「おこめ券」の迷走農政 ― 2025年11月06日
山下一仁氏は、PRESIDENT誌の記事で鈴木憲和農水相が提唱する「おこめ券」政策を厳しく批判している。氏によれば、これは米価維持のためのアリバイ政策に過ぎず、農水省・JA・農林族議員による「農政トライアングル」が復活しつつある兆候だという。表向きは低所得層への支援だが、実態は供給制限による価格高止まりを正当化する仕組みであり、国民には税負担と高価格の二重苦を強いる。この批判は、近年の米需給データと照らしても説得力がある。2023年と2024年の主食用米はそれぞれ約40万トン不足し、政府は備蓄米を計約60万トン放出して対応したが、なお20万トンの不足が残っている。つまり、構造的な供給不足は解消されていない。にもかかわらず、農水省は2025年産米について「供給過剰」として減産誘導を進めている。
さらに、2025年は猛暑による品質劣化が深刻で、ブランド米を中心に歩留まりが悪化。一等米比率の低下や精米ロスの増加が報告されており、最大745万トンという収穫見込みは現実的ではない。実際の供給量は700万トン台前半にとどまる可能性が高く、2023〜2024年の累積不足を完全に補うには不十分だ。にもかかわらず鈴木農相は、「政府備蓄米を100万トン規模に拡充する」と公言している。
現在の備蓄量はおよそ30万トン前後にまで減少しており、目標達成には今後70万トンを新たに買い入れる必要がある。仮に3年で積み増すとすれば、毎年25万トンを政府が市場から買い上げることになる。しかし現状でも需給はまだ20万トン不足しており、ここに政府の買い入れが加われば、民間流通分はますます逼迫する。需要不足ではなく、むしろ供給不足の中で“備蓄拡大”を唱える政策は、論理的に矛盾しているのだ。
かつて石破茂氏や小泉進次郎氏らが主導した「減反廃止・市場原理化」の流れを、政府はいまきれいに逆走している。あの改革路線は、減反政策に終止符を打とうとした点で方向としては正しかった。そして備蓄米購入で余剰を吸収すれば価格が下がらないことを知っていたからこそ、その方法には躊躇して踏み込まなかったのである。
いま政府が進めようとしているのは、まさにその逆の道だ。再び霞が関・永田町・JAが手を組み、国民負担の上に業界保護の塔を築こうとしている。山下氏の批判は単なる政策論ではなく、数値的にも裏付けられた制度批判だ。農政トライアングルの復権は、かつての改革路線とは正反対の方向へと国を導いている。
結局のところ、「おこめ券」政策は国民や安全保障のためではなく、業界のための制度的装置である。米価維持のための供給調整と補助金政策は、国民にとっては不透明で不合理な負担を強いるものであり、食料政策の持続可能性や経済再生に逆行する。コメ不足を誘導しながらコメ購入のカネを国民に配るというマッチポンプ政策だ。山下氏の警鐘は、農政の透明性と国民的議論の必要性を改めて突きつけている。
さらに、2025年は猛暑による品質劣化が深刻で、ブランド米を中心に歩留まりが悪化。一等米比率の低下や精米ロスの増加が報告されており、最大745万トンという収穫見込みは現実的ではない。実際の供給量は700万トン台前半にとどまる可能性が高く、2023〜2024年の累積不足を完全に補うには不十分だ。にもかかわらず鈴木農相は、「政府備蓄米を100万トン規模に拡充する」と公言している。
現在の備蓄量はおよそ30万トン前後にまで減少しており、目標達成には今後70万トンを新たに買い入れる必要がある。仮に3年で積み増すとすれば、毎年25万トンを政府が市場から買い上げることになる。しかし現状でも需給はまだ20万トン不足しており、ここに政府の買い入れが加われば、民間流通分はますます逼迫する。需要不足ではなく、むしろ供給不足の中で“備蓄拡大”を唱える政策は、論理的に矛盾しているのだ。
かつて石破茂氏や小泉進次郎氏らが主導した「減反廃止・市場原理化」の流れを、政府はいまきれいに逆走している。あの改革路線は、減反政策に終止符を打とうとした点で方向としては正しかった。そして備蓄米購入で余剰を吸収すれば価格が下がらないことを知っていたからこそ、その方法には躊躇して踏み込まなかったのである。
いま政府が進めようとしているのは、まさにその逆の道だ。再び霞が関・永田町・JAが手を組み、国民負担の上に業界保護の塔を築こうとしている。山下氏の批判は単なる政策論ではなく、数値的にも裏付けられた制度批判だ。農政トライアングルの復権は、かつての改革路線とは正反対の方向へと国を導いている。
結局のところ、「おこめ券」政策は国民や安全保障のためではなく、業界のための制度的装置である。米価維持のための供給調整と補助金政策は、国民にとっては不透明で不合理な負担を強いるものであり、食料政策の持続可能性や経済再生に逆行する。コメ不足を誘導しながらコメ購入のカネを国民に配るというマッチポンプ政策だ。山下氏の警鐘は、農政の透明性と国民的議論の必要性を改めて突きつけている。
日本流EC・アスクル大混乱 ― 2025年10月22日
ティッシュもトナーも届かない。先日、EC大手アスクルがランサムウェア攻撃を受け、注文と出荷のシステムが完全に止まった。会社の備品はおろか、個人で頼んだ洗剤や文房具すら発送できない“ネット通販のブラックアウト”である。しかも被害はアスクル本体だけではなかった。無印良品、ロフト、オフィス用品を扱う提携企業にも影響が広がり、在庫も配送もストップ。ネット注文社会の便利さが、一夜にして「紙も買えない不便さ」に変わった。EC企業の命は「早い・正確・止まらない」ことにある。その心臓部を止めてしまったのだから、単なるトラブルでは済まない。これは“技術の問題”ではなく、“経営の怠慢”である。
多くの日本企業がそうであるように、アスクルもセキュリティ対策を「システム部門の仕事」と思い込んでいた。経営陣は「売上が止まる方が怖い」と例外対応を許し、営業現場は「取引先の都合」を優先して安全ルールを緩める。その結果、外部との接続経路──つまり“デジタルの裏口”が開いたままになり、攻撃者に見事に突かれた。今回の侵入経路は物流子会社との接続ルートだったとされる。つまり、倉庫を動かすために設けた便利な線が、結果的にウイルスの侵入口になったのだ。まるで「ドアを開けっ放しにしておきながら、空き巣に入られた」と嘆くようなもの。
本来、EC企業は「24時間つながりっぱなし」で「個人情報の宝庫」なのだから、ゼロトラスト(誰も信用せず確認を重ねる)型の仕組みを作るのが当たり前だ。にもかかわらず、アスクルは取引先ごとに違うルールを適用し、統一的な防御を怠った。これは“ミス”ではなく、“業界への背信”に等しい。消費者にとっては、単に「荷物が遅れた」話ではない。個人情報がどこまで流出したのか、誰も明確に説明できていない。アスクルは便利な日用品を届けてきたが、同時に“安心”までは届けていなかったということだ。
ただ、日本企業の名誉のために言っておくと、世界の中でランサムウェアによって事業が停止した件数は日本が最も少ない。いわばセキュリティ先進国といえるだろう。海外企業の場合、感染すると半数以上が身代金を支払ってしまうことが大きく関係しているのかもしれない。日本はサイバーテロに毅然と対応しているため、テロの標的としては旨味がないのだろう。ただし、それはシステムの普及に多大な時間を要し、損害額も莫大になるというリスクとのトレードオフの上に成り立っていることも事実である。
アスクルの名は「明日来る」から取られているという。だが、今回の事件で私たちが痛感したのは、「安全対策が明日まで来なかった」現実だ。ネット社会では、便利の裏にこそ最大のリスクが潜む。コピー用紙が届く前に、信頼が消える。それが、アスクル事件が突きつけた“日本式デジタル経営”の末路である。
多くの日本企業がそうであるように、アスクルもセキュリティ対策を「システム部門の仕事」と思い込んでいた。経営陣は「売上が止まる方が怖い」と例外対応を許し、営業現場は「取引先の都合」を優先して安全ルールを緩める。その結果、外部との接続経路──つまり“デジタルの裏口”が開いたままになり、攻撃者に見事に突かれた。今回の侵入経路は物流子会社との接続ルートだったとされる。つまり、倉庫を動かすために設けた便利な線が、結果的にウイルスの侵入口になったのだ。まるで「ドアを開けっ放しにしておきながら、空き巣に入られた」と嘆くようなもの。
本来、EC企業は「24時間つながりっぱなし」で「個人情報の宝庫」なのだから、ゼロトラスト(誰も信用せず確認を重ねる)型の仕組みを作るのが当たり前だ。にもかかわらず、アスクルは取引先ごとに違うルールを適用し、統一的な防御を怠った。これは“ミス”ではなく、“業界への背信”に等しい。消費者にとっては、単に「荷物が遅れた」話ではない。個人情報がどこまで流出したのか、誰も明確に説明できていない。アスクルは便利な日用品を届けてきたが、同時に“安心”までは届けていなかったということだ。
ただ、日本企業の名誉のために言っておくと、世界の中でランサムウェアによって事業が停止した件数は日本が最も少ない。いわばセキュリティ先進国といえるだろう。海外企業の場合、感染すると半数以上が身代金を支払ってしまうことが大きく関係しているのかもしれない。日本はサイバーテロに毅然と対応しているため、テロの標的としては旨味がないのだろう。ただし、それはシステムの普及に多大な時間を要し、損害額も莫大になるというリスクとのトレードオフの上に成り立っていることも事実である。
アスクルの名は「明日来る」から取られているという。だが、今回の事件で私たちが痛感したのは、「安全対策が明日まで来なかった」現実だ。ネット社会では、便利の裏にこそ最大のリスクが潜む。コピー用紙が届く前に、信頼が消える。それが、アスクル事件が突きつけた“日本式デジタル経営”の末路である。
コメ価格がちっとも下がらない ― 2025年10月15日
先日、小泉進次郎農林水産相が「備蓄米の買い戻しは早計ではないか」と語った。一見、慎重な態度に見えるが、どうやら単なる慎重さではない。これまでの統計や需給予測が現実を正確に示していないことに疑念を持ち余った米を備蓄米に買い戻す策が、本当に効果的かどうか疑問を抱いたのだろう。政府の説明によれば、2025年産の収穫量は前年比 約68万5,000トン増、合計 747万7,000トンと見込まれている。数字だけ見れば豊作だが、市場の実感は異なる。2023年・2024年には、それぞれ 約40万トン規模の供給不足が生じ、猛暑や作付面積減少、流通の硬直化により、棚に並ぶ主食用米は不足したままだった。にもかかわらず、農水省は「供給過剰」との見通しを繰り返し、備蓄米の放出も遅れた。
2025年にはようやく、随意契約と入札を合わせて約59万トンの備蓄米が市場に投入された(随意契約:27万9,976トン/入札:31万トン、対象は 906社)。しかし、価格は 5kgあたり約4,200円と高値を維持。統計上の豊作が、現実の価格低下には結びついていないことがわかる。背景には、政府統計の「数字だけ」の限界がある。在庫には売れない米、用途外の米、品質の落ちた米が含まれ、消費者の食卓に届く“実効供給”とは乖離している。農水省の需給モデルは、作付面積×収量という定型計算が中心で、品質や用途別の需給構造を反映していない。だからこそ、政策判断と市場感覚にズレが生じるのだ。
小泉氏が導入した随意契約方式も、限定906社という“内輪の取引”にとどまり、買い戻し方針は「市場環境を見てから」と曖昧なまま。戦略的な需給調整には一歩も踏み出せていない。市場関係者の間では「政策より市場の方が現実を理解している」との皮肉も飛び交う。根本的な問題は、名目需給と実効需給の乖離を政府が十分に認識していないことだ。売れない米を計算に入れても、実需は満たされない。必要なのは、品質・用途・流通性を加味した“実効供給モデル”への転換である。
小泉農水相の「改革」は、派手なスローガンに反して中身は不十分。統計精度も備蓄政策も場当たりで、価格の安定を支えているのは市場の自己調整機能そのものだ。数字の信頼性に気づき始めた小泉氏の慎重姿勢は、むしろ現実を見据えた判断と言える。農水省が「数字の整合性」にこだわるあまり、現実の食卓を見失っている限り、コメ価格のゆがみは解消しない。小泉氏が本気で“改革”を名乗るなら、統計のリセットから始めるべきだ。
2025年にはようやく、随意契約と入札を合わせて約59万トンの備蓄米が市場に投入された(随意契約:27万9,976トン/入札:31万トン、対象は 906社)。しかし、価格は 5kgあたり約4,200円と高値を維持。統計上の豊作が、現実の価格低下には結びついていないことがわかる。背景には、政府統計の「数字だけ」の限界がある。在庫には売れない米、用途外の米、品質の落ちた米が含まれ、消費者の食卓に届く“実効供給”とは乖離している。農水省の需給モデルは、作付面積×収量という定型計算が中心で、品質や用途別の需給構造を反映していない。だからこそ、政策判断と市場感覚にズレが生じるのだ。
小泉氏が導入した随意契約方式も、限定906社という“内輪の取引”にとどまり、買い戻し方針は「市場環境を見てから」と曖昧なまま。戦略的な需給調整には一歩も踏み出せていない。市場関係者の間では「政策より市場の方が現実を理解している」との皮肉も飛び交う。根本的な問題は、名目需給と実効需給の乖離を政府が十分に認識していないことだ。売れない米を計算に入れても、実需は満たされない。必要なのは、品質・用途・流通性を加味した“実効供給モデル”への転換である。
小泉農水相の「改革」は、派手なスローガンに反して中身は不十分。統計精度も備蓄政策も場当たりで、価格の安定を支えているのは市場の自己調整機能そのものだ。数字の信頼性に気づき始めた小泉氏の慎重姿勢は、むしろ現実を見据えた判断と言える。農水省が「数字の整合性」にこだわるあまり、現実の食卓を見失っている限り、コメ価格のゆがみは解消しない。小泉氏が本気で“改革”を名乗るなら、統計のリセットから始めるべきだ。
加藤財務相の小役人振り ― 2025年10月13日
自民党総裁選の討論で高市早苗氏が「純債務残高が対GDP比マイナス86.7%で、G7で2番目に健全だ」と発言したことは、日本の財政が「実は健全である」と主張するものであった。この主張の根拠は、IMF(国際通貨基金)が推奨する「公的部門バランスシート(PSBS)」における、国の「純資産(ネット・ワース)」という国際指標である。これは、国が持つすべての「資産」(道路、学校、政府の預金など)から、すべての「負債」(国債などの借金)を差し引いて、最終的な国の財産を計算するものだ。高市氏の意図は、この「純資産」の計算では日本が対GDP比でプラス86.7%であり、「借金よりも資産のほうがはるかに多い資産超過」の状態にあることを強調することであった。
しかし、高市氏はこの発言で決定的な二重の誤りを犯した。「資産」を示す「純資産残高」と言うべきところを「純債務残高」と指標名を間違え、さらに「プラス」を「マイナス」と符号も逆にしてしまったのである。本来は「純資産残高がプラスである」という主張であったにもかかわらず、全く逆の用語と符号で表現してしまったのだ。この二重の誤りを、加藤勝信財務相は見逃さなかった。加藤氏は会見で、「日本は借金で見れば最悪だ」「(金融資産だけ引いた)純債務で見ても状況は変わらない」と反論し、高市氏の発言全体を否定した。加藤氏がここで用いた「純債務(ネット負債)」は、財務省が日頃から使う指標である。これは国の借金から、政府の預金などの「金融資産」だけを引いたものであり、高市氏が重視したインフラなどの「非金融資産」を一切含まない。この財務省指標を使うと、日本は借金が資産を上回るネット負債の状態となり、G7で最も悪い水準になる。
加藤氏は、高市氏の「言葉と符号の言い間違い」という表面的な誤りを指摘すると同時に、議論の土台を、「すべての資産を含める高市氏の指標」から「非金融資産を含めない財務省の指標」へと意図的にすり替えたのである。高市氏の主張は、国のバランスシート全体を見て「財政にはまだ余裕がある」という建設的な国の経営論であったが、加藤氏はその論理構造には触れず、「借金がマイナスなんてありえない」と、言葉尻だけを捉えて高市氏を「財政音痴」であるかのように印象づけた。
財務官僚出身の政治家として、加藤氏は高市氏の言い間違いを十分に理解していたはずである。であれば、「それは言い間違いですよ」と率直に指摘し、PSBSにおける「純資産」と財務省が用いる「ネット負債」という指標の定義と論点の違いを、国民に対して誠実に説明すべきだった。そして、財務省としては高市氏とは異なる見解を持っていることを、堂々と示せばよかったのである。
ところが実際には、相手の「二重の誤り」を逆手に取り、主張全体を封じ込めようとした加藤氏の対応は、政治家としての器量と誠実さを欠いたものと言わざるを得ない。この論争は、言葉尻のミスを利用して論点をすり替えるという、政治家としては度量に欠けた「小役人的」な姿勢を露呈した。これでは、誰もついてこないだろう。昨年の総裁選では、加藤氏が推薦人20人にカツカレーを振る舞ったにもかかわらず、得票は16票にとどまり、4人が「食い逃げした」と揶揄された。こうした出来事も、加藤氏の政治的な求心力の限界を象徴しているように思える。
しかし、高市氏はこの発言で決定的な二重の誤りを犯した。「資産」を示す「純資産残高」と言うべきところを「純債務残高」と指標名を間違え、さらに「プラス」を「マイナス」と符号も逆にしてしまったのである。本来は「純資産残高がプラスである」という主張であったにもかかわらず、全く逆の用語と符号で表現してしまったのだ。この二重の誤りを、加藤勝信財務相は見逃さなかった。加藤氏は会見で、「日本は借金で見れば最悪だ」「(金融資産だけ引いた)純債務で見ても状況は変わらない」と反論し、高市氏の発言全体を否定した。加藤氏がここで用いた「純債務(ネット負債)」は、財務省が日頃から使う指標である。これは国の借金から、政府の預金などの「金融資産」だけを引いたものであり、高市氏が重視したインフラなどの「非金融資産」を一切含まない。この財務省指標を使うと、日本は借金が資産を上回るネット負債の状態となり、G7で最も悪い水準になる。
加藤氏は、高市氏の「言葉と符号の言い間違い」という表面的な誤りを指摘すると同時に、議論の土台を、「すべての資産を含める高市氏の指標」から「非金融資産を含めない財務省の指標」へと意図的にすり替えたのである。高市氏の主張は、国のバランスシート全体を見て「財政にはまだ余裕がある」という建設的な国の経営論であったが、加藤氏はその論理構造には触れず、「借金がマイナスなんてありえない」と、言葉尻だけを捉えて高市氏を「財政音痴」であるかのように印象づけた。
財務官僚出身の政治家として、加藤氏は高市氏の言い間違いを十分に理解していたはずである。であれば、「それは言い間違いですよ」と率直に指摘し、PSBSにおける「純資産」と財務省が用いる「ネット負債」という指標の定義と論点の違いを、国民に対して誠実に説明すべきだった。そして、財務省としては高市氏とは異なる見解を持っていることを、堂々と示せばよかったのである。
ところが実際には、相手の「二重の誤り」を逆手に取り、主張全体を封じ込めようとした加藤氏の対応は、政治家としての器量と誠実さを欠いたものと言わざるを得ない。この論争は、言葉尻のミスを利用して論点をすり替えるという、政治家としては度量に欠けた「小役人的」な姿勢を露呈した。これでは、誰もついてこないだろう。昨年の総裁選では、加藤氏が推薦人20人にカツカレーを振る舞ったにもかかわらず、得票は16票にとどまり、4人が「食い逃げした」と揶揄された。こうした出来事も、加藤氏の政治的な求心力の限界を象徴しているように思える。
熱狂の裏で進行「亡国円安」 ― 2025年10月09日
高市新総裁の誕生に沸く日本。メディアは「女性初の宰相誕生」とはしゃぎ、株式市場は祝賀ムードで急騰した。だが、その裏で為替市場は静かに悲鳴を上げている。円がじりじりと値を失うこの現象は、単なる金利差の問題ではない。構造的な「亡国円安」が進行しているのだ。政府・日銀は「FRB(米連邦準備制度理事会)の利下げが始まれば円高方向に戻る」と説明するが、それは信仰に近い楽観論にすぎない。確かに、米国のインフレは沈静化しつつあり、金利差が縮まる可能性はある。だが、為替を動かすのは経済理屈より“政治の力”である。いま円を追い詰めているのは、まさにこの政治リスクだ。
注目すべきは、今月予定されるトランプ前大統領の来日である。市場関係者の一部は「単なる表敬訪問ではない」と見ている。彼の目的は、赤沢大臣との交渉で日本側に約束させたとされる「80兆円規模の対米投資」の履行を迫ることだろう。これが実現すれば、巨額の円売り・ドル買いが一気に発生し、FRBの利下げ効果など吹き飛ぶ規模の円安圧力になる。
この80兆円は、名目上「経済協力」だが、実態は米国市場への“政治献金”に近い。トランプ氏は高関税をちらつかせながら、日本企業に米国内での投資と生産移転を促すだろう。産業は空洞化し、雇用と技術が流出。しかも、その資金がドル建てで流れる以上、為替市場には新たな円売りが生まれる。つまり、日本は“カネも技術も差し出す”二重の国益損失を強いられる構図だ。
石破政権が「関税回避」を優先したあまり、安全保障で使える外交カードを切り捨てたツケでもある。本来なら、防衛装備の共同開発や同盟強化など“戦略的支出”として再定義する余地があった。だが実際には、トランプ氏の機嫌取りのための“即金外交”に終わり、今その代償が為替市場に噴き出している。
一方、日経平均の爆上げは、冷静に見れば“嵐の前の打ち上げ花火”だ。株高を演出しても、裏ではドル買い圧力が進み、円はさらに沈む。政府が「静観」を決め込む間に、80兆円の資金移動が現実化すれば、円は160円台に突入しても不思議ではない。
笑うのは投資家だけ。輸入物価の高騰で苦しむ庶民にとって、円安はすでに生活破壊のレベルだ。それでも政権は「市場が落ち着くまで見守る」と繰り返すだろう。だが、市場を狂わせているのは外部要因ではなく、石破政権が交わした“売国的取引”そのものだ。
「FRBが利下げすれば円高になる」という希望は、80兆円のドル買いという現実の前では紙屑に等しい。高市政権が掲げる「経済自立」は砂上の楼閣になりかねない。株価がいくら上がっても、それが“亡国通貨”の上に築かれた砂上の繁栄である限り、日本は再び取り戻せない代償を払うことになる。今からでも前政権は思慮が足りなかったと・・・言えるわけないか。
注目すべきは、今月予定されるトランプ前大統領の来日である。市場関係者の一部は「単なる表敬訪問ではない」と見ている。彼の目的は、赤沢大臣との交渉で日本側に約束させたとされる「80兆円規模の対米投資」の履行を迫ることだろう。これが実現すれば、巨額の円売り・ドル買いが一気に発生し、FRBの利下げ効果など吹き飛ぶ規模の円安圧力になる。
この80兆円は、名目上「経済協力」だが、実態は米国市場への“政治献金”に近い。トランプ氏は高関税をちらつかせながら、日本企業に米国内での投資と生産移転を促すだろう。産業は空洞化し、雇用と技術が流出。しかも、その資金がドル建てで流れる以上、為替市場には新たな円売りが生まれる。つまり、日本は“カネも技術も差し出す”二重の国益損失を強いられる構図だ。
石破政権が「関税回避」を優先したあまり、安全保障で使える外交カードを切り捨てたツケでもある。本来なら、防衛装備の共同開発や同盟強化など“戦略的支出”として再定義する余地があった。だが実際には、トランプ氏の機嫌取りのための“即金外交”に終わり、今その代償が為替市場に噴き出している。
一方、日経平均の爆上げは、冷静に見れば“嵐の前の打ち上げ花火”だ。株高を演出しても、裏ではドル買い圧力が進み、円はさらに沈む。政府が「静観」を決め込む間に、80兆円の資金移動が現実化すれば、円は160円台に突入しても不思議ではない。
笑うのは投資家だけ。輸入物価の高騰で苦しむ庶民にとって、円安はすでに生活破壊のレベルだ。それでも政権は「市場が落ち着くまで見守る」と繰り返すだろう。だが、市場を狂わせているのは外部要因ではなく、石破政権が交わした“売国的取引”そのものだ。
「FRBが利下げすれば円高になる」という希望は、80兆円のドル買いという現実の前では紙屑に等しい。高市政権が掲げる「経済自立」は砂上の楼閣になりかねない。株価がいくら上がっても、それが“亡国通貨”の上に築かれた砂上の繁栄である限り、日本は再び取り戻せない代償を払うことになる。今からでも前政権は思慮が足りなかったと・・・言えるわけないか。
日経平均が急騰! ― 2025年09月22日
日経平均がググッと上がった、というニュースを聞くと、「日本経済、ついに元気になったのか」と思う人もいるであろう。しかし、少し待つ必要がある。この株高は、実はカラクリが満載である。ここ数年、日本銀行はETF、株式市場に投資する金融商品を大量に買い入れてきた。株価が下がりすぎないように市場を支える「最後の砦」のような存在である。「なぜ中央銀行が株を買うのか」と疑問に思う人もいるであろう。しかし理由は単純である。政府が財政支出を絞り、民間企業も投資に尻込みする状況においては、金融政策だけでは経済を回すことができなかったのである。なぜそうなったのか。日本政府は長年、プライマリーバランス(PB)黒字化――すなわち「借金を増やさない目標」にこだわってきた。公共投資や教育・研究開発への支出は抑制され、民間企業は将来需要が見えず、設備投資も賃上げも控えるしかなかった。つまり、「政府が出さない → 民間も動かない」という負の連鎖が続いたのである。日銀はこの状況に痺れを切らし、「株価を上げれば国民の資産も増えるであろう」とETF買いに踏み切ったのである。
しかし問題はここからである。日銀が一度買ったETFは簡単に売ることができない。もし売却したり国債の引き受けを止めたりすれば、市場はパニックとなる。「国が手を引く」と敏感に反応して株価は急落しかねないのである。したがって、ETF問題は日銀の単独責任ではなく、財政出動を抑えすぎた政府の長年の政策の帰結である。さらに覚えておくべきは、「国債=借金」という常識はもはや通用しない点である。日本は自国通貨建てで国債を発行でき、日銀が最終的に支える仕組みを持つ。国債を増やすことは、国民の資産を増やすことでもある。しかしPB政策に縛られて財政支出を抑えた結果、国民の資産や経済の活力が削られてきたのである。
結局、株高のニュースは一見明るい話に見えるが、その裏には「政府が出さない → 日銀が穴埋め → 市場は日銀次第」という歪みが隠れている。株価だけを見て喜ぶことは早計である。市場の本当の健康は、政府が財政を活用し、民間が安心して投資できる環境に戻ることにかかっている。自民党総裁選挙で政界は賑わっているが、景気のいいことを口にする者は多いものの、PB政策が日本経済のボトルネックであると明言する候補者は一人もいない。株価の上昇に浮かれる前に、まず目を向けるべきは経済の構造的な問題である。
しかし問題はここからである。日銀が一度買ったETFは簡単に売ることができない。もし売却したり国債の引き受けを止めたりすれば、市場はパニックとなる。「国が手を引く」と敏感に反応して株価は急落しかねないのである。したがって、ETF問題は日銀の単独責任ではなく、財政出動を抑えすぎた政府の長年の政策の帰結である。さらに覚えておくべきは、「国債=借金」という常識はもはや通用しない点である。日本は自国通貨建てで国債を発行でき、日銀が最終的に支える仕組みを持つ。国債を増やすことは、国民の資産を増やすことでもある。しかしPB政策に縛られて財政支出を抑えた結果、国民の資産や経済の活力が削られてきたのである。
結局、株高のニュースは一見明るい話に見えるが、その裏には「政府が出さない → 日銀が穴埋め → 市場は日銀次第」という歪みが隠れている。株価だけを見て喜ぶことは早計である。市場の本当の健康は、政府が財政を活用し、民間が安心して投資できる環境に戻ることにかかっている。自民党総裁選挙で政界は賑わっているが、景気のいいことを口にする者は多いものの、PB政策が日本経済のボトルネックであると明言する候補者は一人もいない。株価の上昇に浮かれる前に、まず目を向けるべきは経済の構造的な問題である。
“日の丸半導体”は復活するか ― 2025年09月13日
北海道・千歳に建設されたラピダスの新工場で、2ナノメートル世代の半導体試作品が完成──2025年7月、日本の半導体業界に久々の「やっと出たか!」という朗報が舞い込んだ。トヨタ、ソニー、NTT、ソフトバンクなど大手8社が資金を出し、政府も1兆円超の補助金を投入する“国策企業”ラピダス。技術的には確かにブレイクスルーだ。しかし、拍手喝采はまだ早い。技術の成功とビジネスの成功は別物である。ラピダスが世界の荒波に揉まれ、真に生き残れるかは、まったく別の問題だ。
思い出してほしい。JDI(ジャパンディスプレイ)やJOLEDの悲劇を。JDIは液晶パネルでAppleに部品を供給していたが、Appleが有機ELに切り替えた途端、需要は激減して奈落の底。JOLEDも独自の印刷方式有機ELを持っていたが、量産化に失敗し2023年に民事再生申請となった。共通するのは、政治優先・補助金依存の硬直体質だ。雇用や既得権益を守ることが最優先で、技術転換や撤退の判断は常に後手に回る。ラピダスも例外ではない。設立時の民間出資はわずか73億円。試作成功後も追加出資は鈍く、市場はその脆弱性を見抜き、資金を渋る。過去の轍を踏むのではないかと懐疑的な声も多い。
ラピダスに立ちはだかる壁は二つある。まず、営業力の弱さ。米IBMとの提携で最新技術は手に入れたが、それを世界中の顧客に売り込む体制は未整備。TSMCやサムスンは、単なる技術力だけでなく、顧客のニーズを細やかに把握し、長年かけて巨大なネットワークを築いてきた。後発のラピダスが「技術あります!」と胸を張ったところで、この牙城を崩すのは容易ではない。次に国内需要の問題だ。いくら国内に最先端工場を作っても、大量に購入してくれる顧客がいなければ意味がない。かつての家電・PCメーカーが主要顧客だった時代は終わった。今の半導体市場を牽引するのはスマホ、データセンター、AIチップを作る企業だ。ラピダス製品を必要とする国内需要は、まだ育っていない。
さらに、政府の一社集中投資という考え方は時代遅れだ。特定企業や技術に巨額を投じ、それが陳腐化すれば全て水の泡。JDIの失敗がその証左だ。液晶にすべてを賭け、Appleが有機ELに移行した瞬間、あっという間に消えた。本当に必要なのは、企業や技術に偏らない分散型のポートフォリオ戦略である。ラピダスの先端ロジック半導体だけでなく、MRAM(磁気抵抗メモリ)、パワー半導体、センサーといった多様な分野への分散投資が欠かせない。
MRAMは次世代の不揮発性メモリで、電源を切ってもデータが消えず、AIやIoT機器の省エネ化に直結する。日本企業は磁気薄膜の微細加工技術に長け、量産化のノウハウも世界屈指。大電力需要の世界の懸念を一気に解決する決め手ともなる。パワー半導体は電気自動車や再生可能エネルギーの心臓部で、高電圧・高耐久デバイスの製造と品質管理で日本は世界的に評価される。センサーも、MEMS(超小型電気機械)技術で世界シェアを握る企業が多数あり、設計から製造、検査までトータルで強みを持つ。こうした技術を組み合わせることで、再び日の丸半導体が世界市場で復活する可能性がある。
ラピダスに続く第二、第三の矢がなければ、日の丸半導体はあっという間に「失敗作」の烙印を押されるだろう。政府は一社集中の幻想を捨て、真の成長戦略を描けるのか。先見の明のある企業トップに任せ、官僚は余計な口出しをせず、政府は分散投資型ポートフォリオ戦略、人材供給、安価な電源確保に集中すべきだ。三菱のスペースジェットのような無様な撤退劇は、二度と見たくない。
思い出してほしい。JDI(ジャパンディスプレイ)やJOLEDの悲劇を。JDIは液晶パネルでAppleに部品を供給していたが、Appleが有機ELに切り替えた途端、需要は激減して奈落の底。JOLEDも独自の印刷方式有機ELを持っていたが、量産化に失敗し2023年に民事再生申請となった。共通するのは、政治優先・補助金依存の硬直体質だ。雇用や既得権益を守ることが最優先で、技術転換や撤退の判断は常に後手に回る。ラピダスも例外ではない。設立時の民間出資はわずか73億円。試作成功後も追加出資は鈍く、市場はその脆弱性を見抜き、資金を渋る。過去の轍を踏むのではないかと懐疑的な声も多い。
ラピダスに立ちはだかる壁は二つある。まず、営業力の弱さ。米IBMとの提携で最新技術は手に入れたが、それを世界中の顧客に売り込む体制は未整備。TSMCやサムスンは、単なる技術力だけでなく、顧客のニーズを細やかに把握し、長年かけて巨大なネットワークを築いてきた。後発のラピダスが「技術あります!」と胸を張ったところで、この牙城を崩すのは容易ではない。次に国内需要の問題だ。いくら国内に最先端工場を作っても、大量に購入してくれる顧客がいなければ意味がない。かつての家電・PCメーカーが主要顧客だった時代は終わった。今の半導体市場を牽引するのはスマホ、データセンター、AIチップを作る企業だ。ラピダス製品を必要とする国内需要は、まだ育っていない。
さらに、政府の一社集中投資という考え方は時代遅れだ。特定企業や技術に巨額を投じ、それが陳腐化すれば全て水の泡。JDIの失敗がその証左だ。液晶にすべてを賭け、Appleが有機ELに移行した瞬間、あっという間に消えた。本当に必要なのは、企業や技術に偏らない分散型のポートフォリオ戦略である。ラピダスの先端ロジック半導体だけでなく、MRAM(磁気抵抗メモリ)、パワー半導体、センサーといった多様な分野への分散投資が欠かせない。
MRAMは次世代の不揮発性メモリで、電源を切ってもデータが消えず、AIやIoT機器の省エネ化に直結する。日本企業は磁気薄膜の微細加工技術に長け、量産化のノウハウも世界屈指。大電力需要の世界の懸念を一気に解決する決め手ともなる。パワー半導体は電気自動車や再生可能エネルギーの心臓部で、高電圧・高耐久デバイスの製造と品質管理で日本は世界的に評価される。センサーも、MEMS(超小型電気機械)技術で世界シェアを握る企業が多数あり、設計から製造、検査までトータルで強みを持つ。こうした技術を組み合わせることで、再び日の丸半導体が世界市場で復活する可能性がある。
ラピダスに続く第二、第三の矢がなければ、日の丸半導体はあっという間に「失敗作」の烙印を押されるだろう。政府は一社集中の幻想を捨て、真の成長戦略を描けるのか。先見の明のある企業トップに任せ、官僚は余計な口出しをせず、政府は分散投資型ポートフォリオ戦略、人材供給、安価な電源確保に集中すべきだ。三菱のスペースジェットのような無様な撤退劇は、二度と見たくない。
80兆円の不都合な真実 ― 2025年09月07日
トランプ大統領と日本政府が打ち出した「総額80兆円(5,500億ドル)規模の対米投資枠」。ホワイトハウスは「大統領の指揮下で進める」と誇示し赤沢大臣は「日米関係の深化に資する」と胸を張って答えたが、その中身をのぞけば、絵に描いた餅どころか、日本の財布を差し出す危うい構造が浮かび上がる。日本企業の対米投資は、ここ数年でも年間9兆円前後。これをいきなり30兆円級に膨らませる? 採算、リスク、制度──どこを切っても現実離れした話だ。政府は「民間主導」とうたいながら、実態はJBICやNEXIといった政府系金融が融資・保証で穴埋めする仕組み。企業に米国投資額の法的な義務はなく、負担が重くのしかかるのは結局「国」=国民の財布だ。
さらに米側のファクトシートには衝撃的な文言が並ぶ。案件の承認権は大統領にあり、利益の9割は米国側へ。日本側は「それは株式投資部分の話。融資や保証には金利や保証料収入がある」と弁明するが、米国が「9割」と言い切っている時点で、国民にとって不利な構造であることは隠しようがない。担保や返済リスクも霧の中だ。JBICやNEXIは本来、資産や収益権を担保にするのが常識だが、今回の枠組みで同等の条件が確保されているかは一切明らかにされていない。政府は「心配ない」と繰り返すが、条項非公開のまま赤沢氏曰く「黄金の未来」をうたうのは、空疎なレトリックにしか聞こえない。
さらに一部には「日本が1兆ドル超を保有する米国債を背景資産のように使える」との発想まで飛び出す。しかし米国債は確かに世界で最上位級の担保資産だが、日本にとっては為替市場安定のための外貨準備。財務省も「交渉カードに使うことはない」と明言している。国民資産を米国の投資リスクに差し出すなど、制度的にも政策的にも到底許されない話だ。メディアもこの点を十分に掘り下げていない。利益配分の不公平には触れても、肝心の担保や返済リスクには踏み込まない。制度の複雑さに甘えた報道の怠慢か、それとも「政治的配慮」という名の自主規制か。
赤沢大臣が語る「日米の黄金の未来」とやらは、耳障りこそ華やかだが、実態は日本の制度的自壊の序章にしか映らない。真に問われるべきは、米国の喝采を誘う大風呂敷ではなく、国民資産をいかに守るかという冷徹な制度設計と説明責任である。しかし、関税交渉に「最後まで責務を果たす」と見得を切った石破首相は、その本質には一切関心を示していないように見える。
さらに米側のファクトシートには衝撃的な文言が並ぶ。案件の承認権は大統領にあり、利益の9割は米国側へ。日本側は「それは株式投資部分の話。融資や保証には金利や保証料収入がある」と弁明するが、米国が「9割」と言い切っている時点で、国民にとって不利な構造であることは隠しようがない。担保や返済リスクも霧の中だ。JBICやNEXIは本来、資産や収益権を担保にするのが常識だが、今回の枠組みで同等の条件が確保されているかは一切明らかにされていない。政府は「心配ない」と繰り返すが、条項非公開のまま赤沢氏曰く「黄金の未来」をうたうのは、空疎なレトリックにしか聞こえない。
さらに一部には「日本が1兆ドル超を保有する米国債を背景資産のように使える」との発想まで飛び出す。しかし米国債は確かに世界で最上位級の担保資産だが、日本にとっては為替市場安定のための外貨準備。財務省も「交渉カードに使うことはない」と明言している。国民資産を米国の投資リスクに差し出すなど、制度的にも政策的にも到底許されない話だ。メディアもこの点を十分に掘り下げていない。利益配分の不公平には触れても、肝心の担保や返済リスクには踏み込まない。制度の複雑さに甘えた報道の怠慢か、それとも「政治的配慮」という名の自主規制か。
赤沢大臣が語る「日米の黄金の未来」とやらは、耳障りこそ華やかだが、実態は日本の制度的自壊の序章にしか映らない。真に問われるべきは、米国の喝采を誘う大風呂敷ではなく、国民資産をいかに守るかという冷徹な制度設計と説明責任である。しかし、関税交渉に「最後まで責務を果たす」と見得を切った石破首相は、その本質には一切関心を示していないように見える。
「相互関税」違法判決 ― 2025年08月31日
トランプ政権が発動した「相互関税」などの措置について、米連邦高裁は「法律違反」と断じる判決を下した。この判決は、単に政策の是非を問うだけでなく、現代の国際関係、特に民主主義国家間における外交のあり方に根本的な問いを投げかけている。トランプ政権が関税措置に用いたのは、IEEPA(国際緊急経済権限法)という特例ルールだった。これは、大統領が「国家の非常事態」を宣言すれば、議会の承認なしに関税を課すことができる、非常に強力な権限を大統領に与える法律だ。通常、関税の賦課は議会の専権事項であり、このIEEPAはあくまで例外中の例外として、国家の緊急事態に限定して適用されるべきものだ。しかし、裁判所はこの「非常事態」という大統領の主張に真っ向から異議を唱えた。判決の骨子は、「貿易赤字や麻薬の流入は恒常的な問題であり、緊急性はない」というものだ。つまり、トランプ政権が非常事態と称して発動した関税措置は、法律の趣旨を逸脱したものであり、手続きとして違法であると断定された。この判決は、大統領の権限濫用に対する司法の明確な歯止めとして、大きな意味を持っている。
この裁判が突きつけたのは、単なる法律の解釈を超えた、より深い問題だ。それは、自由主義国家において、議会を通さずに外交交渉を進めることが許されるのかという、民主主義の根幹に関わる問いである。トランプ政権は、他国との間で、議会の承認を必要としない「大統領令」による合意を多用した。この手法は、交渉のスピードを上げる利点がある一方で、議会の関与がなければ、国民の意思が十分に反映されず、また政権交代によって合意が簡単に反故にされるリスクを孕む。特に日本との関係においては、この米国の「制度的矛盾」が顕著に表れた。当初、米国政府は「大統領令だけで済ませる」として、合意内容の文書化を避けようとした。これは、議会に縛られずに大統領の権限で全てを決定したいという思惑の表れだ。しかし、裁判の流れが不利になると、米国政府は態度を一変させた。ラトニック商務長官は突如、「週内に発表する」とまで明言し、日本に対し、5500億ドル(約80兆円)規模の対米投資を盛り込んだ共同文書を作成するよう要請した。この方針転換は、合意の存在を「文書」という形で示すことで、裁判や議会への“言い訳”を作ろうとした狙いがあったと見られている。
つまり、米国は「議会の承認は避けたいが、合意はあったことにしたい」という、制度的に矛盾した二重戦略を取っていたのだ。この米国の“揺れ”に、日本政府は翻弄された。赤沢経済再生担当大臣は当初、「文書は不要。信頼があれば十分」と述べていたが、米国側の突然の発表を受けて慌てて渡米。しかし、今度は「文書作成は米側の都合」と発言し、さらに「大統領令の日付が決まらない」として訪米を中止するなど、方針が二転三転した。まるで、米国の制度的矛盾に巻き込まれ、右往左往しているようだった。この一連の出来事の本質は、文書があるかないかという形式的な問題ではない。真に問われるべきは、議会の承認を経ないまま、自由主義国家同士が外交交渉を進めることの是非である。文書がなければ、誰が何を約束したのかが曖昧になり、政権が変われば「そんな話は知らない」と言われかねない。また、議会が関与しなければ、国民の意思が反映されず、説明責任も果たされない。これは、外交の透明性や安定性を大きく損なうものだ。
自由主義国家の外交は、国民の代表機関である議会の承認と監視のもとに行われるべきだ。今回の判決は、その原則を改めて思い起こさせるものだった。米国の制度的矛盾に振り回されることなく、日本は自国の民主主義の原則に基づいた、安定した外交のあり方を再構築する必要があるだろう。それにしても赤沢氏の対応は原理原則を語らずに、ころころと言い分を変えてしまい政治家としての矜持がまるで感じられない。政治家としての資質なのか、石破政権の資質なのかは定かではないが、交代が必要なことは確かだ。
この裁判が突きつけたのは、単なる法律の解釈を超えた、より深い問題だ。それは、自由主義国家において、議会を通さずに外交交渉を進めることが許されるのかという、民主主義の根幹に関わる問いである。トランプ政権は、他国との間で、議会の承認を必要としない「大統領令」による合意を多用した。この手法は、交渉のスピードを上げる利点がある一方で、議会の関与がなければ、国民の意思が十分に反映されず、また政権交代によって合意が簡単に反故にされるリスクを孕む。特に日本との関係においては、この米国の「制度的矛盾」が顕著に表れた。当初、米国政府は「大統領令だけで済ませる」として、合意内容の文書化を避けようとした。これは、議会に縛られずに大統領の権限で全てを決定したいという思惑の表れだ。しかし、裁判の流れが不利になると、米国政府は態度を一変させた。ラトニック商務長官は突如、「週内に発表する」とまで明言し、日本に対し、5500億ドル(約80兆円)規模の対米投資を盛り込んだ共同文書を作成するよう要請した。この方針転換は、合意の存在を「文書」という形で示すことで、裁判や議会への“言い訳”を作ろうとした狙いがあったと見られている。
つまり、米国は「議会の承認は避けたいが、合意はあったことにしたい」という、制度的に矛盾した二重戦略を取っていたのだ。この米国の“揺れ”に、日本政府は翻弄された。赤沢経済再生担当大臣は当初、「文書は不要。信頼があれば十分」と述べていたが、米国側の突然の発表を受けて慌てて渡米。しかし、今度は「文書作成は米側の都合」と発言し、さらに「大統領令の日付が決まらない」として訪米を中止するなど、方針が二転三転した。まるで、米国の制度的矛盾に巻き込まれ、右往左往しているようだった。この一連の出来事の本質は、文書があるかないかという形式的な問題ではない。真に問われるべきは、議会の承認を経ないまま、自由主義国家同士が外交交渉を進めることの是非である。文書がなければ、誰が何を約束したのかが曖昧になり、政権が変われば「そんな話は知らない」と言われかねない。また、議会が関与しなければ、国民の意思が反映されず、説明責任も果たされない。これは、外交の透明性や安定性を大きく損なうものだ。
自由主義国家の外交は、国民の代表機関である議会の承認と監視のもとに行われるべきだ。今回の判決は、その原則を改めて思い起こさせるものだった。米国の制度的矛盾に振り回されることなく、日本は自国の民主主義の原則に基づいた、安定した外交のあり方を再構築する必要があるだろう。それにしても赤沢氏の対応は原理原則を語らずに、ころころと言い分を変えてしまい政治家としての矜持がまるで感じられない。政治家としての資質なのか、石破政権の資質なのかは定かではないが、交代が必要なことは確かだ。
繰り返す国債費過去最大報道 ― 2025年08月29日
またしても「国債費が過去最大」という見出しが新聞を飾った。2026年度の予算案で、国の借金の返済や利息の支払いに使われるお金が32兆円を超えるという。利息だけでも13兆円。これを見て「国の財政は危ない」と思った人も多いだろう。だが、こうした報道は、肝心なことを語っていない。むしろ、語るべきことを意図的に避けているようにすら見える。、国が支払う利息のうち、かなりの部分は日本銀行が受け取っている。そして日銀は、その利益を国に戻している。つまり、国が払って国に戻る。これを無視して「利息が財政を圧迫」と騒ぐのは、制度の仕組みを知らないか、知っていても伝える気がないかのどちらかだ。
さらに、国の借金は、国民の資産でもある。銀行や保険会社、年金の運用先として、国の借金は安全で安定した収入源になっている。国が借金をすることで、民間にお金が流れ、生活の安定につながっている面もある。これを「借金が増えたから危機だ」とだけ言うのは、あまりに一面的だ。それでも政治家は「財源がない」「将来世代へのツケ」と言って、増税か支出削減かの二択に持ち込む。これは、政策の選択を避けるための常套句だ。本来なら「何に使うか」「どう使うか」を議論すべきなのに、「お金がないからできない」で終わらせる。これでは、責任ある政治とは言えない。
財務省は毎年の予算案で「借金の返済が増えているから、他に使えるお金が減っている」と強調する。メディアはそれをそのまま報じる。編集部に制度の仕組みを理解している人がいないのか、あるいは「わかりやすさ」を優先して、複雑な話を避けているのか。どちらにせよ、国民には「節約が正しい」「借金は悪い」という空気だけが残る。だが、国の財政は家計とは違う。家計は収入の範囲でやりくりするしかないが、国にはお金を生み出す力がある。その力をどう使うかが問われるべきなのに、「借金が増えたから節約しよう」という話ばかりが出てくる。これは、制度の本質を見失った議論だ。
そして何より問題なのは、こうした報道が国民の不安を煽るだけで、制度の仕組みや選択肢を示さないことだ。国の財政は、単なる数字の話ではない。暮らしに直結する制度の話であり、政治の責任の話でもある。それを「借金が増えたから危機だ」とだけ伝えるのは、報道の怠慢であり、政治の逃げ口上に加担しているようなものだ。国の財政を語るなら、まず制度の仕組みを正しく伝えること。そして、何にどう使うかを議論すること。それができないなら、報道も政治も、国民の信頼を得る資格はない。
さらに、国の借金は、国民の資産でもある。銀行や保険会社、年金の運用先として、国の借金は安全で安定した収入源になっている。国が借金をすることで、民間にお金が流れ、生活の安定につながっている面もある。これを「借金が増えたから危機だ」とだけ言うのは、あまりに一面的だ。それでも政治家は「財源がない」「将来世代へのツケ」と言って、増税か支出削減かの二択に持ち込む。これは、政策の選択を避けるための常套句だ。本来なら「何に使うか」「どう使うか」を議論すべきなのに、「お金がないからできない」で終わらせる。これでは、責任ある政治とは言えない。
財務省は毎年の予算案で「借金の返済が増えているから、他に使えるお金が減っている」と強調する。メディアはそれをそのまま報じる。編集部に制度の仕組みを理解している人がいないのか、あるいは「わかりやすさ」を優先して、複雑な話を避けているのか。どちらにせよ、国民には「節約が正しい」「借金は悪い」という空気だけが残る。だが、国の財政は家計とは違う。家計は収入の範囲でやりくりするしかないが、国にはお金を生み出す力がある。その力をどう使うかが問われるべきなのに、「借金が増えたから節約しよう」という話ばかりが出てくる。これは、制度の本質を見失った議論だ。
そして何より問題なのは、こうした報道が国民の不安を煽るだけで、制度の仕組みや選択肢を示さないことだ。国の財政は、単なる数字の話ではない。暮らしに直結する制度の話であり、政治の責任の話でもある。それを「借金が増えたから危機だ」とだけ伝えるのは、報道の怠慢であり、政治の逃げ口上に加担しているようなものだ。国の財政を語るなら、まず制度の仕組みを正しく伝えること。そして、何にどう使うかを議論すること。それができないなら、報道も政治も、国民の信頼を得る資格はない。