司法の闇=プレサンス事件 ― 2026年01月08日
大阪地検特捜部が主導したプレサンス事件をめぐり、違法な取り調べを受けたとして元主任検事を刑事告発していた山岸元・元社長。その告発について大阪高検は「不起訴処分を維持する」と判断した。無罪が確定してなお、捜査の誤りを問う声は今回も検察組織の分厚い壁にはね返された形であり、関係者に広がるのは驚きではなく、諦念に近い怒りである。プレサンス事件では、大阪地検特捜部が山岸氏を横領幇助容疑で逮捕・起訴した。しかし直接証拠は乏しく、供述の信用性も当初から揺らいでいた。それでも拘留は248日に及び、経営者としての社会的信用は深く損なわれた。公判が始まると検察が描いた「犯罪ストーリー」は次々と崩れ、最終的に無罪が確定。裁判所は特捜部が構築した犯罪構造そのものを否定した。
それでも、捜査を主導した元主任検事への刑事告発は大阪地検により「嫌疑なし」とされ、大阪高検の再検討でも覆らなかった。山岸氏側は付審判請求という最後の手段に踏み切ったが、検察は自らの判断の正当性を崩そうとしない。無罪判決よりも組織のメンツを優先しているように見える。
付審判請求の判断を下すのは大阪地裁であり、望みが完全に断たれたわけではないが、同事件の国家賠償訴訟では大阪地裁が原告の主張を退けており、楽観視はできない。一方で、この地裁判決は、高裁の刑事裁判が明確に示した「検察捜査の不当性」と整合せず、大阪高裁の判断を事実上脇に置いたものにも見える。こうした矛盾を踏まえれば、仮に付審判請求が却下されたとしても、国家賠償控訴審の大阪高裁で逆転勝訴となる可能性は残されている。
検察側の反論は定型的だ。「この事件は全面的な証拠開示義務が課される類型ではない。法の定める範囲で開示は尽くしている」と。しかし問題は、直接証拠に乏しく供述に依存した事件であるにもかかわらず、供述に至る経緯や変遷を示す「無罪に資する情報」が検察の裁量で十分に俎上に載せられなかった点にある。捜査の適否を外部が検証できない構造が温存されているのである。
この構図は大川原化工機事件と驚くほど似ている。警視庁公安部は輸出規制違反と誤認し、経営者らを逮捕、11カ月に及ぶ長期拘留を行った。後に装置が規制対象外であることが判明し、内部告発を契機に誤認捜査が明るみに出た。検察は起訴を取り消し、裁判所は逮捕・勾留を違法と認定。国と東京都に賠償を命じる異例の結末となった。
両事件を分けた最大の違いは、内部告発という“外圧”の有無である。大川原事件では偶然の内部告発が安全弁として機能したが、プレサンス事件にはそれがなかった。無罪は勝ち取ったものの、捜査手法の妥当性が正面から検証されることはなかった。
無罪は出た。だが、誰も責任を取らない。この現実こそ、両事件に共通する日本の刑事司法の「平常運転」ではないか。国会が行政と司法のあり方を正すべきだが、検察や裁判所を敵に回したくないという弱腰は今も続く。頼みの綱であるメディアですら、この闇を追及し続ける存在はごくわずかだ。これで権威主義国家を揶揄する資格があるのかと思う。
それでも、捜査を主導した元主任検事への刑事告発は大阪地検により「嫌疑なし」とされ、大阪高検の再検討でも覆らなかった。山岸氏側は付審判請求という最後の手段に踏み切ったが、検察は自らの判断の正当性を崩そうとしない。無罪判決よりも組織のメンツを優先しているように見える。
付審判請求の判断を下すのは大阪地裁であり、望みが完全に断たれたわけではないが、同事件の国家賠償訴訟では大阪地裁が原告の主張を退けており、楽観視はできない。一方で、この地裁判決は、高裁の刑事裁判が明確に示した「検察捜査の不当性」と整合せず、大阪高裁の判断を事実上脇に置いたものにも見える。こうした矛盾を踏まえれば、仮に付審判請求が却下されたとしても、国家賠償控訴審の大阪高裁で逆転勝訴となる可能性は残されている。
検察側の反論は定型的だ。「この事件は全面的な証拠開示義務が課される類型ではない。法の定める範囲で開示は尽くしている」と。しかし問題は、直接証拠に乏しく供述に依存した事件であるにもかかわらず、供述に至る経緯や変遷を示す「無罪に資する情報」が検察の裁量で十分に俎上に載せられなかった点にある。捜査の適否を外部が検証できない構造が温存されているのである。
この構図は大川原化工機事件と驚くほど似ている。警視庁公安部は輸出規制違反と誤認し、経営者らを逮捕、11カ月に及ぶ長期拘留を行った。後に装置が規制対象外であることが判明し、内部告発を契機に誤認捜査が明るみに出た。検察は起訴を取り消し、裁判所は逮捕・勾留を違法と認定。国と東京都に賠償を命じる異例の結末となった。
両事件を分けた最大の違いは、内部告発という“外圧”の有無である。大川原事件では偶然の内部告発が安全弁として機能したが、プレサンス事件にはそれがなかった。無罪は勝ち取ったものの、捜査手法の妥当性が正面から検証されることはなかった。
無罪は出た。だが、誰も責任を取らない。この現実こそ、両事件に共通する日本の刑事司法の「平常運転」ではないか。国会が行政と司法のあり方を正すべきだが、検察や裁判所を敵に回したくないという弱腰は今も続く。頼みの綱であるメディアですら、この闇を追及し続ける存在はごくわずかだ。これで権威主義国家を揶揄する資格があるのかと思う。