円は160円台に突入しても不思議ではない。
笑うのは投資家だけ。輸入物価の高騰で苦しむ庶民にとって、円安はすでに生活破壊のレベルだ。それでも政権は「市場が落ち着くまで見守る」と繰り返すだろう。だが、市場を狂わせているのは外部要因ではなく、石破政権が交わした“売国的取引”そのものだ。
「FRBが利下げすれば円高になる」という希望は、80兆円のドル買いという現実の前では紙屑に等しい。高市政権が掲げる「経済自立」は砂上の楼閣になりかねない。株価がいくら上がっても、それが“亡国通貨”の上に築かれた砂上の繁栄である限り、日本は再び取り戻せない代償を払うことになる。今からでも前政権は思慮が足りなかったと・・・言えるわけないか。
煙の向こうに見えるもの ― 2025年10月10日
昨日、那覇発羽田行きANA994便の機内に、突然、白い煙が立ち上った。原因は乗客が持ち込んだモバイルバッテリー。乗務員の冷静な初動で鎮火し、けが人は出なかった。だが、この小さな煙は、空の上から日本の「安全神話」に静かに穴をあけた。ここ数年、モバイルバッテリーの発火・発煙はもはや季節の風物詩である。8月には東海道新幹線「のぞみ411号」と上越新幹線「とき300号」で発煙が相次ぎ、9月には東京都杉並区のマンションで充電中のバッテリーが爆ぜ、6人が軽傷を負った。いずれも“激安・無印・ノーチェック”の中国製が関係している。
中国では今年上半期だけで135万個を超えるバッテリーがリコール対象となり、9000社が認証停止、600社が認証取り消し。もはや“発火の量産国”と化している。原因は、セパレーター破損、過充電、異物混入、温度管理不良と、もはや「炎上理由の総合商社」だ。
一方、日本ではネット通販を経由してPSE未取得の製品が野放し状態。経産省と消費者庁が注意喚起を繰り返しても、制度の網は相変わらずザル。Amazonの“ワンクリック”が、火災保険の対象を試すボタンになりつつある。
私たちは「スマホの充電」という日常行為で、いつでも小さな爆弾を抱えているのだ。その一方で、日本の技術陣は新たな解答を模索している。ナトリウムイオン電池、酸化物系全固体電池など、“燃えない”電池の開発が静かに進む。日本電気硝子(NEG)が開発する酸化物系ナトリウム電池は、ガラス封着技術によって200℃を超えても安定動作し、発火リスクを構造的に封じる。原料のナトリウムは海水由来で、リチウムのように産地リスクにも左右されない。資源・安全・コストの三拍子がそろった理想解だ。
安全技術で世界をリードしてきた日本は、PSEやUN38.3などの国際規格と整合をとりつつ、医療・公共交通・教育分野への導入を進めている。だがその裏で、中国やフランスは早くも量産を開始。「安全確認より市場シェア」が合言葉のように走り出している。米国のNatron Energyが技術未熟のまま商業化に踏み切り、結局は事業停止に追い込まれたのは、スピード競争の愚を象徴している。
ナトリウムイオン電池は、リチウム電池が刻んだ“発火の系譜”を断ち切れるのか。鍵を握るのは、技術の成熟度と制度整合性、そして「慎重さ」を失わない開発文化だ。量産で勝負する国は数あれど、「安全で勝負できる国」はそう多くない。日本はその希少な一つであるべきだ。
空の上で立ち上った一筋の煙は、地上の技術と制度に向けた“警告信号”だった。この狼煙を、見なかったことにしてはいけない。
中国では今年上半期だけで135万個を超えるバッテリーがリコール対象となり、9000社が認証停止、600社が認証取り消し。もはや“発火の量産国”と化している。原因は、セパレーター破損、過充電、異物混入、温度管理不良と、もはや「炎上理由の総合商社」だ。
一方、日本ではネット通販を経由してPSE未取得の製品が野放し状態。経産省と消費者庁が注意喚起を繰り返しても、制度の網は相変わらずザル。Amazonの“ワンクリック”が、火災保険の対象を試すボタンになりつつある。
私たちは「スマホの充電」という日常行為で、いつでも小さな爆弾を抱えているのだ。その一方で、日本の技術陣は新たな解答を模索している。ナトリウムイオン電池、酸化物系全固体電池など、“燃えない”電池の開発が静かに進む。日本電気硝子(NEG)が開発する酸化物系ナトリウム電池は、ガラス封着技術によって200℃を超えても安定動作し、発火リスクを構造的に封じる。原料のナトリウムは海水由来で、リチウムのように産地リスクにも左右されない。資源・安全・コストの三拍子がそろった理想解だ。
安全技術で世界をリードしてきた日本は、PSEやUN38.3などの国際規格と整合をとりつつ、医療・公共交通・教育分野への導入を進めている。だがその裏で、中国やフランスは早くも量産を開始。「安全確認より市場シェア」が合言葉のように走り出している。米国のNatron Energyが技術未熟のまま商業化に踏み切り、結局は事業停止に追い込まれたのは、スピード競争の愚を象徴している。
ナトリウムイオン電池は、リチウム電池が刻んだ“発火の系譜”を断ち切れるのか。鍵を握るのは、技術の成熟度と制度整合性、そして「慎重さ」を失わない開発文化だ。量産で勝負する国は数あれど、「安全で勝負できる国」はそう多くない。日本はその希少な一つであるべきだ。
空の上で立ち上った一筋の煙は、地上の技術と制度に向けた“警告信号”だった。この狼煙を、見なかったことにしてはいけない。